第二章 「物事の価値」と「パラダイムの転換」

 

 

「 世の中の目に見えない転換を分析しよう!

(社会政策革新の核心)

----- 人/暮らし/地域社会にみる「価値形成の構造転換」 -----

 

利益追求型「事業種」経済から互恵実現型「事業態」経済へ



 「理想とする自分」を求める際、社会的レッテルである「人種」を優先する人が、消費生活の毎日と一生の大枠(通勤と持ち家)が類型化される「暮らし種」を営む地域社会は、{物理的諸機能の総体}である「地域種」を前提にしていると述べました。
 産業政策として{地域経済}の活性が議論される場合、一般的には、地方を代表する大型商業集積エリアや地元商店街アーケード、工場が林立する工業地帯や自治体が企業誘致を狙う工業団地、農業や水産業の拠点である水田地帯や漁港、流通や物流の拠点である生鮮市場や鉄道道路、橋梁港湾、といった物理空間の整備が検討され計画されてきました。こうした物理空間の整備アイテムは、<送り手側のモノ提供の論理>を象徴する「地域種」の要素たちです。


 「地域種」が充実することは、地域の産業の礎です。
 国や地方自治体は、産業を振興して雇用を確保し地域社会の経済的な基盤づくりをするために、「地域種」を充実する産業政策をとってきました。
 これは基本的に正しいことです。
 問題は、そのやり方でした。

 まず、地域の産業をいかに発展させるかというヴィジョン(目的)が、明治政府以来の中央集権体制のもと余りに全国画一的かつ一辺倒であり続けてきました。そのため、地域の物理的諸機能の総体(手段)も画一的であり続け、非効率や不採算という問題を拡大させた上に問題解決を先送りしてきました。
 このことは、長い間に、立派な土木インフラと様々な箱モノの公共施設が乱立することこそが、地元社会の発展であるという短絡を、全国津々浦々の日本人の誤った常識にしました。同時に、土木や建設の工事を請け負う土建業を地元の雇用を吸収する主要産業として全国津々浦々に定着させました。この動きは、全国津々浦々の有権者が中央省庁から地元に公共事業をひっぱってくる利益誘導型の政治家を擁立しつづけることで、戦後の自民党と中央官僚の合作による磐石の国家体制を形づくりました。
 中央の政策と規制に縛られた全国画一的な公共事業は、本来の地域産業の基盤整備という目的を適度に果たした後も、手段であった地域経済に対する補助金環流を主なる目的に過剰に行われ続けたのです。そしてその動きは、日本が右肩上がりの経済成長をしている間は未来永劫続く地方発展神話として受けとめられたが、バブルとともにあっけなく崩壊しました。国の財政は未曾有の数値の悪化を露呈し、地方の財政も過剰な公共事業への支出という片棒担ぎをつづけていては破綻することが明らかになりました。

