第一章 コンセプトとパラダイム

 

  「コンセプト」とは具体的に何なのか?



 
「CONCEPT」と{概念}

 

 「コンセプト」という言葉をよく耳にします。よく使われる方も多いでしょう。
 しかし、「コンセプト」が具体的に何を意味するのかと質問されて、明快に答えられる方はあまりいないのではないでしょうか?

 「コンセプト」は、英語のCONCEPTからきています。
 そこで英和辞典を引いてみと、{概念}のこととあります。

 さらに、{概念}を国語辞典で引いてみると、
「{・・・とは何か}ということについての受け取り方、ないしはそれを表現する考え方のことである」とあります。
 簡潔に言えば、{・・・についての考えないしはその考え方}です。

 ならば、わざわざ「コンセプト」というカタカナ言葉を使わなくても、「概念」と言えばいいではないか、と思いませんか?
 それこそ同じ{概念}の日本語があるのですから。
 きっと、日本語の「概念」ではカバーできないことがあるから、私たちは「コンセプト」というカタカナ言葉をわざわざ使っているのではないか。
 私の「コンセプト」研究は、そんな疑問と直感から始まりました。



 「コンセプト」という外来語は、マーケティング用語として入ってきて、最初は広告業界やデザイン業界、音楽業界などに普及し、その後世間一般に普及しました。
 そこでマーケティング用語として「concept」がどのような意味を担っているか調べてみると、学者たちの間では{戦略的なユニークネス(独自性)}と答える人が多いです。

 ある著名なマーケティングの教授に直接質問したところ、「{戦略的なユニークネス}とは、たとえばボールペンの新商品を開発する際に、従来商品と同じものを出しても売れない。だから、何らかの新規性を盛り込んで差別化をはかる。この売れるための差別化要因のことだ」と説明してくれました。
 この説明はとても分かりやすいが、やはり、ならば「コンセプト」と言わずに「差別化要因」と言えばいいではないか?という疑問を解消してくれません。
 さらに、何気なく教授が使われた「戦略的な」という言葉のニュアンスが気になりました。いまやあらゆる商品やサービスに魅力的な「差別化要因」が必須の「戦術」である状況において、現実味が乏しい。つまり、厳しいビジネスシーンにおける「戦略」という概念の理解に希薄さがある。その希薄さが、私たちが「コンセプト」という言葉を使う際に言葉に込める意味合いの希薄さに、ひいては言葉の理解の不明快さに通じているのではないかと感じました。

 「戦略」という言葉については、様々な概念規定がなされています。
 しかしここでは概念規定はせずに、「戦略の達成すべき目標」から条件規定をします。「戦略」という言葉に込める意味合いの軽い重いでは、達成目標を条件づける以上に重い用語法はないからです。こうした用語法の方が、現実のビジネスシーンでも明快で有意義でしょう。
 この用語法では、「戦略」とは「不可逆的な優位性を獲得する方策」であると規定できます。
 
 {不可逆的}とは、逆転されない、ということです。
 これで、「可逆的な優位性しか獲得しない方策」つまり{逆転される}方策は、単なる「戦術」でしかないと峻別できます。
 商品の差別化要因の場合、競合企業に対して{不可逆的}つまり{逆転されない}優位性を獲得するものは差別化「戦略」であるが、そうでないものは一般的な差別化「戦術」でしかない、ということになります。
 以上のような厳密な意味合いの「戦略」を表現する場合に限り、「コンセプト」というカタカナ言葉をわざわざ使う必然性がある。一般的な「戦術」しか表現していない場合、その使用は軽佻浮薄な横文字好きのカッコつけでしかない。


 いずれにせよ、「戦略的ユニークネス」=「コンセプト」ではあるが、私たち日本人が「コンセプト」という言葉を敢えて使う場合、それに込められる「戦略性」の意味合いの重みや深みは、ボールペンの新商品開発の事例をもってして推し量れるものではありません。
 つまり、アメリカ人がネイティブスピーカーとして英語のCONCEPTという言葉を使う場合には盛り込んでいない日本人ならではの使い勝手がある。私たち日本人は、敢えて「コンセプト」という外来語を使うことで、アメリカ人が英語のCONCEPTを使う場合にはない特別なコミュニケーション効果を無意識に狙っている、私はこのように仮説を立てました。
 この仮説について項を改めて詳しく検証していきましょう。

 

 

 

