第二章 「物事の価値」と「パラダイムの転換」

 

 

「 世の中の目に見えない転換を分析しよう!

(社会政策革新の核心)

----- 人/暮らし/地域社会にみる「価値形成の構造転換」 -----

 

「地域種」から「地域態」へ



 「地域種」とは、日本全国に均一にみられる物理空間として類型的な地域社会を指す造語です。
 「理想とする自分」を求める際、社会的レッテルである「人種」を優先する人が、消費生活の毎日と一生の大枠が類型化される「暮らし種」を営む地域社会は、{物理的諸機能の総体}である「地域種」を前提にしています。
 象徴的な例としては、首都圏通勤族にとっての丸ノ内や新宿副都心のようなオフィス街と郊外ベッドタウンであり、それを雛形とする地方都市です。

 一方、地域態」とは、「理想とする自分」を求める際、「人となり」を優先する人が、自分の価値観で自分流の暮らし方をする、多様で類型化できない創造生活のあり方「暮らし態」を育む地域社会のことで、その前提として必要な{精神的諸機能の総体}を指す造語です。

 一般的に{地域社会}という言葉は、住宅地があり区役所や市役所があって学区ごとに公立の小中学校がある物理空間をさします。その場合、それは<送り手側のモノ提供の論理>に基づく「地域種」のことです。
 一方、自分の住いに関係なく、家庭独自の事情や個人独自の熱意など居ても立ってもいられない気持ちから、いじめやドメスティックバイオレンス対策の福祉活動、ゴミ分別やリサイクルの環境保全活動などに参加する生活者市民にとって、活動する精神空間は、「地域態」です。たとえ活動が行政区分を便宜的に前提にしているとしても、それは活動の受益者という<受け手側の生活実現の論理>に基づく地域態」に他なりません。

 

 

 

 

 
 概念図19 に示すように、

 「地域種」は、まず郊外ベッドタウンや、都心ないし市心の官公庁企業集積といった{モノの画一的な機能を根底にしている。そこに、集合住宅群の蜂の巣のような、あるいはオフィスビル群のミニ丸ノ内のような{モノの没個性的な感覚がのる。最後に、都会的生活?とかビジネスセンター?といった{コトの皮相的な意味がトッピングされて、価値形成されています。
 ITネットワークの現代、ビジネスセンターは情報ネットワークの様々な拠点にあるのであって、特定の物理空間に限定されません。また、そもそも{都会}とは、人と人が規則や知識というソフトに基づいて交流する精神空間のことです。ビル集積があればそこに自然発生するものではありません。ビルしかなくて人の交流がないところは、{都会}にならずにスラムになってしまいます。

 一方、「地域態」は、まず人々がそれぞれの「人となり」という個性を活かし、また尊重しあって暮らせるという{コトの画期的な意味を礎とします。その上に、人々がそれぞれの「暮らし態」を尊重しあう自由で穏やかな共生の{コトの個性的な感覚を捉える。最後に、以上の意味と感覚を具現化するために地域社会の物理空間の{モノの特徴的な機能が位置づけられて、価値形成されています。
 具体的には、特定のテーマに共感する人々が共生する社会機構やITインフラ、という特徴です。必ずしも、街造りや街の景観など観光地のような目に見える特徴づけを必要とするものではありません。


 「地域種」は、送り手側=行政の行政区分に基づく、各種公共施設という<送り手側のモノ提供の論理>にあります。これは、福祉政策というとすぐ箱モノ施設を作ろうとする役所や土建屋に通じた利益誘導型政治家の論理と通底しています。
 一方「地域態」は、受け手側=生活者の、生きがいや働きがいを求める社会活動という<受け手側のコト実現の論理>にあります。これは、福祉を自助や互助によって高めようとするNPOやボランティアの論理と通底しています。

 従来の人々の地域社会への参加形態は、住宅や店舗というモノの単位が、自治会やPTA や商店街組合などの地域集団に直結する形でした。つまり、中央の行政指導という名の上意下達が全国津々浦々まで効率的に届く回路が主流でした。
 自治会主催の祭りから、ゴミ分別推進や防犯防災、児童の交通安全や商店街振興までいろいろな活動があります。しかしすべて画一的に、目に見える住宅街や学区、商店街など{モノのパラダイム}を前提に規定されています。
 そこでは、住民という「人種」同士の参加形態が前提にされている。 
 「私もやるんですから、あなたもやってください」という、お上の管理下で相互に強要しあう傾向がみられます。