 ここで確認したいことは、<送り手側のモノ提供の論理>に基づく「人種」での就労や雇用、その収入によって営まれる全国画一的な消費生活として毎日と一生の大枠が類型化される「暮らし種」、それらを偏重して育む「地域種」の充実体制は、確かに地域の産業基盤の必要最低限の整備という目的を効率的に果たしました。しかし適度な目的達成の後も一辺倒に偏重され押し進められたことは、国や地方の財政や経済を破綻させてさえゴリ押ししたい人々の単なる地域エゴに成り下がっていったという事実です。
 「公」を蔑ろにして地域エゴを満たすだけの公共事業は、自然を破壊するだけの護岸や林道の工事、そして官僚の天下り先を増やす以外大した効用のない人気のない赤字を垂れ流すだけの様々な豪華絢爛な
箱モノの建設にまで及びます。地元の雇用者は、そんな工事や建設や運営に従事した収入で日々を凌げたとして、果たして地元民あるいは勤労者としての誇りや夢を持てるものでしょうか。否、「誇りや夢なんか持てなくてもオマンマが喰えればいい」という日本人が全国津々浦々に蔓延してしまった、ということです。
 つまり、磐石な国家体制にまでなってしまった
「地域種」の充実体制というものは、長い間に、誇りある日本人であろうとする国民、そして自然や伝統文化を守り郷里を愛する地元民であろうとする私たちの精神の支柱までを破綻させたという事実に、私たちは目を背けることはできません。
 冷静に考えれば、不要な土木インフラや赤字を垂れ流し最後は外国資本に叩き売られるだけの豪華絢爛の箱モノなどは、地元雇用者の収入の総計よりも、建設コストと運営維持費の総計の方が圧倒的に大きいことは明らかです。ということは、地元雇用者を雇用せずに生活保護をした方が安上がりで、しかも一時凌ぎでなく継続的に生活を安定させることができたということです。生活保護というのは、論旨である事実関係をはっきりさせるための極論です。セメントを運ぶ代わりにお年寄りを介護する公的職場をつくり職業訓練して雇用して給料を支払う、重機械のオペレーターであれば建設に従事させる代わりに破壊された自然を復旧する公的事業をおこし従事させ給料を支払うなど、もっと実質的で有意義なことが余裕でできたとご理解いただけたと思います。
 つまりは、不要かつ過剰な公共事業とは、地域雇用確保を目的とした世に言うセーフティネットなどではなく、ましてや地域社会への貢献などとはまったく無縁な、ただ単に土建屋と利益誘導型政治家が談合して金儲けの利権と政治資金と票を得るためだけの癒着の愚行だったということです。

 「磐石な国家体制にまでなってしまった「地域種」の充実体制」という問題とまったく同じ構造の問題に、「磐石な国家体制にまでなってしまった言わば「業界種」の充実体制」という問題があります。
 
「業界種」とは、いわゆる55年体制の政官財の癒着のもとで特権的に守られてきた業界のことです。
 その筆頭は銀行で、二番手がゼネコンでしょう。
 あと、重大なものに医療と教育があります。国際競争にさらされず規制で守られてきた業界や国の管理下だけで存在が許されている業界です。(文部科学省の独占事業である義務教育業界も含まれます。)
 紙幅の関係から詳述を避けますが、
「地域種」の充実体制と「業界種」の充実体制とは同じ<送り手側のモノ提供の論理>によって表裏一体に密着しています。
 バブル崩壊後の平成不況が「空白の10年」と呼ばれるほどに長くまっとうな手立てが先送りされた理由は、為政者が低金利政策その他で銀行やゼネコンを延命させるのに時間がかかったからとも言えましょう。また、日本が常に拡大してきたODAは、国際競争から守られたゼネコンの進出利権とも言えましょう。
 
「地域種」の充実体制において「公を蔑ろにする地域エゴ」という私たち日本人の精神の癌があるように、「業界種」の充実体制においては「公を蔑ろにする業界エゴ」という私たち日本人の精神の癌があると言えば、分かりやすいでしょう。

 こうしたすべて<送り手側のモノ提供の論理>が通底する「人種」「暮らし種」「地域種」を俯瞰すると、とても単純なことが分かります。
 それは、
「人種」「暮らし種」「地域種」は、同じ<送り手側のモノ提供の論理>に立脚した「品種」「業種」「店種」を生産したり消費している
 という事実です。
 それらはすべて、同じパラダイム(考え方の基本的枠組)に意識的にあるいは無意識的にあり、一大概念体系を形成しています。

 これは、概念図20に示すような<利益追求型「事業種」経済>の一大概念体系であります。

 

 

 

 

 「理想とする自分」を求める際、「人となり」を優先する人が、自分の価値観で自分流の暮らし方をする、多様で類型化できない創造生活のあり方「暮らし態」を育む地域社会は、{精神的諸機能の総体}である地域態」を前提にしていると述べました。
 お上の産業政策としてではなく、一人の企業家のライフワーク、地域の市民グループや地方企業のプロジェクトメンバーのサクセスストーリーとして{地域経済}の活性が議論される場合、一般的には、特定テーマについての信念や哲学、意義や使命、熱意や喜びなどが共有された場において、具体的な知恵と協力が検討され計画されます。こうした精神空間としての特徴をもつ場における有志の持ち寄った情報や知識の交流は、
<受け手側のコト実現の論理>を象徴する「地域態」の要素たちです。


