03.12.16 「上に候ふ御猫は」の段

 この段で主人公として登場する翁丸は、人間の支店、特に清少納言の視点から捉えられて話は進んでいく。改めて言っておくと、動物としての翁丸の判断や行動をそのまま理解しようとした形跡が一度もなく、まして翁丸自身の気持ちは清少納言側からの人間のものさしで見た推量をもとに進められていく。要するに、翁丸自身の行動を自分の視点でアレンジしてみる清少納言の意図が確実に存在している。阿部秋生詩はこのことを「まるで吹き語りのような形をとっている」と言っている。この清少納言の視点で捉えられた翁丸の意味するものを考えていきたい。
 日記的章段に「あはれ」の出てくることはほとんどない。枕草子にとって「あはれ」の語は中関白家や中宮定子に対してやはり禁句だったのか。日記段で同情の意味を伴った感慨をあらわす「あはれ」の使用は三例で、うち一例だけ三条宮の記事で定子に使われている。三条宮に帰る以前の定子が出てくる段での「あはれ」の使用は、この翁丸の段で最も多く使われている。しかもこの「あはれ」の向かい手は翁丸のみである。それまで決して描こうとしなかった「あはれ」な定子の姿をそのまま捉え、枕草子の中に書きとめようとしたのではないか。翁丸に対する「あはれ」の言葉は、間接的に定子に対する作者の言葉だったのではないか。定子サロンへの「あはれ」という思いを、翁丸を「あはれ」がるという形をとることで、初めて素直に発することができた。また清少納言の翁丸を擁護しいたわる態度は、主人である定子に対するいたわりの思いのあらわれであったのだろう。
 また、直接的には中関白家を誉めそやすことのできなくなった今、脇役をもてはやすことで、結果的にそんな脇役とそれを感嘆する女房たちを備えた定子サロンを持ち上げる意味を担ったのではないだろうか。異質な笑われ者としての存在である脇役を登場させることで、笑う側である定子サロンの理想世界を維持する役割を担ったのである。
 もう一つ、この翁丸の存在をやはり定子の兄に当たる伊周の歴史的事実を連想させるものであるという説は今では定説になってきているが、このことは否定できないように思われる。小森氏は酷似しているからこそ浮き彫りにされてくる伊周と翁丸の違いにスポットを当て、「翁丸の存在が伊周の罪の浄化という意味をもち生成した」と言っている。同じことが定子に対しても言え、一条天皇が改めて翁丸の罪を許して終わるのは、中関白家への願いであったのだろう。