************************ 閑話休題************************


 「戦略」や「戦術」は、そもそも軍事用語だ。だから戦争の事例をもって説明するのが良い。

 「不可逆的な優位性を獲得する方策」である戦略と、そうでない戦術との次元の違いを理解するには、ベトナム戦争におけるホー・チ・ミンの決断が好例だ。
 彼は、民族の解放という目的のために最善の手段を選択した。
 それは、アメリカとの戦争においてゲリラ戦への誘導、そして戦争の長期化という戦略をとったことだ。
 中国やソ連からの近代兵器の協力も得ることはできたが、それで勝利しても祖国の属国化をもたらすだけとの遠謀深慮からそれに依存することはなかった。結果、アメリカを撤退に追い込んで勝利し、しかもソ連崩壊後の旧東側諸国のような混乱もなく今も市場経済の導入をたんたんと進めている。
 「近代兵器という戦術をあえて採用しない」戦略、つまりゲリラ戦に引き込む戦争長期化によって米国国民の厭戦感の喚起し、娼婦ルートで米軍兵に麻薬を蔓延させるなどの方策が功を奏した訳だ。
(これは、ビジネスシーンにおける、成功的な中小家電メーカーがけっして大手家電が参入してこれない商品ラインアップや販売方法を展開するのと同じ考え方である。)

 戦略は、堅固なヴィジョンという「目的」とそれを達成する明快なシナリオという「手段」についてのトップの英断によって全体のマネジメントを徹底できる時にのみ成功している。
 一方、トップが堅固なヴィジョンもそれを達成する明快なシナリオを持ち合わせず全体のマネジメントを徹底できない時、英断はありえず、戦略は失敗している。そのような体制下でまことしやかに「戦略」と称されているものは、じつは単なる一般的な「戦術」の寄せ集めに過ぎない。

 そうした失敗を理解する好例は、太平洋戦争における日本であろう。
 ここでは前述の成功例との対比で、零戦のことを述べたい。零戦は真珠湾攻撃に使われた21型までは、アメリカのグラマン・ワイルドキャットに対抗する高い性能を誇り、日本の訓練された操縦士の技量もあって優勢に立っていた。しかし、アメリカは撃墜した零戦の残骸を分析してより性能の高いグラマン・ヘルキャットを開発、圧倒的に量産して集団戦を工夫して巻き返した。つまり日本は、ハードウエアとヒューマンウエアという戦術に頼ったことが、一時的に奏功したものの、最終的にはアメリカの飛行機と飛行士の圧倒的な量産により巻き返される結果を導いた、と言っていい。
(これは、劣位家電メーカーが必死に先行開発した新商品を、大手家電メーカーが売れるのを確認してからいっきに量産量販して巻き返すのと同じ推移である。)
 山本五十六は、早期に講和に持ち込むという目的をもっていた。戦局を限定して航空母艦と零戦を駆使して一時的な優位性を獲得することでどうにか目的を達成するシナリオを描いた。しかし、海軍は大艦巨砲主義に進み、陸軍は戦線の拡大と戦争の長期化を鼓舞する。
 そして日本の悲劇は、国の目指すべき将来について確固たるヴィジョンを指し示すトップがいて、陸海の軍部全体の動きを正確に掌握し管理を徹底するということがなかったことだ。
 そんな状況下で国民は、敗戦前から「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」ただただお上の言うことを信じて従っていたのだ。
(これは、経営を傾かせておきながら責任をとらずに合理化とリストラだけを推し進める経営者の雇用者に対している状況と同じである。)

 ホー・チ・ミンの近代兵器に敢えて依存しない方策と、日本の零戦や戦艦大和という当時の先端兵器に望みを託す方策との本質的な違いとは、いったい何だろう。
 それは、ホー・チ・ミンの方策にアメリカが真似のできないベトナム民族ならではの「戦略的ユニークネス」つまり「コンセプト」があったのに対して、日本の方策は、アメリカが真似できる上に物量で巻き返せる「戦術」の寄せ集めでしかなかった、つまり「コンセプト」がなかったことにある。

 

******************************************************

 


 

 