 「地域態」が充実することは、地域のコミュニティの礎です。
 国や地方自治体は、産業を振興して雇用を確保し地域社会の経済的な基盤づくりをするために、「地域種」を充実する産業政策をとってきました。これは基本的に正しいことでした。中央と地方、地方の中心と周縁で富の分配が不均等である以上、国が地域の社会資本に対して最低限度の再分配をする必要があったからです。
 一方、「地域態」を充実する場における有志の持ち寄った情報や知識の交流は、「どのような共同社会をどのように実現していくか」というコンセプトであるコミュニティ政策を形づくります。
 コミュニティ政策は本来、お上や国の上意下達に頼らずに運命共同体としての地域社会の構成員が自助努力で創意工夫し相互扶助によって達成すべきことです。残念ながら、日本人の多くは、主体的にコミュニティを形づくる意識を欠いています。私たち日本人は、江戸時代からでしょうか、お上や国のお仕着せのコミュニティ政策を従順に受け入れることを良識あるいは美学とさえしてきました。しかし、国際化した現代社会でもそのような姿勢と感性のままでいることは、じつは自分の暮らす地域社会において生活者主権を自ら放棄していることに他なりません。ちょうど北朝鮮の人々のようにです。

 地域社会での生活者主権を放棄した国民には、いったいどのような主権が具体的にありましょうか。確かに私たちには、モノを買う消費者としての主権があったり、投票をして言わば政策を買う選挙民としての主権があります。しかし、エコ商品、リサイクルなどを含め地域社会で何をどのように消費して暮らすか、NPOの支援や特殊法人の拒否などを含めどのような行政サービスを望んだり拒む政策を支持するかというコミュニティ政策についての考えがなければ、何も始まりません。
 また、自分一人の考えがはっきりして選挙の際の投票に活かせたとしても、日常的に隣人たちと意見を交わしあい地域社会の構成員の合意に積み重ねて行かなければ、地域社会のコミュニティ政策には有効に反映しません。まっとうな「公」の概念の前提なしに個人主義が横行してしまった現代の日本社会では、消費者主権も国民主権も極めて個人的なものとして孤立している点が特徴なのです。それを「第二のお上」である消費者センターや人権110番といったNPOが救済しているという構図です。
 私たち日本人には、「公」に対する責任と義務を自ら果たした上で「私」の自由と権利を主張するといった国との契約の感覚がありません。言わば親である「公」に対して従順に依存し、「私」はその枠組みの許す範囲で最大化すべきエゴ、我がまま息子として存在するかのようです。

 たとえば、日本社会の高齢化は地域社会でこそ日常的かつ具体的な問題となります。現在の高齢者は豊かな預貯金と年金の恩恵があり、これから高齢化する団塊の世代もまだまだ経済的余裕のある世代ですから、切迫した問題意識をもっていません。地域社会の問題としてではなく、年金や福祉政策といった抽象的なあるいは計算上の国家制度の論議に集中しています。行政サービスをあてにできない部分は自前資金で解決しようと企業サービスをあてにしてもいるのでしょう。しかし、与益者受益者の人口推移からして早晩、行政サービスも企業サービスもあてにできない高齢者が拡大し、地域社会ごとに自助努力で具体的に創意工夫し相互扶助をいかに日常的に組織していくかということが論点として浮上してこざるを得ません。その時になって、コミュニティ政策を行政サービスに依存していたことや企業サービスによって補完しうると考えたことの誤りを認識しても遅いのです。

