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概念図18 に示すように、
「暮らし種」は、首都圏の通勤サラリーマンの暮らしを典型とします。
まず「通勤時間1 時間○○分、○LDKマンション居住」といった数字と型式で表現される{モノの画一的な機能}を根底にしている。その上に、都心の会社とベッドタウンを満員電車で行き来するロボットの暮らしのような{モノの没個性的な感覚}がのる。最後に、都心の大手企業に勤めるエリート?とか、ローンを抱えながら家を持っていることの安心?といった{コトの皮相的な意味}がトッピングされて、価値形成されています。
(土地神話が健在だったバブル崩壊までは、なるべく早くローンで家を買うことが安心だと誰もが思っていたのです。それが合理的な判断と考えられていましたが、その合理性を成り立たせていた神話パラダイム自体はじつは情緒的なものでした。)
一方、「暮らし態」は、まず心の底から自分らしく生きて自分の「人となり」を生かして暮らすという、言うは易く行うは難い{コトの画期的な意味}を礎とする。その上にそれぞれの「人となり」を生かした自然体という{コトの個性的な感覚}を捉える。最後に、住む環境や住み方など、自分の価値観にもとづいた自分流の暮らし方という{モノの特徴的な機能}が、以上のコトの意味と感覚を具現化するものとして位置づけられて、価値形成されています。
(ちなみに「ローンで家を買うことが安心」と考える人たちは、「暮らし態」志向の人にもいます。ただ彼らが「暮らし種」志向の人と違うのは、晩婚や非婚を選んだキャリアウーマンに象徴されるように、自分独自の人生設計に照らして借家に比較したメリットを計算している所です。「みんなが持ち家だから、いつまでも借家じゃ恥ずかしいから」という情緒的な判断ではないのです。)
「暮らし種」は、モノの送り手=行政+企業の、持ち家政策+住宅大量生産販売という<送り手側のモノ提供の論理>の枠組みにあります。
「暮らし態」は、コトの受け手=生活者の、自分らしい暮らし方という<受け手側のコト実現の論理>の枠組みにあります。
21世紀初頭の現在、おおよそ団塊の世代を中心にした中高年は、住宅に生活と人生を縛られてきました。ローンで経済的に縛られ、遠距離通勤や単身赴任で、時間空間的に縛られてきました。それしか選択枝がなかったからというよりも、バブルまでは人々は競ってそれを目標としてしてきた。つまり借家でなく持ち家ということが{人並み}という誰もが焦がれ得られなければみじめな標準だったのです。(まるで結婚や恋愛とに対する世間の捉え方と同じですね。)
一方、おおよそ団塊ジュニア以降の20代は、「人となり」という自分らしい心の状態を優先して、住宅というモノに生活と人生を縛られることを嫌うようになってきている。住宅の所有にこだわらない価値観が拡大してきています。立派な持ち家でひきこもりの子供を抱えるよりも、粗末な借家で笑顔と笑い声がたえない家族で暮らしたい、そんな気持ちが当たり前になっています。
{モノの人並み}から{コトの自分らしさ}へ、時代は大きく舵をきりました。
トヨタは、かつて「いつかはクラウンに」とキャンペーンをしました。しかし、いまは「アクティブシニアしてますか」と問いかけています。モノを買い揃える未来よりも、コトを自分らしく楽しむ現在を大切にしようと、車を売っている日本を代表する会社までが言うようになったのです。
これまでは、高い住宅が高い稼ぎを要求し、人々を高い稼ぎの「人種」に執着させました。しかし、高い給料の大手企業に勤める「エリートサラリーマン」という「人種」ですら収入の安定を終身確保する時代は終わりました。
親の世代までは、男性が東京に出てくることが、イコール出世することでした。そして「エリート」と呼ばれる「人種」になることが、イコール出世することでした。日本の過剰な中央集権化による過度の東京一極集中は、そうした価値観を強め、またそうした価値観が中央集中を必要以上に極端な形で強めました。
そうした価値観が希薄になってきています。猫も杓子も東京に出てくればいいというものではない。出てこなくても地元ゆえの独創をして、地域経済を活性する本当のエリートだっているし、また必要なのだと理解されてきました。
しかし、首都圏の通勤サラリーマンとその家族の姿は、今も日本人のライフスタイルの標準をしぶとく規定し続けています。
たとえば、あらゆるファミリーレストランが、東京郊外の国道16号線沿いのドーナッツエリアで、テストマーケティングと集中的な店舗展開をしてきました。そして、その沿線の光景は、そっくりそのまま地方の幹線道路沿いの光景となっていきました。つまり、日本人のライフスタイルは、全国画一的な持ち家住宅に始まりスーパーマーケット、ファミリーラストランやファーストフード店、コンビニの全国画一的な近郊展開によって規定されてきたのです。
