第一章 コンセプトとパラダイム

 

 「パラダイムの転換」と「コンセプトの戦略性」

 


「パラダイム」の問題性



 「パラダイム」とは、簡潔に言えば「考え方の基本的な枠組」のことです。
 本書では敢えて、それ以上の概念規定には立ち入りません。なぜなら、それよりも「パラダイムの内容をどのように分析し、いかに転換していくか」の方が現実的に重要だからです。

 パラダイムには<意識のパラダイム>と<無意識のパラダイム>の2つがあります。そして、特に重要なのは<無意識のパラダイム>です。

 私たちは物事を考える時、意識で考えています。つまり意識的な営みをしています。
 しかし、その営みの基本的な枠組について意識しているかというと、ほとんど意識していない。しかも、本質的な「考え方の基本的な枠組」ほど無意識に受け入れている。それが当たり前とすら意識していません。 
 このように当人がいくら意識的に考えていても、その本質的な「考え方の基本的な枠組」が無意識的に受け入れたものであれば、客観的には、その人は基本的に無意識的な営みをしているということになります。

 そして、世の中の本質的な問題のすべて、構造的と言われる問題の多くは、この<無意識のパラダイム>の問題性に由来しています。

 問題の状態は多様です。
 まず<無意識のパラダイム>の問題性が意識できない状態、
 問題性を意識できても他のパラダイムの存在を意識できない状態、
 他のパラダイムの存在を意識できてもそのパラダイムを理解できない状態、
 他のパラダイムが理解できてその内容を具体化しようとするが従来のパラダイムからの転換ができない状態、
 などです。

 

無意識のパラダイムを意識化する



 「パラダイム転換をはかる」と言うのは易しいですが、まず<無意識のパラダイム>を意識化することが必要で、それは何より難しいことです。
 しかしできないことではありません。むしろやろうとするかどうかが、最初のハードルなのです。
 たとえば個人の場合、心理テストや催眠療法などで意識下にある<無意識のパラダイム>を浮上させることができるように、やりようはあります。ただ、ほとんどの人は「自分の心は健康だ」と思っているから、そのようなテストや治療の必要性を感じないからやろうとしない。しかし、ほんとうに自分の心が健康かどうかは、実際には誰にも分からないのです。組織や社会の場合もそれとまったく同様の事態があって、この最初のハードルは想像以上に高いのです。

 ストレス社会の今日、身体に変調をきたして医者に行くと「どこも悪くない」と言われ心療内科をすすめられる人々が増えているそうです。
 この場合、身体の変調という具体的徴候から迂回的に「心の不健康」という意識下の問題に気づくことができた。つまり、意識下の問題を意識化する端緒につけた訳ですが、それからが大変です。
 単純化すれば、「トラウマ」という意識下のパラダイムの全貌を知る過程があり、「トラウマの解消」という意識下のパラダイムの転換をはかる過程がある。そして、その成果として「身体の変調の改善」という最終的な問題解決の過程が続かなくてはなりません。 世の中の本質的な問題のすべて、構造的と言われる問題の多くも、抜本的に解決するためには、以上の心療内科の患者への対応と同様の過程を踏まなければなりません。

 私は、よく企業や事業を再編して活性化するための「戦略的なヴィジョンづくり」を依頼されます。その作業はまさに心療内科の医者と同じです。具体的なお話はできませんが、私がいつもクライアントに読んでもらっている本をご紹介します。
 企業にとってネガティブな<無意識のパラダイム>の呪縛こそが最大の問題であり、その意識化とポジティブな<パラダイムの転換>こそ最高の解決策であることを、分かりやすく解説しています。
 「The FIFTH DISCIPLINE
------The Art & Practice of The Learning Organization-------」
というマサチューセッツ工科大学経営学教授Peter M Sengeが著したものです。徳間書店から「最強組織の法則------新時代のチームワークとは何か--------」という翻訳本が出ています。
 この本の「第10章/メンタルモデルの克服」で、「メンタルモデル」と表現される概念が<パラダイム>に当たります。どちらかと言えばネガティブな<意識のパラダイム>に焦点をあて、それを現象全体を俯瞰するシステム思考にしていかなければならないという主張です。しかし、ネガティブな<意識のパラダイム>を受け入れてきた自己を省察することが必要とも主張しています。この自己省察はシステム思考をしないで済ませてきた<無意識のパラダイム>の意識化に行き着かざるを得ないので、私は私の議論の主旨と基本的には同じと捉えています。

 