(以上の主張は、世間でよく耳にする「棄権せずにとにかく選挙に行って投票しろ」といった、国民に対して投票さえすれば政治参加になるかのごとき誤解を与えている主張を否定しています。
 選挙に行きさえすればいいという主張は「不味いモノしかないが食堂へ行け」という理屈です。本来地域社会の構成員が主体的に形づくっていくべきコミュニティ政策とは「美味しく食事したければみんなで自炊しましょう」というものです。
 あてにならないお上に頼らず、お金儲けの企業をあてにせず、自分達で相互扶助を創意工夫してやっていこう、という主旨です。
 これは、NPOの経済活動をもっと拡大して、GNPに占める割合を欧米並みに高めよという主張です。
 町村が合併により合理化を図る動向の中で、自立活性路線に信念と熱意を抱く「人となり」町長のリーダーシップのもと、小さな町役場が、国の補助金をもらえる規格の道路づくりで財政赤字になることを避けて、身の丈に合った自主規格の道路を職員の手で工事する、しかも工事費の半分を接道民家に負担してもらうという新機軸の公共事業や、職員の自宅を出張所にするといった経費節減しながらも市民利便を向上させる創意工夫の行政サービスを、地域社会と協力し自助努力で進める動きに通底する考え方でもあります。
 自治体と企業と地域住民がそれぞれの立場で利益や便益の最大化を追求する地域経済ではなく、自治体とNPOと地域住民がお互いに便益と負担をシェアする互恵の最大化を追求する地域経済への志向であります。)

 

 主体的に望ましい生活を実現したい、つまり幸福というものを望む国民ならば、まず「自分がどのような暮らし方や生き方をしたいか、いろいろな思いの他の人々とどのように折り合いをつけるコミュニティ政策が望ましいか」について考える、そしてコミュニティ政策の実現という<目的>意識をもつことが何より必要です。
 生活者主権とは、その<目的>実現のための<手段>としてしか存在しません。
 生活者主権とは、自分の生活の主人公は自分であり、他の人々もそうなのであって、それらをいかに尊重しあい折り合いをつけていくかというコミュニティ政策については当然、生活者に主導権があるということです。
 そして、<受け手側のコト実現の論理>に立脚すれば、生活者主権を構成する下位手段として、行政における参政権である国民主権や、生産から小売りにおける消費者保護である消費者主権がある訳です。国民主権や消費者主権はあって当たり前です。それで自動的に生活者主権も保障されているかのごとき誤解がありますが、事実はそうではありません。

 <送り手側のモノ提供の論理>に基づく「人種」での就労や雇用、その収入によって営まれる全国画一的な消費生活として毎日と一生の大枠が類型化される「暮らし種」、それらを偏重して育む「地域種」の充実体制が、適度な目的達成の後も一辺倒に偏重され押し進められたことは、国や地方の財政や経済を破綻させてさえゴリ押ししたい人々の単なる地域エゴに成り下がったという事実を前述しました。
 この体制をストップし改編して、単なる地域エゴや業界エゴの寄せ集まりをあたかも「公」のごとく言い含める族を政界から一掃する。政治思想に無関係に、一国民として単純にそうしたまっとうな国民主権を発揮する。単に選挙の際に自分の一票を投じるだけでなく、普段から地域社会での暮らしにおいて何らかの活動をしたり何らかの活動を利用しつつ、そういう良識についての対話を心掛ける。そういう日常的で具体的な営みの積み重ねこそ大切なのではないでしょうか。

 地域社会において誰も彼もが市民活動やボランティアをしなければならないということはありません。そうしなければ主体的に政治に参加できないとすれば、それは市民活動ファッショでありボランティア・ファッショということになります。むしろ現代は、
 「ねえ奥さん、確かに地元に新幹線が通れば良いにこしたことはないけど、みんながそんなこと言って日本中に新幹線ができて国が破産したら何にもならないですよね?」とか、
 「こんな田舎にあんな豪華絢爛な建物ができたお陰でうちの姪っ子も就職できたけど、いつもガラガラなんだってさ。あんなのが日本中にできてるらしいけど、そんな無茶をやらせてる政治家はどんなもんかねえ」とか、
 「この前、○○さんちの子供が急病になって救急車呼んだんだけど、どこの病院も受け入れてくれなくて大変だったんだって。そういう病院を許している政府っていったい何を監督してるんだろう」とか、
 そんな話をしていると噂が噂を呼び、内部告発がでてきたり、マスコミが嗅ぎつけて報道したりする。選挙にはそういう日常的かつ具体的な対話や情報の受発信が有効に作用する時代です。