 一方、今後の地域社会への参加形態は、「人となり」をベースに自分の態度能力を活かしたい個人と、「人となり」をベースに協力を求め受け入れる(これも重要な態度能力)個人との間で主体的に形成される回路が主流です。
 そこには行政という{縦割りモノ管理型の組織}ではなく、ボランティア、NPOという{横断的コト互助型の組織}の介在が不可欠です。


 地域社会の福祉について考えてみましょう。

 行政や公的機関は、重要な役割を果たします。しかしそれは、基本的サービスの送り手と受け手をコーディネートする世話役であるべきでしょう。行政が縦割りの縄張りの下にサービスの送り手をおさめ、サービスの受け手を所轄という物理空間で管理して、省益や特殊法人の利益を優先するなどもっての他です。公益に反してコストは跳ね上がり、しかも顧客満足は低下します。そういうやり方は、天下り官僚や職員にお上という「人種」であり続けさせ、本来の公僕という「人となり」であろうとする動機をなくしてしまいます。
 行政が箱モノばかりを充実させ人をモノ扱いする{モノ化したサービス}を容認する。すると、減価償却は無視され、顧客志向は蔑ろにされ、結局は赤字を垂れ流すことになる。それはすべての公共サービスに有りがちな傾向として、現在の中央地方の財政悪化を招いた諸悪の根源であり、私たちはもううんざりしていますね。
 福祉の根本には、助け合いの行為自体を喜ばしきコト、心を満たすコトと受け止める「人となり」をベースとする態度能力が不可欠です。市民の主体的な互助の精神を発揮させ活用することが重要です。あらゆる弱者の支援では、支援者と被支援者の希望するTPO と内容について、個人の自由意志と主体性が尊重されなければお互いに不幸です。行政や公的機関が支援者と被支援者を繋ぐ世話役に徹するならいいが、与益者然として両者に対して支配的に管理していると、結局、お上という送り手側のTPOを両者に押し付けてすべてを歪ませてしまいます。


 地域社会の伝統的な産業や文化の振興について考えてみましょう。

 現状のやり方は、あくまで地元の行政や組合がモノの送り手として、{地元という物理空間でモノを守ろう売ろうとする}側面が強いのではないでしょうか。
 しかしまずは、地元は伝統的な産業や生活文化というコトの受け手として、{地元と地元以外に限らないコトの共鳴者の交流を精神空間で図る}側面が大切です。
 具体的には、農産物や工芸品というモノを直接的に販売促進するのではなく、農産物や工芸品を作るコトに親しみそれを支えようとする個人を発掘する。そんな熱意ある個人との熱い交流を深めることが大切でしょう。
 モノを販売促進するなら、百貨店やスーパーと同じ{消費生活}という土俵で競うことになります。これは勝ち目がないし、一時的に集客で勝ったとしても継続的な地元の活性化には繋がらない。
 しかし、コトに共鳴して参加する人を募るのは、教育機関やカルチャーセンターと同じ{創造生活}という土俵で競うことになります。これは勝目があって、しかも僅かでも熱意ある協力者のネットワークができるようになる。
 なぜ勝ち目があるかと言えば、こちらはカルチャーセンターのように授業料で儲けようとする活動ではない。教える人も時間も手間も安く多くさけるからです。なんらかの趣味と実益を兼ねるボランティア参加を工夫したり、画一的な都市を脱して地元民になりたいエンスージアスト(熱狂者)を歓迎すれば、地元の活動に新風が吹き込まれるでしょう。こういう場合、参加者の量ではなく質が期待されます。小さな町や村ほど他所からの少ないが質の高いキーマンの登場が有効でしょう。

 無論その際は、{地元の人間}対するところの{他所者}{新参者}という「人種」の垣根をとっぱらわなければなりません。
 同じ特定テーマに共鳴しそれを生活や人生の基軸にすえる熱狂者という「人となり」同士で付きあわなければなりません。
 結局のところ、役人の既得権益と同じで、自分たち地元民の利益の源泉を守ろうとする必死さが、地元以外の人間を活動主体に積極的に取り込む発想をさせないできたのではないか。つまり縄張りという<無意識のパラダイム>に呪縛されてきたのではないでしょうか。
 おおよそ地元以外の人間や企業を、物産展でモノを買ってくれる人、ないしは異業種交流でモノづくりで協力してくれる会社と功利的にしか見ないできたのは、そのためでしょう。

