03.12.09 112段 あはれなるもの

 『紫式部日記』 における清少納言評は辛らつを極めているが、それにはこの、第112段「あはれなるもの」が一因となっている(枕草子大事典)。しかし宣孝の御嶽詣は990年のことであって紫式部が宣孝と結婚したと推されるのが998年。この商談の執筆時期は1000年以後で、紫式部が枕草子を披見したのが1001年ごろ。紫式部日記が執筆されるのはそれから7,8年もあとのことである。にもかかわらず、彼女は清少納言に、その間ずっと個人的な怨念を持ち続けていたのだろうか。
 @この章段を読んで、紫式部が不快に思ったことは確かであろう。しかし源氏物語執筆中もずっと怨念を持ち続けていたとも考えにくい。消極的で内向的な紫式部にはこの怨念を晴らす場所がなかったのではないか。そして『紫式部日記』執筆中にたまたまそのことが頭をよぎったのではないか(小原麻衣子氏)
 A清少納言と紫式部の性格が正反対であることは、様々なところから覗える。例えば宮仕えに対する意識である。紫式部は宮仕えを重荷だと思っていたようだし、出仕生活になじんでいくこと自体、うとましいと自己嫌悪を覚えていたようだ。しかし清少納言は、自分の境遇を誇らしく思い、宮仕え生活を大いに楽しんでいた。また交友関係や、その意識にも大きな違いがある。
 B紫式部は清少納言の才能を恐れ、意識していたのではないか。漢学の才についても、清少納言を批判しているが、『紫式部日記 』には自分の才を遠まわしに自慢するような場面がある。また開放的な態度で人に漢学の才を披露している清少納言の華やかな社交ぶりに、嫉妬を感じていたのではないかとも考えられる。なにかにつけて無情の世の道理であると考えた紫式部であったが、清少納言批判の箇所ではずいぶん私情が出ているように思う。
 C紫式部が中宮定子に出仕する数年前に、すでに宮仕えを辞していたとみられる清少納言なので、ふたりが直接顔をあわせるようなことはなかったはずである。しかも『紫式部日記』のこの記事は1009年ごろであるので、道長の全盛期をよそに清少納言は零落した身をどこかに寄せていたと見られる時期である。つまり、紫式部にとって清少納言はもう対抗意識を燃やす相手ではなかった。しかしだからこそこれほどまでに批判できたのではないか。紫式部にとって清少納言は、人から聞いたり『枕草子』を読んで想像したりと、彼女の頭の中でしか生きていなかった。生身の人間として捉えられなかったからこそ、私情が出てしまうような批判ができたのではないだろうか。
 以上のことから考えるとやはり『紫式部日記』における清少納言批判には『枕草子』112段「あはれなるもの」は直接関係していないように思われる。むしろ、自分とは正反対で自分にはできないこともやってのけた清少納言への羨嫉の気持ちが強くあらわれているのではないか。そして、直接に顔をあわせたことがなかったため、清少納言の想像はどんどんふくらみ、中宮定子の女房、中宮彰子の女房という関係も手伝って、すでに「過去の人」であった清少納言に攻撃的であったのではないだろうか。また、清少納言の人柄から考えて、この段では宣孝に揶揄したり批判を加えたりしてはいなくて、寧ろ根拠のない因習にとらわれない果敢な姿を褒め称えているようにも覗える。もしかしたら紫式部もそれをわかっていたのかもしれない。それでもあれだけ個人的、私的に批判する所を見ると、紫式部は色々な面で清少納言を意識しすぎていたようにも思われる。