無意識のパラダイムを客観視する方法



 では個人の心理現象ではなく、社会の組織現象において、<無意識のパラダイム>の問題性を見極めるには、いったいどうしたら良いのでしょうか。

 「メンタルモデル」が<無意識のパラダイム>をも含むとすれば、この問いに対するPeter M Sengeの答えは、現象の全体を俯瞰するシステム思考によって、ということです。
 私は、むしろシステム思考を動機づける「熱意をともなう気づき」こそが根源的に必要なのだと主張したい。
 その理由は、まず私自身が日本の企業の戦略的なヴィジョンづくりの仕事で、<無意識のパラダイム>の問題性を見極めるには、この「熱意をともなう気づき」を得る、あるいは与えることが重要であることを実際に経験しているからです。さらに、アメリカの政治を顧みても、いわば為政者のシステム思考をしているリーダーシップが誤りを冒した際に、市民のシステム思考である「熱意をともなう気づき」が世論となってポジティブな<パラダイムの転換>を呼び起こした事態を、ベトナムからの撤退をはじめ重要な局面でかの国民の素晴らしい側面として確認できるからです。
 システム思考は、まず個人の「合理的な知性」として大切です。しかし組織において発揮されるようになるには、「熱意をともなう気づき」によって集団が動機づけられなくれはならなりません。なぜなら、集団が共有する<無意識のパラダイム>が個人の「合理的な知性」を呪縛して発揮させないようにしていて、いま自分たちが受け入れている現状に対する疑念や闘争心といった強い感情が「熱意をともなう気づき」によって個人レベルから集団レベルに波及しない限り、決してその呪縛は解けないからです。



 <無意識のパラダイム>の問題性を見極める「熱意をともなう気づき」を得る方法には、基本的に2つあります。
 一つは、「内と外」という空間軸を想定する
 一つは、「過去と現在」という時間軸を想定する、ということです。

 たとえば、わが国の近隣に一党独裁の軍国主義国家が存在します。
 その国の人々は、元首が世襲制であること、そしてその元首を祭り上げること、祭り上げる党中央の意向に従うこと、そして情報的に鎖国していること、それらすべて正しいことと考えている。
 一方わが国の人々は、国民主権が憲法で保証されまがりなりにも民主主義が機能していて、政治や行政の情報が公開され、為政者を批判したり彼らに注文をつけたりできる。世界の情報にも自由に触れ比較検討することができる。その上で、この近隣国の考え方はおかしいと考えている。
 この場合、この近隣国の人々は、その国のパラダイムの<内>側にいて、私たちはその<外>側にいるということが決定的に重要です。
 大ざっぱに言えば、<内>にいる人々は主観的に正しいとしか考えられず、<外>にいる人々は客観的におかしいとも考えることができる、ということですね。

 つまり<無意識のパラダイム>を客観視する方法の一つは、「ある考え方を既存のパラダイムの<内>側のものと捉え、敢えてパラダイムの<外>側の新たな考え方をしてみる」ということなのです。
(それは言うに易く行うに難い。あるパラダイムの渦中にある人が、そのパラダイムから脱した考え方をできるのは、きわめて希です。しかしそれを誰もが明快かつ効果的にできる思考術を追って解説しましょう。)


 いま私たちは、近隣国の体制を<外>側から批判的に考えることができます。しかし、戦中戦前のわが国も、世襲制の元首を仰ぐ軍国主義国家でした。現在の日本国民である私たちは、敗戦前の大日本帝国国民である私たちの正しいと考えていたことをおかしいと考えている。
 この場合、過去の人々は、その時点でのパラダイムに呪縛されていて、現在の人々はそれから自由であるということが決定的に重要です。
 大ざっぱに言えば、<過去>の人々はその時点のパラダイムで主観的に正しいとしか考えられず、<現在>の人々は今の時点のパラダイムで客観的におかしいとも考えることができる、ということですね。

 つまり<無意識のパラダイム>を客観視する方法のいま一つは、「ある考え方を<過去>のパラダイムのものと捉え、潜在的に求められているがいまだ確立していない<現在>のパラダイムの新たな考え方を敢えてしてみる」ということなのです。
 それは、「<既存のパラダイム>を批判的に分析して、いまだ世の中に存在していない理想的な<未知のパラダイム>を創造的に構築する」ということです。
(それは言うに易く行うに難い。現在のパラダイムの渦中にある人が、未来のパラダイムを発想することは、きわめて希です。しかし、誰でも明快かつ効果的にパラダイム転換の発想をしできる思考術を追って解説しましょう。)


 

 

 

 

************************ 閑話休題************************


 「パラダイム」は、その筋の専門書によると、
 「共有された一連の仮説であり、私たちが世界を認識する方法のことである」と解説されている。
 本書では、簡潔に「考え方の基本的枠組であり、それには意識的なものと無意識的なものがあり、特に無意識的なものが重要である」とだけ述べて、本質だけを明らかにする。
 パラダイムの厳密な定義やパラダイム転換のビジネス事例を知りたい方は、以下の本を参照してください。

