よくわかる田和山遺跡

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どこにありますか?

 島根県松江市乃白町にあります。

いつ頃の遺跡ですか?

 今から約2200年前の弥生時代前期後半からちょうど2000年ぐらい前の弥生時代中期末にかけての遺跡です。

何がみつかりましたか?

 遺物としては土器・石鏃・環状石斧・つぶて石・銅剣形石剣などが見つかっています。
 遺構としては3重の環壕、その内側からは総柱建物跡・柵列・加工段があり、外側からは住居跡・焼土などが見つかっています。

どんな遺跡ですか?

 山頂部を3重の壕が取り囲んでいて、その山頂部には通常の住居とは考えにくい建物跡が2棟あり、周囲を柵列で囲まれています。
 大小1つずつの建物があり、2間×2間の9本柱の建物と1間×1間の5本柱のものがあります。小さい方は物見やぐらではないかと考えられているようです。
 厳重に取り囲まれた環壕と環壕内からつぶて石が3000個近く、またサヌカイト製や黒曜石製の石鏃があわせて150個近く見つかっていることなどから実際に戦闘が行われたのではないかと考えられています。これに対して模擬戦だと考える研究者もおられます。
 また環壕の内部の面積が狭く建物も小さいものが2棟というわりに、厳重に守られていることなどから何か神聖な空間だったのではないかとも考えられています。

どのへんが重要なの?

 遺跡の継続する時期が青銅器が大量に出て国史跡にもなった神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡とほぼ同じであることから、当時の青銅器の祭りを行っていた出雲社会を考える上で非常に重要な鍵を握っている点。
 ふつう環壕集落や高地性集落にみられるような住居址などが認められず、逆に環壕の外から見つかるという全国的に見ても類例がない点。環壕がコンパクトにまとまっていて全体の様子がわかるという残り具合も非常に良い点。
 それから遺跡に立った時に宍道湖や松江市街、神奈備山である茶臼山、条件さえ良ければ遠く大山まで360度ぐるりと見渡せる眺望の良さは現代の私達にとってもかけがえのないものだという点などが挙げられます。

周りの遺跡との関係は?

 北東約250mの低丘陵先端部に友田遺跡がありました。友田遺跡は弥生時代の中期から後期にかけての墳墓群です。墳丘墓6基は中期中葉から後葉のもので副葬品はわずかに管玉2個のみです。土壙墓26基は中期のもので、勾玉、管玉、石鏃、土器などが出土しています。四隅突出型墳丘墓1基は先述の土壙墓12基を壊した上部に築かれています。
 田和山との関係でよく取り上げられるのは土壙墓に副葬された石鏃です。調 査が行われた時にはあまりその理由がはっきりとしなかったようですが、田和 山遺跡が見つかったことで当時の緊張関係を示すものと考えられているようで す。
 その石鏃ですが、山陰ではふつう隠岐島産の黒曜石が地理的にも入手しやすく主流であるのに対して、田和山遺跡と友田遺跡ではサヌカイト製の石鏃の方が数が多いのです。このような例は他に今のところ知られていません。この2遺跡の間に密接な関係があったのはまず間違いないと思われます。
 このように田和山遺跡は周辺の遺跡と合わせて考えなければいけません。3重に環壕をめぐらすという一大土木工事は環壕の外で見つかった住居跡に住んでいた人たちだけではとてもできなかったはずで、他にもたくさんの人手がいると考えられます。このような人たちが住んだ場所が周辺にきっとあるはずですが、現在のところ見つかっていません。候補地としては松江農林高校の農場にある欠田遺跡があります。
 田和山遺跡を考えるにはこうした周辺の遺跡との関わりも合わせて有機的に考える必要があります。そのためには友田遺跡など周辺の多くの遺跡が消滅してしまっている現状では田和山遺跡の存在がより重要になっています。

どうして問題になっているの?

 松江市が老朽化の進んだ市立病院を移転しようとしました。その候補地は6箇所ほどありました。その中から田和山遺跡のある場所が候補に選ばれました。それで調査が始まったわけです。
 しかし当初はこれほどの遺跡があるとは予想だにされていませんでした。環壕を掘った土を積んだ土手を古墳だと思っていたようです。そして調査が進むに連れて全国にもほとんど類例を見ないような遺跡であることが明らかになりました。
 そこで田和山遺跡を考える会や島根考古学会などが保存を要望しました。しかし松江市はそこに病院を建てることを変更しようとはせずに、記録保存の方針を変えなかったために裁判で争われることになりました。
 そして、裁判の進行とともに市民の保存運動も高まり文化庁が国史跡としての価値を認めるようになり松江市側もほぼ全面保存に方針転換しました。現在は遺跡に隣接する計画になっている病院といかに両立させるかが問題とされています。

裁判では何が争われていたのか?

 もともと田和山丘陵というのは1990年代の初めに宅地造成で開発されそうになりました。その時は丘陵の南半分の田和山1号墳が調査されました。
 その結果乃木地区の歴史を語る重要な遺跡ということで現状保存されることになり、丘陵全体を松江市が買い上げました。そして松江市自然学習の森として整備されていました。
 そのような経緯がある土地に病院を建てようとすること自体おかしいと思うのですが、移転先の第1候補に決まりました。その市立病院の移転先6箇所の立地検討の経過が不透明であり、まず初めにもう田和山に病院を建てることが決まっていたという節がある点。
 それから当初は古墳と予想して立地を検討していたのに全然違っていたわけです。しかも、全国的に見ても重要な遺跡であるのだから、そこでもう一度遺跡の評価やり直し立地の検討をするのが、文化財を守るべき立場としては本来の姿であるのに、記録保存の方針を変えずに開発を押し進めようとするのはおかしいではないかという点などが争点で、そういったことに公金を支出するのはいけないということで訴えられていました。
 裁判は被告の松江市側のほぼ全面保存への方針転換にともない、その意義を失い原告が訴えを取り下げるかたちで終結しました。

田和山遺跡の画像

1999年5月8日の新歓遺跡見学会で撮影

1999/11/4 up

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2001年3月29日更新
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