 以上のような地域社会の誰しもが不条理と感じる問題は、社会的に重大ですが、だからこそ解決されて行きやすいと言えましょう。政治家も黙ってはいられないし、マスコミに糾弾された政府や自治体も善処せざるを得ないからです。
 むしろ解決困難なのは、あまり社会的に注目されずそれでいて当の本人にとってだけ重大な問題です。
 
「理想とする自分」を求める際「人となり」を優先する人が自分の価値観で自分流の暮らし方である「暮らし態」をしようとする際に、為政者側の「常識に合致しない」とか「前例がない」という「人種」対応にあって、当人が差別されたり要求が排除されたりする問題があります。
 たとえば、一生を独身で暮らそうと思っている女性や、理想の人と出会わない限りは独身でいようと思っている女性がいたとします。そういう女性は現代日本では増えていますが、為政者はお構いなしに常識に合致しない異端者と受けとめます。少子化を助長する厄介者と受けとめます。結果、女性配偶者や男性独身者に比べて相対的に不利な税や年金の制度をしかれています。これはいわゆる欧米先進国ではもっての他の事であり、同性愛の結婚を認めて一般的な夫婦との税制上の公平を保つところまであります。
 「理想とする自分」を求める際「人となり」を優先する人が自分の価値観で自分流のビジネスやボランティアとして「品態」「業態」「店態」を具現化しようとする際に、為政者側の「常識に合致しない」とか「前例がない」という「人種」対応にあって、事業主体が差別されたり要求が排除されたりする問題があります。
 たとえば、扱おうとする商品やサービスに関する許認可の条件が新規参入者の企業やボランティア組織にとって大きな障壁であったり、規制が複数の監督官庁にまたがる場合、効率的かつ効果的な具現化が実際上許されないことがあります。非効率な縦割り行政に下々は従うのみという時代錯誤に他なりません。

 

 前項<「地域種」から「地域態」へ>では、「地域態」を分かりやすく説明するために、世界の「地域態」の成功例として、ハリウッドやラスベガスやシリコンバレーといった都市や、ケンブリッジやオックスフォードのような大学という知識資源に根差した街といった欧米の地理的圏域をあげました。
 しかし、現代の日本社会の実態を踏まえると、そうした成功例をそのまま応用して新たな地理的圏域として「地域態」を実現することは難しいと思われます。
 実際に、小泉内閣の「経済特区」の構想は地理的圏域を「地域態」にする方向のものでしたが、中央省庁には規制を例外的に緩和したり撤廃する意向がなく、そうした状況を政治主導で打開できない以上は大した成果を上げられません。また、高度情報化と先端的な知識創造のグローバル化が進んだ現代において、地理的圏域に特定の経済活動を集約することの有効性には疑問が残ります。

 現代の日本社会の、「地域種」の充実体制と中央省庁の規制による支配がまだまだ全国津々浦々、地方末端にまで行き渡っている実態を踏まえるならば、日本で「地域態」を成功的に実現していく最良の方策は、「地域種」の充実体制を拒絶したりそれから免れたりすることではないでしょう。
 むしろ、その背景である<送り手側のモノ提供の論理>に立脚した<利益追求型「事業種」経済>の一大概念体系と対極にある、<受け手側の生活実現の論理>に立脚した一大概念体系を魅力的に象徴するコミュニティ政策や生活振興政策(産業振興政策ではない)を打ち上げ、「地域種」の充実体制をも取捨選択して活用してしまう形で社会的に有意義に機能させていくことだと考えます。
 それは必ずや人々の本音に働きかけ、従来のお上お仕着せのコミュニティ政策単なる消費振興に過ぎない生活振興政策の不条理と不毛を納得させるものでもありましょう。