 「パラダイムの魔力」ジョエル・バーガー著 
  日経BP出版センター ¥1400

 

*******************************************************

 




「コンセプト」のもつべき戦略性



 「コンセプト」とは、何らかのテーマにおけるパラダイム(考え方の基本的な枠組)の転換をはかるための、戦略的な独自性を示す概念である、と定義しました。
 そして、パラダイムには<意識のパラダイム>と<無意識のパラダイム>があり、無意識のパラダイムに呪縛されていることに多くの問題の本質がある。問題解決には、まず無意識のパラダイムを意識化することが必要である。しかし、自分が渦中にいるパラダイムを客観化することは容易ではない。さらに今のパラダイムの問題性を認識できて、問題解決のための新しいパラダイムを発想できても、現実に「パラダイム転換」という問題解決を達成するのは困難をきわめる、ということを確認しました。

 そこで、「コンセプト」は、パラダイムの転換をはかるために、以下のような戦略性をもたなくてはなりません。

1.象徴性  物事の価値の全体像が分かりやすくそして魅力的であること

2.起動性  主体的な思考そして行動を誘発すること

* 以上の2条件をみたす概念を、最も効果的なTPOと形式で発信する
  ことこそ、「コンセプト」の戦略性の本質である。


 順次解説していきましょう。

1.象徴性

 まず、現在のパラダイムの問題性と、問題性を解消する新しいパラダイムとが明快に示される必要があります。そういう意味で「パラダイムの転換」の全貌が分かりやすいことが求められる。
 現状の問題性の指摘とその解決策の両方が共鳴される内容であってはじめて魅力的と受け止められる。そして特に、具体的な問題解決策が「パラダイム転換」をシンボリックにイメージさせることが決定的な魅力として不可欠です。

 注意すべきは、あくまでもパラダイム転換の「分かりやすさ」が先で、それに則った問題解決策の「魅力」が後に続く、ということです。
 具体的な解決策の魅力だけが先行して受け入れられることが多々あります。その場合、じつは既存のパラダイムを温存した改善策でしかないのかも知れない。あるいは、まったく新しいパラダイムの抜本策なのにそうとは受け止めてもらえていないのかも知れない。また、「よく分からないが何となく魅力的だ」という印象をもたれることも多々あります。その場合、往々にしてコンセプト以外の要因、たとえばプレゼンテーションのスマートさや主張者の人間的魅力、推進する人や組織の政治力学などに左右されている。
 その時限りのルーティンの計画発表や商品の売り込みであればそれでも済まされるが、組織や事業や商品の命運に関わる重大なパラダイム転換をはかろうとうするコンセプトの場合、そうした一時しのぎの受け入れられ方では意味がありません。

2.起動性

 「象徴性」が静態的な{理解}や{共感}を達成する性質であるのに対して、「起動性」は動態的な{考え方の転向}や{取り組みへの動機づけ}を達成する性質であります。

 コンセプトの象徴性が発揮され、パラダイム転換の全貌を相手に理解し共感してもらえたとしましょう。しかし、相手は自分の立場や利害や感情などの諸々の事情によって、「そういう考え方もあると思うが、しかし・・・」といろいろな理由をつけてはパラダイム転換に同意しなかったり先送りするということが多々あります。いや、まずほとんどの場合そういう壁に突き当たる。
 だから、相手が自ら自分の考え方を転向させ、主体的に新たな取り組みをしていきたいと思うように動機づけることが求められるのです。

 注意すべきは、相手の{自ら}{主体的に}を誘発することです。相手に{無理やり}{不安感を抱かせて}という煽動や恫喝であっては意味がありません。
 これは当たり前のようですが、現実には、重大なパラダイム転換ほど反対派が多く存在しますから、人や組織の政治力学や「飴と鞭」の懐柔策を駆使せざるを得ない局面が多いでしょう。だから、客観的合理性に照らしてたんたんとパラダイム転換がなされるという穏やかな光景はほとんどない。会議が表面上穏やかであっても、水面下の妨害や意図的不作為などあって当たり前だと心得ておくべきでしょう。
 だからこそ、コミュニケーション戦略として、全体像が分かりやすく魅力的なコンセプトを効果的かつ効率的に浸透させ、関係各位が主体的にそれぞれのエゴを沈静化させ「この際、組織全体のためにはパラダイム転換に賛同せねばならない」と思うようにはかる。「パラダイム転換に頑なに反対することは、保身どころかかえって現在の地位の後ろ盾を失うことになる」と冷静に判断せざるを得ないように仕向ける。そういったことまでを念頭において、相手の主体的な{考え方の転向}や{取り組みへの動機づけ}をはかる必要があるのです。


