03.12.16 五月の御精進のほど、職に

 枕草子において重要な柱となりうるテーマに、清少納言の中宮定子に捧げる敬愛があげられる。清少納言と定子の間には単なる主従関係だけではなく、友情にも似た信頼関係が結ばれていたのである。三百段以上にわたる文章の中で定子に関わる回想記録は40数段にわたる。歌人として名高かった元輔の子として生まれ、自身も類稀なる文学的才能を持っていた清少納言。彼女が敬愛し、惜しみない信頼を捧げ続けた定子の人間性、そして清少納言と定子の友情を、女房たちの宮中生活が生き生きと描かれた、いわゆる清少納言たちのちょっとした日常であった「五月の御精進のほど、職に」の段を取り上げ、探ってみたいと思う。
 清少納言ら定子の女房達はこのような外出を比較的自由にすることができた。中宮という身分柄ともに出かけたりすることはなかなかできなかったが定子は女房の風流心に寛容であり、自身も風流を好む心があった。作者はやかましいくらいの郭公の鳴き声を定子にお聞かせできないことを残念に思う。彼女は定子とこの面白さを共感できないことを惜しく思っているのである。郭公の歌を読んでこなかったという作者達に対し。定子はめずらしく不快をあらわにする。風流を愛する定子ゆえ、歌がないことを不満に思ったということもあるが、風流ごとを市ながら歌の一句も詠まないで帰って来たとあれば殿上人などから物笑いの種となってしまう。清少納言もまたそのような定子の気持ちを汲み取り、歌が詠めなかったことを口惜しく思う。それにしても清少納言は何故ここまで歌を詠もうとしなかったのか。無論彼女が歌を全く詠めない人物であるわけがない。社交の場で当意即妙に交わされる和歌などは清少納言の得意とするところであったはずである。しかし「郭公の歌」はそのような贈答歌ではなかったのだ。有名な歌人の血を引いていることを誰よりも自覚しているからこそ、独詠歌を我先にと発表する自信がなかったのであろう。結局郭公の歌を諦めた清少納言に定子は面白くない様子で窘めるが、作者は特に反省もしていない様子で言い返し、また叱られている。この言い合いも、主従関係とは思えないほどの気安さである。そして、清少納言は散散定子から求められた郭公を詠みこんだ歌を作るが、それは「花より団子」と同じ意味になってしまい、定子は更に笑う。清少納言が本気でついそんな歌を作ってしまったというよりは、自分がいかに歌が苦手か、というのを訴えてみようとしたのであろう。定子はもう歌を詠めとは言わないわと笑って答えた。
 清少納言が定子に仕えたのは中関白家の栄華が頂点だった頃の正暦四年から定子が亡くなった長保二年だといわれている。しかし定子が絶頂にいる時期は実は初めの二年程なのである。逆境の時期のほうがはるかに長い。しかし枕草子ではその暗くいたましい姿に触れていない。賛美の仕方に多少変化がみられるが、それでも根底には定子を讃える清少納言の筆を感じることができるのである。
 清少納言と定子はこの段からも感じられるように、お互いを信頼しあい、友情に似た関係で強く結ばれていた。身分を越え二人が築いた友情は、枕草子に綿々と述べられている。苦楽をともにしてきた主従の絆が、そこには鮮やかに描かれているのである。『紫式部日記』にも、女主人彰子に対する紫式部の敬愛が描かれているが、清少納言と定子の親愛に比べると何となく他人行儀に見えてしまう。それは作者の感受性の違いであろうが、女主人の性格の違いと言っても良い。明るい気風の中関白家、当意即妙の会話や明るい笑いの絶えないその世界は、清少納言の性格とぴたりと一致し、それゆえ彼女は自身の才能を発揮しえたのである。彼女が仕えたのが他の主人であったら『枕草子』は生まれなかったであろう。枕草子は定子に仕えたからこそできた、二人の絆で作られた作品なのである。だからこそ枕草子は他にない唯一の輝きを持った文学として愛され続けているのであろう。