 「地域種」の本質は{物理的諸機能の総体}です。
 ならば、{精神的諸機能の総体}である地域態」がそれを支配できない訳は本来ないのです。
 ただ、「地域種」が目に見えて手に触れられて誰もが共通に実感できて、金儲けや蓄財の手段として計算可能なモノなので、経済至上主義のパラダイムでは力強かった。
 しかし、21世紀、世界の人々の本音は生活至上主義、人生至上主義のパラダイムにシフトしつつあります。地域態」は目には見えにくいが人との触れ合いを通じて心に訴える魅力があります。暮らしの安らぎや潤い、人生の生き甲斐や喜びといったものを手に入れるコミュニティとして体験可能なコトなので、少なくとも体験によって納得した人々の間では着実に地域態」が成功的に成立することになります。一方、モノの豊かな現代の日本社会に生きる私たちは、「地域種」の実体験を毎日嫌という程に味わっていますが、それに暮らしや人生における幸福を感じることは無く、モノの豊かさを追求するあまり失ってきたコトに思いを馳せているのではないでしょうか。

 つまり、物理空間の様相は一気に変える事は出来ませんが、精神空間の様相は、人々の頭の中が変わってしまえば一気に変わる事が出来るのです。
 ここでは先ず、人々の頭の中に構築したい新たなパラダイムの提示して、追って具体的な事例をあげそれに照らして構造的に解説していきたいと思います。


 <受け手側のコト実現の論理>が通底する「人となり」「暮らし態」「地域態」を俯瞰すると、とても単純なことが分かります。
 それは、
「人となり」「暮らし態」「地域態」は、同じ<受け手側のコト実現の論理>に立脚した「品態」「業態」「店態」を生産したり消費している
 という事実です。
 それらはすべて、同じパラダイム(考え方の基本的枠組)に意識的にあるいは無意識的にあり、一大概念体系を形成しています。

 これは、概念図21に示すような<互恵実現型「事業態」経済>の一大概念体系であります。

 

 

 

 

 

 「地域種」が成功するとは、{物理的諸機能の総体}の完成度が高いということです。それは機能の一貫性とモノの感覚の素晴らしさで評価されます。
 ということは、モノの機能と感覚が「手段」ではなくて、送り手側の「目的」そのものになっているということです。

 戦後の日本の場合は、産業振興という「目的」がイコール全国の画一的都市化と全国民の画一的消費者化という「手段」でもありました。よって、生活者に向けた政治や行政の「公共の福祉の向上」といった常套句は、土木インフラや箱モノを過剰につくるための大義名分に過ぎず、厳しく言えばその意味は皮相的であったと言えます。
 果たして地方の伝統的景観や田園的雰囲気を壊してまで、市心を丸の内化したり銀座化し、郊外を画一的なプレハブ住宅と無機的なマンションで首都圏化して、私たちはいったい何を手に入れたのでしょうか。地域社会の暮らしや人と人の関わりに目を向ければ、不用意に失ったものが多く、それを補う手立てを思い浮かべることもないままに高度経済成長からバブルへと突き進んできたのが実際でしょう。

 確かにモノの機能は、充実して便利になりました。
 しかしそれは、「田舎でも東京みたいな暮らしができるようになった」ということでしかありません。田舎の良さは否定され、いろいろなお国柄の田舎を束ねつつ個性的な都会文化を担ってきた地方都市の個性が衰退しました。
 確かにモノの感覚は、旧通産相が進めたグッドデザイン政策に象徴されるように、工業デザインとしてカッコヨクなりました。
 しかしそれは、「田舎でも東京みたいなモノに囲まれて暮らせるようになった」というだけのことです。伝統工芸が衰退したのは、地域の風土や伝統に根ざした暮らしの全体が、日常生活において田舎臭いモノとして否定されたからです。現在は、伝統工芸や伝統的な暮らしは、観光レジャーと趣味教養といった非日常的遊びの世界に追いやられています。無くなってしまうよりはマシですが、現代の日本で大切にすべきは、田園生活や伝統生活が育んできた「暮らしや地域社会に対する考え方の基本的枠組み」ではないでしょうか。

 