* 以上の2条件をみたす概念を、最も効果的なTPOと形式で発信する
  ことこそ、「コンセプト」の戦略性の本質である。

 「象徴性」と「起動性」という2条件をみたすコンセプトを構築する作業は頭の中の作業です。コンセプトをドキュメント化したりネット上にアップロードするのも机の上の作業です。極論すれば、これは誰にでもできる。
 コンセプトワークはその上手い下手を問わなければ誰にでもできるのです。
 しかし、この「最も効果的なTPOと形式で発信する」という行動は、誰もができることではありません。

 あるパラダイムの渦中にいる者がそのパラダイムを否定するパラダイム転換を主張して現実に働き掛けることは、それがいくら客観合理的に正しかろうと、その者の立場を危うくする。政治体制によっては生命を危機にさらしさえします。
 だから、重大なパラダイム転換をはかるコンセプトの発信ほど実際に行う者は希なのです。だから私は、たとえコンセプトワークが稚拙であっても、リスクを背負ってパラダイム転換の端緒をひらいた行動者こそが、人知れずとも功労者なのだと思います。
 過去を丹念に振り返り精緻に計画を仕上げる作業にばかり時を費やして、しかるべきコンセプト発信の行動を躊躇したり先延ばししていた者は、じつは何もしなかったに等しい。

 本書では、コンセプトワークの技術の解説はしますが、コンセプトの発信については触れません。それは、誰かに教わる内容ではないからです。
 読者ご自身が、自分の立場で自分の課題に対してコンセプト発信のやり方を創意工夫して、責任とリスクをもってアクションを起こしていくしかありません。
 本書で解説するのは、あくまでコンセプト立案の基礎技術であります。
 読者には、現実の行動を通じてコンセプト発信をしながら、相手や周囲の反応から自分なりのコンセプト発信の応用技術を培っていってほしいと思います。








 

 

************************ 閑話休題************************


 最も適切なTPOと形式でコンセプトを発信することこそ、「コンセプト」の戦略性の本質である。
 このことを象徴的に示唆する好例に触れておこう。

 ルーマニアのチャウセスクによる独裁政権は、彼の演説会の催された劇場に、一人の勇気ある市民が意を決して紛れ込んで、演説しはじめたチャウセスクに対して「人殺し」の罵声を浴びせ続けたことが切っ掛けで崩壊した。
 一市民の叫びは、劇場にいた聴衆の合唱となり、家でテレビ中継を眺めていた市民の、独裁政権打倒の決意と行動を駆り立てたのである。「人殺し」の一言には「彼は人殺しだ、市民の敵だ、みんなで彼を葬ろう」という単純明快な意志が込められていた。
 何より重要なのは、必ずしも論理が合理的に述べられることではない。
 この場合は、親衛隊監視下の演説会場で、決死の覚悟の一市民の勇気ある叫びが大衆の耳に届くことだったのだ。
 これによって人々は、期待された思考と行動とを喚起された。聴衆は「人殺し」の合唱に直ちに参加した。恐怖と狼狽の表情をあらわにその場を立ち去ろうとするチャウセスクの姿を国民はテレビでみた。そして、それぞれの市民の立場で期待される思考と行動をすぐさま開始したのであった。体制内部でも雪崩現象を起こる。本来チャウセスクを警護する立場にあった親衛隊が寝返って、彼を処刑してしまった。

 この出来事は、コンセプト発信のTPO と形式の戦略的な重要性を雄弁に物語る好例である。
 とりわけ、「熱意をともなう気づき」を得る、あるいは与えることが、人々の<合理的な知性>の発揮を動機づけることを明快に示している。

 

 日本人は、バブルまでは「一億総中流」誰もが自分は中流だと思って暮らしていた。
 それがバブルがはじけ「空白の十年」がすぎた2000年代初頭には、「一部の勝ち組か残りのほとんどの負け組か」ということにこだわって暮らしている。
 しかし、「勝ち組か負け組か」という問いが経済を至上のあるいは唯一の価値基準としているパラダイムにこそ、じつは疑問を呈するべきではないか。その点では、高度成長期以降の「一億総流中」意識も同じパラダイムにあったのだ。

 勝ち組でいようと必死でいることがかえって心を幸福で満たさないということや、負け組でいることを受け入れてゆったり無理しないでいることがむしろ心を幸福で満たすことがある。
 つまり、心の状態を喜怒哀楽と分類してそれらの組み合わせである「喜楽組か怒哀組か」を問うパラダイムもある。
 いや、むしろ「ネガティブで対立的な怒哀組」から「ポジティブで共生的な喜楽組」へのパラダイム転換こそが、21世紀、日本と世界が幸福になるためには必要だと<合理的な知性>は理解している。
 私たちの課題は、いかにして<合理的な知性>の発揮を動機づける「熱意をともなう気づき」を人々に与えるかにある。

 

******************************************************