近代化や都市化というものは、世界中そういう画一化ではあります。しかし、その画一化が短絡的に理想とされ、それだけが徹底的に押し進められたという点において、日本は常に先端であり極端でした。特にヨーロッパは、近代主義に懐疑的な伝統主義が健在で、たとえばアメリカのファーストフード文化に対するスローフード文化を大切にしてきました。そのアメリカですら、ウォルマートのような巨大なナショナルストア・チェーンが存在するものの、じつは地方独自の消費と生活の文化が根強くあります。アジアの主要都市には行けば、屋台市場が食生活の中心になっていたりもします。
こんな話を聞いたことがあります。かつお漁の基地である枕崎のデニーズで、本部のマニュアル通りに、向こうが透けて見えるかつおのたたき定食を出さなけらばならない、まったくお客に見向きもされない、ということでした。また、魚のうまい伊東の大手スーパーでも、本部が築地市場で一括仕入れした魚を扱っているので、地元名産の魚種でも鮮度が落ちていてしかも地元漁協よりも高い、ということでした。今は改善されているとは思いますが、私たち日本人が、生活における根本的に大切な何かを見失ってきたことを象徴する話ではないでしょうか。
改めて言うまでもなく、物質的な標準と幸福の水準とは無関係です。
{住みたいところに住んでいる}のではなくて{住めるところに住んでいる}。
しかも物質的な標準が画一的に徹底されそれ以外に選択の余地がないことは、幸福の水準を貶めている。
なぜなら、幸福とはまず精神的かつ心理的なものであり、多様な個性を自由に発揮できる環境に成立するからです。
じつは多くの日本人にとって、画一化した都市郊外が最も幸せに暮らせる所であると思う根拠は、じつに消極的なものでした。夫が都心に勤めているからその郊外に暮らすのは当然だと思っている。しかし夫が地方に単身赴任しても、家を売れないから引っ越せない。あるいはたとえ借家でも、子供を入れた有名私立のことを考えると引っ越せない。そうした理由は、直接間接に住宅という物質的な標準への固執です。つまり、家族の絆を礎とする幸福よりも、住宅という財や、子供に財を獲得する人間になってもらうことの方を優先している。だから、家族一人一人の精神的かつ心理的な幸福を犠牲にしてしまったと言える様々なケースが拡大しました。
21世紀初頭の現在、首都圏の通勤サラリーマンとその家族が、いまの暮らしに我慢できているのは、大多数の日本人が同じような生活をしているからです。
「人生なんてそんなもの」「生活なんてそんなもの」という<無意識のパラダイム>に従順でいるからに他なりません。
しかし、それは親の世代までの話で、土地と成長の神話が崩壊した後の親の苦労と不安を実感してきた子供の世代から事情は変わっています。
自分らしい生き方や暮らし方を本質的に問う姿勢が、自分の価値観で自分流の暮らし方のできる居場所を、自由に選択しはじめている。子供の世代は、仮に相続できる住宅があったとしても、自分の個性を自由に発揮する可能性を犠牲にしてまで、財を所有したいとは思わないでしょう。
20世紀の日本は、極端な形で、{モノを買うためのお金}をなるべく沢山稼いで{モノを買う消費生活}を豊かにすることが人生や生活の目的とされました。だから、いい稼ぎ口があっていいモノが買える東京が志向されました。
しかし21世紀は、{個性を自由に発揮するコト}をそれぞれに経験して{精神的かつ心理的な幸福を具現化する創造生活}を豊かにすることが人生や生活の目的とされていきます。
物質的な{20世紀の目的}を容易に達成できてしかもそれがその人の幸福感につながるタイプは少数派となるでしょう。大多数の団塊の世代を中心とする中高年は、バブル崩壊以前の幸福感にも経済状態にも後戻りすることはないでしょう。不況を常態として大人になった若い世代では、現実を前向きに捉えて、むしろ精神的な{21世紀の目的}を積極的に見出そうとする人が拡大しています。
ただし、21世紀初頭の現在、その過渡期にあります。
