FC乙女の祈りとは・・・


サッカーをする者が追い求め,世界の人々を熱狂へと駆り立て,4年に一度訪れる夢の舞台「World Cup」.今やオリンピックを遙かにしのぐ世界最大のイベントとなったこの大会は,1930年に開催国わずか13ヶ国でどうにかはじまった第一回大会以来,数多くの伝説を,綺羅星のごとく輝いた英雄達を,そして数え切れない栄光と挫折を生み出し続けてきた.その総てを無言で見守り続けるモノがある.それが世界にたった一つしかない「World Cup」.またの名を,World Cup開催に最大の人力をつくしたFIFA第3代会長ジュール・リメの名をとって「ジュール・リメ杯」ともいう.重さ1800グラム,高さ30センチ,彫刻家アベル・ラルフールがデザインした,その黄金に輝く優勝トロフィーには2体の女神が描かれている.
なんて話とは全く関係なく,「語感」だけで我がチーム創立メンバーである小澤岳人が提案し,「青葉山カップ」という,東北大学で開催されていたリーグ戦のエントリー時に,他にろくな候補が無かったことから,キャプテン・鈴木健彦が決定した.1998年6月のことだった.
ちなみに他の候補は・・・
といった具合.
東北大学学友会E.S.S.部の1995年部員が,空いた時間にすぐ近くのハンドボールコートに入り込んでミニサッカーをしていたのが,始まりである.2年間ほどは,たまにやるだけだったが,1998年のワールドカップ・アジア予選が佳境になってきた頃から毎週集まり,部員の知り合いや,コートに入ってきた人たちを加えてミニサッカーをするようになった.ハンドボールコートの管理人との果てることのない戦いを交わしながら,活動してきた.フルコートデビューは1998年7月に行われた「青葉山カップ」.以来,T-league(フルコート),泉パークタウンのフットサル大会等に参加,毎週金曜日は牛越橋で,土曜日にはハンドボールコートで活動中.
ユニフォームを購入する案はチーム名決定当時からあったが,紅白戦とかやるときにも,試合にも使えると言うことで,その時はユニフォームを買わずに,オレンジ色のビブスを購入した.現在のブラジルのユニフォームをそろえたのは1999年の6月.旧柏木宅でズッキー,マイク,がっしー,柏木,石杜,伊藤等が話し合い,石杜の「カメルーンがいいよ」というささやかな抵抗をよそに,「安い」という理由からオランダの復刻版ユニフォームに決定した.そして数日後,ユニフォームの手配をしていた人たちから手渡されたユニフォームは皆が思っていたオレンジ色の「オランダ」ではなく,目にもまぶしいカナリア色に輝く「ブラジル」だった.その買いに行った人たちの中の一人・柏木が言うには,「オランダのを買いに行ったら,『ない』っていわれたからさー.イングランドはそろわないらしいし.いいよねー.」とのこと(大体ノンフィクション).
2000年春.「FC乙女の祈り」が「FC乙女の祈り」でなくなる可能性が出てきた.以前より「この名前を人に言うのが恥ずかしい」,「説明するのが大変」,「ちょっとやだな(ボソッ)」という意見が出てきていたため,チーム名を変えようと言う動きが出てきたのだ.これらの意見も尊重するため,部会において新たなチーム名の決定方法が定められた.「自分がつけたいチーム名を新入部員募集のチラシに載せて,一番多くの新入部員を呼び込むことが出来たチラシに付いていた名前を新たなチーム名とする」というものである.

チーム名はどうなるのか?
このまま「FC乙女の祈り」で行くのか?それとも別な名前になるのか?
っていうか,新入部員が入るのか(最も重要)?
それは神のみぞ知る.

Apl. 2000


いつの間にか時間は流れ、我がFC乙女の祈りはそのまま「FC乙女の祈り」として続けることが暗黙のうちに決まった。誰も代案を出さなかったからである。決して新人がこなかったわけではない。伊藤の作った新人勧誘のチラシを理学部、工学部、機械系、科学系のおのおのの掲示板に貼ったところ、それを見た人が数人入ってきた。各自の研究室の後輩なども数人入ってきて、各ポジションにおいて互いにレベルを高め会う相手ができるほどの人数が集まるようになった。「第3期FC乙女の祈り」は更なる高みに向かって動き始めた。

Jul. 2000


突然そのときはやってきた.今まで慣れ親しんできた「レトロブラジル」のユニフォームを脱ぎ捨て,新たな戦闘服に身を包む時が.背番号の欠番もでてきたことだし,新戦力を加えたチームにとって,今までのチームから進化するんだという意気込みを示すためにも必要だったのだ・・・ということもなきにしもあらずといったところで,本音は「だって,飽きるじゃん(マイク談)」だった.話し合って何にするか決めるべきと言う意見も出たが,「買ってくればみんなお金払うから大丈夫」というキャップの言葉通りに話は進んでいく.翌日メーリングリストに「ユニフォーム買うよ.日本代表の青いのが紺のやつ(要約)」と流れ,更にその翌日「頼んできたからお金持ってきて(要約)」と流れていた.更にその週の金曜日.そのユニフォームが到着していた.今回も石杜の「カメルーンがいいよ(ぼそっ)」という願いは実らなかった

Aug. 2000


味方にするとかなり心強いが,敵(グラッシーズ)に回すとすごくイヤ(ボールとれないし)なセクシープレイヤー・大久保,チーム1の気配り上手&ミスター胸ミドル・サワノ,負傷に泣いた(かどうかまでは不明だが,負傷してから1年半かかっても復帰することはなかった)サイドアタッカー・ヒロ,そしてまさにチームの「大黒柱」であった不動のキャプテン(であり,かつ,FW嫌がらせ王)・ズッキーという,チームの設立メンバーが仙台を離れていった.

抜けていくものがあれば,新たに加わるものもあり,マイクがキャプテンとなって2001年度のFC乙女の祈りは活動を開始した.

Apl. 2001


就任する前からわかっていたことだが,1年の半ばにして2代目キャプテン・マイクはこのチームを去ることになった.創立から遅れること一年経ってから参加したものの,そのキャラクター,サッカーに対する姿勢,そしてプレー(と声(「俺にパスだせっ!」))などでもってチームの柱となっていた.チームにとって久々の公式戦であるチャンピョンシップトーナメントを翌日に迎えた6月30日の靱帯損傷によって自らがプレーすることはできなかったが,それでも精神的な支柱であり続けた.自分のポジション・ストライカー,自分のユニフォーム・背番号11,左腕に巻いたキャプテンマーク,そしてサッカー魂をチームに残してマイクは去った.新天地,アメリカへ.

マイクからキャプテンマークを受け継ぎ,ズッキーから背番号10を引き継いだ源太を中心として,再びFC乙女の祈りは歩み始める.

Aug. 2001

Back to Top Page