 地元民に活動主体が限定されない{特定テーマをもった創造生活の共生の場}。
 そんな「人となり」をベースにした態度能力を生かしあう地域社会の可能性は、「地域種」ではなく「地域態」にしか求められません。 

 


 国内の「地域態」の成功例をみると、温泉や名産のようなモノ資源に根差しているものが多い。ということは、モノを利益の源泉として地元民だけに活動主体が限定されてきたということです。
 しかし、世界の「地域態」の成功例をみると、モノ資源と無関係に特定産業の中枢を担うものが多い。ハリウッドやラスベガスやシリコンバレーといった都市や、ケンブリッジやオックスフォードのような大学という知識資源に根差した街です。特定の職人技術の中枢を担っているドイツやイタリアの地方都市も知識資源に根差しています。
 つまり、単純なモノではなく知識の創造活動というコトは、地元民だけに活動主体が限定されることはない。他所からきてもコトに秀でた熱狂者が活動主体にどんどんなっていく可能性があるということです。

 じつは日本でも、江戸時代までは各藩や幕府が、土地のモノ資源に根差した産業振興をはかると同時に、独自の教育システムという知識資源に根差した特徴ある学問振興や技術振興をしていました。それが明治以降の文物の西欧化の過程で、中央集権、統制画一化のパラダイムの中で霧消していったのです。
 今後、地方分権が推進されるとしても、中央の{モノ割り縦割り}が道州単位になるだけならば、日本の地域社会における知識創造活動は抜本的に変革することはないでしょう。
 各地方が特定テーマの知識資源中枢を担うように、地方行政が{コト割り横断的}な支援をできるようにならなければ、世界の成功例のような「地域態」づくりはできない。そしてそれができないでは、地方自治は精神的にも経済的にも自立することはないでしょう。

 私たちは、いろいろな公団や特殊法人が、いくら日本の隅々まで道路や空港や集合住宅やリゾート施設といったモノを画一的に作っても、事態を悪化させただけだということを経験しています。これを許してきたパラダイムが温存されたままの地方分権では、地方レベルでより細かく同じことが繰り返されるだけに終わることは明らかです。
 なぜなら、物事の考え方の基本的枠組、パラダイムが変わらなければ、何も本質的に変わらないからです。
 いまの地方自治体とその職員が、自らの<無意識のパラダイム>を客観視してそれを意図的に転換しないまま、いわば受け身で中央から分権され予算をさずかったとして、どうなるでしょう。
 よく地方自治体には人材がいないと言いますが、そうでしょうか?小生は、中央政府のパラダイムを引きずった優秀な人材はいなくていい、新しいパラダイムを創出しようと挑戦していく公正なる態度能力のある人材が育てばいい、と考えます。中央政府が長い年月をかけてとてつもない破綻を演じてきたのですから、地方自治体がそれぞれの予算レベルで独自の挑戦をして失敗を肥やしにすることがあっても、それに私たちは寛大になるべきでしょう。
 ただし、特定テーマに関心のある世界や全国の人々が注目するような、唯一無二の独自の知識資源中枢という精神空間となる「地域態」を構想することは、上位下達、各県横並びのパラダイムが骨の髄まで染み着いている「人種」役人に期待することはできません。特定テーマの知識創造活動において独創性と公平性を兼ね備えたリーダーにふさわしい「人となり」政治家「人となり」企業家そして「人となり」市民代表者が協力して、有意義な「地域態」ヴィジョンを練っていくべきでしょう。

 地方分立ヴィジョンについて、中央とのパイプを誇る利益誘導型の政治家や省益誘導型の役人に物を言わせることは、有意義な「地域態」づくりの芽をつませることになりましょう。
 心ある地方自治体の職員には、本来の地方自治ならではの主体的なヴィジョン策定の場づくりと市民の合意形成のための情報公開や意見収集を行うこと。そしてヴィジョンの実現に向けて、{モノ割り縦割り}の中央政府と地方版政官財のシガラミに対抗する{コト割り横断的}世話役として尽力すること、が期待されています。