長引く不況にもかかわらず若い女性の高級ブランドへの執着は高まるばかりです。これは「いい会社に入っていい給料をもらい家を持つ人並み」を追求する親に育てられた子供の志向性として、仕方のない当然の帰結です。バブル崩壊以降、それまで「一億総中流」という中流意識が特徴だった日本人は、一部の勝ち組と残りほとんどの負け組に二極分化しました。実際に所得層の構成がそうなっている上に、テレビのトレンディドラマはじめ様々な番組が勝ち組の人々とその生活を映し出すので余計に感じる訳です。ほとんどの人々は、就職難で有名大学出身者ですらいい会社を諦め、終身雇用が崩壊してフリーター的な就労についた人はローンをくめず家どころか車も買えない。しかし、親譲りの人並み志向だけはあり、人並みを達成していると何らかの形で示したいし示せないと馬鹿にされるように感じてしまう。そんなひ弱な自尊心の持ち主が自己顕示欲を募らせている。ブランド物が大はやりなのは、一般的な若い女性たちがお洒落になったからではありません。彼女たちのモノの人並みをモチーフとした自己顕示欲の行き場がそこしかなくなったからです。 (余談ですが、ブランド物大好きという女性たちにとって、ボーイフレンドが車を持っていることが必須です。昔は、「車をもっていれば女をハントできるが、女がいても車をハントできる訳ではない」と巷で男がうそぶいたものです。今は、「ブランド物を着飾っていれば男をゲットできるし、男には車がついてくる」というのが、彼女たちの常識のようです。ちなみに車は、若い男たちのモノの人並みをモチーフとした自己顕示欲の行き場であり、類は類を呼ぶという構図になっています。)
さて、「暮らし態」の選択の自由とそれに応える多種多様な選択肢は、拡大する方向にあります。ブランド物や車のように街で衆目にさらされる画一的な大衆動向ではないので、誰もが知るような形では見えにくいのですが、着実な動きです。
東京と地方、都市と農村、住宅地と商業地を問わず、人々がそれぞれの本音で求める様々に魅力的な「暮らし態」が登場してきています。
テレビの暮らし探訪番組で紹介される多様な「暮らし態」を見て、親の世代は「そんな暮らしもあるのだなあ」と他人事のように眺めています。しかし、子供の世代は「自分にとって理想の暮らしとは何か」を問いながら夢見ています。MBA取得といった出世願望ではなくてただ好きな事をしに世界に出ていきたいと望む子供を筆頭に、親と同じような暮らし方をしたくないと思う子供が増え、したいと思う子供が減っているのは確かです。まさに時代の転換期とはそういうものです。
2001年、村上龍氏の小説「最後の家族」がテレビドラマ化され放映されました。引きこもりの長男をかかえる家庭で亭主が会社にリストラされる設定です。氏は、テレビドラマ化されたのに思ったほど本が売れなかったと嘆いていいましたが、それは若い世代にとって自分たちの現実だったからではないでしょうか。つまり小生は、ニュース性に乏しかったと分析しています。
いわゆる家族崩壊の過程を描いています。その崩壊は持ち家を手放すことに象徴される{一緒に住む消費生活}の崩壊でもありました。
しかし、崩壊は同時に{それぞれが別々に自分の個性を自由に発揮して暮らす創造生活}の誕生になりました。物理的には離れ離れになってしまうが、精神的にはむしろ相互の信頼と思いやりが生まれる、という筋書きでした。ちなみに夫は、唯一の趣味だったコーヒーを活かして田舎で珈琲店を開業し、妻はひきこもりの長男のことで通った相談所に乞われてケースワーカーになり、長男は自活して法律家を目指し、長女は彫金を学びにイタリアに旅立ちました。それぞれの資金は家を売ったお金を分配したものでした。しかし、ほんものの世間では家を売っても借金が残るというのが現実でした。
当時、このテレビドラマを人々はどんな気持ちで見たのでしょうか。
かつて1977年、山田太一原作のテレビドラマ「岸辺のアルバム」が話題を呼びました。多摩川べりのマイホームが洪水で流されるのを、間際にアルバムだけを持ちだした家族が眺めるラストシーンで終わる。あの時、家族は涙したのでした。
しかし小説「最後の家族」のラストには特に悲しむ風情は出てきません。妻と長女はむしろ明るい淡々とした表情でした。
「岸辺のアルバム」が洪水というごく一部の人の被った天災をモチーフに、オイルショック直後の日本人に幸福の本質を思い起こさせてヒットしたのに対して、「最後の家族」はすでに多くの人が不安がったり経験していた持ち家を手放すという人災をモチーフに、それをポジティブに受けとめようではないかと啓蒙しているの感がありました。特にテレビでは最後に珈琲店に集まった家族が記念写真をとるのですが、それは新しい生活が一人一人のアルバムにしまわれることを暗示しています。ところがそうした生活の価値観もスタイルも、すでに多くの人々がそれぞれの家庭事情に合わせてできる範囲で部分的に実践していることだったのです。
人々の理想とする暮らしは、明らかに「暮らし種」から「暮らし態」へと転換しています。
多くの人々がそれぞれの立場でそのように願い思考し行動していき、かなりのスピードで「暮らし態」の実践は拡大していくでしょう。
人々の頭の中の枠組みが変われば、世の中全体のパラダイムは予想を上回る速さで転換するからです。
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