 「地域態」が成功するとは、{精神的諸機能の総体}の完成度が高いということです。それは意味の一貫性とコトの感覚の素晴らしさで評価されます。

 ここでは、論旨を分かりやすくするために、田園生活や伝統生活が育んできた「暮らしや地域社会に対する考え方の基本的枠組み」について、意味の一貫性とコトの感覚の素晴らしさを魅力的かつ象徴的に体現している事例を紹介して解説をしていきたいと思います。

 田園生活のパラダイム(考え方の基本的枠組み)は、「自然環境における自給自足」です。
 そして、伝統生活のパラダイムは、「知識創造の場における時間的空間的な相互扶助」です。(時間的には伝承、空間的には協働、ということです。)
 どちらの概念も、それを欠いては成立しようがないことから、パラダイムとして納得して戴けるでしょう。

 長引く不況下、癒しを求める人々の間で大ブームとなった温泉は、老若男女を問わない国民的レジャーとして定着した感がありますね。 
 同じ温泉地でも、地元で採れた旬のものを料理しています程度の当たり前のサービスしかしていない所は、「自然環境における自給自足」を単にモノを機能的に扱って行っていると言えます。日本全国のほとんどの温泉地はこういうモノレベルです。
 ところが、湯布院のような「自然環境における自給自足」というコトを意味的に意義と哲学をもって行っている所が少ないですがあります。すでにリピート率の高い根強い人気を誇り、将来的にも成熟発展していくことが約束されています。
 そこには成功の鍵があります。そのような所では、

(1)地元の自給自足の知識をもつ人づくり

(2)地元の自給自足の生業を活かしあう人と人の関係づくり

(3)地元の自給自足の体制を地域社会の魅力とするコミュニティ政策づくり
   (*「どのような共同社会をどのように実現していくか」というコンセプト

 が熱心に行われているのです。
 じつはこれは、伝統生活のパラダイム、「知識創造の場における時間的空間的な相互扶助」に他なりません。
 伝統とは、工芸品のようなモノが本質ではありませんし、芸者さんや茶道家のようなヒトが本質ではありません。伝統の本質は、「ある場において知識創造の営みが活かされ受け継がれていくこと」です。知識創造を活かし受け継いでいくという目的を果たす手段として、モノやヒトは介在しているに過ぎません。
 ですから、新しいコトづくりをして伝統を創っていっても良いというより、創っていくべきなのですが、モノレベルの温泉地ほど、何もせずに過去のモノにただしがみついています。その象徴がどこの温泉にもある「温泉まんじゅう」でしょう。

 「温泉まんじゅう」店が軒を連ねるような温泉地ほど、まず人づくりをしていない。そして、何かするにも、新しいモノづくりにばかり目が行ってしまいます。市町村の観光課も、国の助成金で何らかの公的施設を造ることや、地元名産品を活かした新しいお土産やメニューの開発を助けたりしています。けっして、それが無駄なことだとは思いませんが、全国の温泉地がやっている同じようなモノでは、新しい「温泉まんじゅう」が増えるだけの結果になりますまいか。

 湯布院を今のような人気温泉地にした立て役者である地元リーダーは、アスペンなどの世界の長期滞在型リゾートを視察して、単純な事実に気づいたそうです。
 それは、人気リゾートは、一部のホテルだけ流行っているのではなく、全部のホテルが流行っているという事実でした。
 このことはとても重要な気づきです。なぜなら、普通は人気リゾートだから全部のホテルが流行っていて当然と、原因と結果をさかさまに捉えてしまうからです。
 彼はなぜ全部のホテルが流行っているのかを探ったのでしょう。その結果、湯布院のすべての旅館を流行らせる必要を肝に銘じてそのための方策を考え実行しました。

(1)旅館の板長が回り持ちで湯布院の若い料理人たちに料理を教える

(2)一軒一軒の旅館が得意のメニューやサービスをもち
   宿泊客の求めに応じてその利用を斡旋しあう

(3)こうしたおもてなし体制を湯布院の魅力とするコミュニティ政策づくり
 
 といったことを熱心に行ったのであります。
 お気づきだと思いますが、彼の考えた戦略の骨子にはモノそのものの話は出てきません。サービスに関する知識創造に論点が絞り込まれています。
 湯布院は他の温泉地と違って、一度行ったら今度は他へという温泉巡りの対象ではなくて、長期滞在やリピートして今度は違う旅館に泊まってみよう思う対象となっています。そんな湯布院の成功と成長の鍵は、モノの戦術ではなくて、コトの戦略にあったのです。