日本人にとっての「コンセプト」という外来語の使用


 日本人が外来語の「コンセプト」をあえて使う場合と、アメリカ人が「CONCEPT」という言い習わした英語を使う場合では、言葉のコミュニケーション作用が異なります。

 そして、日本民族の歴史をかえりみると、特徴的な言葉のコミュニケーション作用に容易に思い当たります。
 そもそも日本民族には、「やまと言葉」なる話し言葉しかなかった。そこに書き言葉が加わる。それは漢字の一部を採用したひらがなとカタカナでした(表音文字、訓読みの世界)。
 やがて為政者が中国にならった律令国家を目指すにあたり、漢語、つまり中国語を織り交ぜてコミュニケーションするようになる(表意文字、音読みの世界)。この融合と現在の日本語にカタカナ英語を織り交ぜてコミュニケーションするのとは、基本的に同じ構造にあります。
 時代は下って明治維新を終えた時の政府は、脱亜入欧を目指して欧米の文物を積極的に導入する。この欧州化政策において、英語や独語の概念が漢語化されて採用されました。たとえば、「広場」という言葉は、open placeという英語の漢語訳として西洋建築とともに登場しました。欧米の文物を導入すると同時に、その概念を漢語化した新しい言葉も導入したのです。「自由」「文明」など、新しい概念はつねに新しい言葉として登場しました。
 さらに時代は下って第二次世界大戦の後、再出発した日本は、為政者ばかりでなく主権をさずかった国民もこぞってアメリカの文物を積極的に導入する。このアメリカ礼賛志向において、アメリカ英語がカタカナ言葉としてその概念とともに多用されるようになったのでした。現在の「デザイン」「ヴィジョン」そして「コンセプト」など、コミュニケーションの鍵を握る主要な概念のカタカナ英語の多用もここに起源をもちます。

 こうした日本民族の外来語の導入と活用の歴史をふりかえると、一つの法則が見えてきます。
 つまり、日本人は、「パラダイムの転換」を求める時、その意志や希望を言葉に託して、先に「パラダイムの転換」を終えた世界からの外来語を意図的に織り交ぜてきた、という法則です。

 (「パラダイム」については、追って詳しく検討しますが、「考え方の基本的な枠組」のことです。)

 この法則によれば、アメリカ人がすでに自らのものとしているパラダイムを、日本人が意識的に導入したいと望む時、そのパラダイムの鍵となる概念を表わす英語をカタカナ言葉として織り交ぜて多用してきた、と考えられます。
 国会中継をみていて、どの政党の政治家も「ヴィジョン」とか「グランドデザイン」、「リスクマネジメント」とか「セーフティネット」とかカタカナ英語を多用します。それは、日本にそうした鍵概念の土台にあるべきパラダイムが現状欠落していることを、はからずも露呈しているのです。

 単なるカタカナ言葉によるカッコつけならば、特定の鍵概念に限る必要はなく、知っている限りの英語をカタカナで織り交ぜればいい。しかし、そんなことをする人は長嶋監督くらいで、若者の中にさえ見い出せません。
 ポップソングの歌詞にも英語のフレーズが織り交ぜられている。しかしそれも、ちゃんとポップソングのパラダイムを規定するキーワード、キーフレーズに限って折り込まれている。若者も、無意識に「君がほしい」ではなく「I want you」でなければならないパラダイムを希求している、ということなのでしょう。

 以上のような日本民族独特の外来語の活用法則を踏まえると、日本人が「コンセプト」というカタカナ言葉を多用する心理には、アメリカ人が「CONCEPT」という英語をネイティブスピーカーとして使う心理にはないものを認めざるを得ません。「概念」とか「戦略的な独自性」といった日本語を日本人が何の力味なく使う場合の心理にはないものを含んでいます。
 さて、それは何なのでしょうか?

 神道的な表現をすれば、日本人は、「パラダイム転換」を狙いそれへの思いを込めて「コンセプト」という言霊を発していると言うのかもしれません。
 ただここでは客観合理的にこのように述べておきましょう。

 {概念}には、そのコミュニケーション作用によって、
 「パラダイムの転換」効果のある{戦略的な概念}
 「パラダイムの転換」効果のない{単なる概念}

の2つに大別される。

 日本人が有意義な言葉使いとして「コンセプト」というカタカナ言葉を意図的に使う場合、それは前者の{戦略的な概念}を意味している。そして意味するだけならば「戦略的な概念」と日本語で言えば足りるのだが、言葉に「パラダイム転換」へのコミュニケーション作用を効果的に発揮させるために外来語を使用する、と。

 前出の教授の説明は、外来語も言霊も関係ないアメリカ人のパラダイムにおける「CONCEPT」の意味をそのまま伝えたものでした。だから、マーケティング学者としてはけっして間違っていません。
 しかし、日本の厳しいビジネスシーンを勝ち抜くため、あるいは社会の閉塞状況を脱するために抜本的な「パラダイム転換」が多方面で求められている今日、私は「コンセプト」という言葉を、「パラダイム転換」を効果的かつ効率的にはかるコミュニケーションの鍵概念として厳密に定義づけることこそ重要だと考えます。
 そこでまず、以下のように「コンセプト」の定義をした上で、本論に入っていきたいと思います。

 

 

「コンセプト」の定義


 「コンセプト」とは、
 何らかのテーマにおける「パラダイムの転換」をはかるための
 戦略的な独自性を示す概念である。