長野氏全盛の時代  箕輪城の落城と長野氏滅亡  箕輪城の検証



新しい力武士の時代へ
武士の時代   長野氏と箕輪城


天仁元年(1108年)7月、浅間山が大噴火をして大量の火山灰を東方に降らせ、田畑が埋没しました。
このような荒廃した土地を開発すると、当時は荘園として認められ、
それを守るためには武士が必要になりました。

箕郷町の和田山の地名は鎌倉幕府の有力武士和田義盛の子で八郎義国が住んでいたためと言われています。
その後、「和田記」によると和田氏は赤坂(高崎市)に移り住み、地名を赤坂から和田に変え和田城を築いたと伝えられています。

鎌倉時代と思われる武士団の館跡が最近和田山で発掘されました。
榛名山の伏流水での湧水地帯で、豊富なわき水を利用して、
早くから水田が開発されてきた地域です。
この地域は、長野氏の有力な家臣団が居住し、その砦跡が白川や
下芝にありました。
和田山館跡



長野氏と箕輪城

長野氏はその出身を有原業平と伝え、石上姓を名乗り、東国に下ってきても有原氏の氏神布留社を祭っていました。永正6年、長野氏の館を訪れた連歌師宗長は「此別当、俗に長野、姓石上也(中略)布留社あり」(東路の津登)と記しています。布留神社の別当はもとは石上姓で、この地に土着して長野と名乗るようになったと言います。

浜川付近に土着した石上氏は、この地方が古くから長野郷と呼ばれていたので、地名を氏の名字として長野氏を名乗るようになり、白川から取水した用水(長野堰)開発もおこない、14世紀末から寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺館・乙業館など多くの館が作られた。
それらの館は水堀で囲まれていて、その水は防御用と共に田用水のため池代わりに利用されていました。
隆業の子業尚の代になると、関東各地で戦いが続き社会不安の中で、業尚は要害の地に築城する必要に迫られ、15世紀末に下室田の小山の上に鷹留城を築きました。
また、浜川に近く、白川の断崖と椿名沼のある箕輪にも築城し、榛名山東南ろく一体を固め、西上州の有力武士団に成長しました。

1560年代の箕輪城の図 西上州にあった長野氏の城の分布図

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