 湯布院には、温泉地に限らない「地域態」を成功的に作り上げて行く重要な鍵がたくさんありますが、中でも、

<1> 新しいパラダイムの存在に気づきそれに転換させるという
    厳密な意味のコンセプトワーク

<2> コンセプトを立案し新しいコトづくりを果敢にリードしていく
    「コト実践リーダー」

<3> 目に見えて人の理解を得やすく、すぐに結果がでるモノづくり戦術
    に捕われず、
    目に見えず人の理解を得にくく、結果がでるまで長くかかるコトづくり戦略
    に継続的に集中する確信とエネルギー

 以上は、それが無くては何も始まらない必要条件であります。


 湯布院は、「温泉地に日々のバリエーション豊かに長期滞在したい。何度もリピートしていろいろな旅館に泊まり湯布院のファンやマニアになりたい」という存在しなかった顧客を存在させました。つまり、潜在需要を掘り起こして、自らその需要を独自のやり方で満たしたということです。
 これは潜在顧客を受け手と想定した<受け手側のコト実現の論理>です。

 また湯布院は、「名だたる料理人が集まっている温泉地で修行したい」という存在しなかった就労者を存在させました。
 温泉や景勝といったモノに依存せずにおもてなしで魅力づくりをする
「地域態」である湯布院では、
 一流の料理人を目指す若者たち、そして彼らを育てて中長期的に湯布院を成熟発展させていこうとする地元有志たちという
「人となり」が、
 日常的かつ具体的な旅館の仕事を通じておもてなしの職能を切磋琢磨しあう
「暮らし態」を育んでいます。

 それはまさに、前掲の概念図21に示した
<互恵実現型「事業態」経済>の一大概念体系であります。
「人となり」「暮らし態」「地域態」は、同じ<受け手側のコト実現の論理>に立脚した「品態」「業態」「店態」を生産したり消費している
 という事実があります。

 湯布院の場合、
 おもてなしというサービスの
「品態」としての特徴は、
(2)の 一軒一軒の旅館が得意のメニューやサービスをもち
     宿泊客の求めに応じてその利用を斡旋しあう
 ことです。
 宿泊サービスと飲食サービスを分けているとも言えましょう。

 旅館業という「業態」としての特徴は、
(1)の 旅館の板長が回り持ちで湯布院の若い料理人たちに料理を教える
 ことです。
 教育機関でもあることですね。

 温泉地全体の「店態」としての特徴は、
(3)の こうしたおもてなし体制を湯布院の魅力とするコミュニティ政策づくり
 です。
 「店態」は、欲しい商品やサービスが分かっている顧客が買いに行く「店種」とは逆に、欲しい商品やサービスを顧客が知りに行く店鋪であることがその本質です。湯布院は温泉地全体として、今どのような温泉地での飲食や娯楽が流行っていて快適なのかを知りに行く圏域となっています。いつ行っても、必ず何か新しい発見や体験がある、ということですね。目や舌の肥えた顧客がリピートすれば、旅館側もより高品質な商品やサービスを提供しますから、知識創造は顧客との相互学習という段階に進みます。情報発信源としての湯布院はますます成熟し、他の追随を許さないでしょう。
 温泉には、高級老舗にお金持ちが通う有馬や強羅などから、カルトクイズに出るようなマニアがわざわざ訪れる秘境の温泉まであります。しかし、湯布院のような「圏域全体によるおもてなしの感動」を切り口にして集客するものはありません。
 競合温泉地と同じ次元の差別化戦術ではなく、まさに次元を異にする脱競合の圏域共生戦略です。

 

 以上の湯布院の温泉地全体の圏域としての特徴を整理すると、概念図22のような
<互恵実現型「事業態」経済>の一大概念体系として示すことができます。