第二章 「物事の価値」と「パラダイムの転換」

 

 

  世の中の大きな転換を分析しよう!

(広報戦略の核心)

 

 

80年代から活発化してきた「価値形成構造」の転換



 現代における「パラダイムの転換」は、いろいろな局面で同時多発的に生じてきています。それはおおよそ概念図3に示した「論理の転換」として説明できるものです。

 

 局面によっては、先鋭的な企業によって70年代に先駆けた転換もあれば、いわゆる抵抗勢力によって21世紀の今日でもいまだ転換の端緒にもつけないものもある。
 しかし、「良識としての論理の転換」はおおよそ80年代から活発化した、ということは言えるでしょう。


 「パラダイムの転換」には、上記以外の「論理の転換」や、論理ではなく気分や感性の転換である場合もあるのかも知れません。
 しかし、世の中の大きな変化に関わる象徴的な転換は、

 <モノの論理>から<コトの論理>へ

 <送り手の論理>から<受け手の論理>へ

 <支配の論理>から<共生の論理>へ

という3つの切り口の組み合わせが骨子となっていることに着目しましょう。 


 ここでの論ずるべきは、「価値形成構造」の転換を、「4つの概念要素」の組立方の転換として適切に分析できるかどうかです。個別具体的な転換現象の理解の厳密さを問うことが目的ではないので、検討がアバウトな点はご容赦いただきたい。


 たとえば、世の中の大きな転換を見渡せば、

<国鉄>から<JR>に変わった
<電電公社>から<NTT>に変わった
政治的議論のテーマが<自衛隊>から<PKO>に変わった
<中央集権の当然視>が<地方分権の必要視>に変わった

といった公的事業や軍事や行政の体制にかかわる「パラダイムの転換」が確かに生じました。(現実の状態が転換し終えたということではありません。)
 これらは、すべて概念図3に示した3つの切り口の組み合わせが骨子となっています。そして「パラダイムの転換」は、概念図4に示す<送り手側のモノ提供の論理>のら<受け手側のコト実現の論理>への「4つの概念要素」の組立方の転換として、具体的かつ統合的に説明できます。
 追って一つ一つ具体的に検証していきましょう。

 
 




 国鉄からJRへのパラダイム転換



 現在のJR各社の前身は、戦後昭和24年(1959年)に日本国有鉄道法施行により公共企業として再編された日本国有鉄道、国鉄です。それが昭和62年(1987年)にJR各社に分割民営化されました。
 国鉄からJRへの転換によって、何がどう変わったのでしょうか?
 モノとその機能だけをみれば、以前と同じように新幹線が走っていますね。
 結論から言えば、パラダイム=概念要素の組立方が変わったのです。それを検証していきましょう。

 国鉄時代、日本の国鉄は「世界一安全で正確である」ことを誇っていた。東京オリンピック(1964年)に間に合わせて東海道新幹線を開通させて以来、新幹線は「世界最速の先端技術」であった。
 また、全国に高速道路網や航空便網が整備されるまで、物資の輸送はトラックや航空機ではなくて鉄道が主役であった。民間の宅急便や引っ越しサービスなどが普及するまでは、遠隔地に嵩張る荷物や引っ越し荷物を送る際、人々は「チッキ」と呼ばれる駅留めの鉄道輸送サービスを利用したものです。
 つまり、旅客や物資の輸送において民間セクターの力がつくまでは、確かに国鉄が公益事業として社会に貢献していた、と言えるのです。

 しかし、民間セクターの力がついてくると、相対的に事業が非効率となり経営が悪化してくる。そして、「親方日の丸」の赤字体質が常態化するなかで、国鉄の累積赤字は膨大になっていく。そこで使用者側の国鉄当局は合理化をしようとするが、労働者側の組合はこれに断固反対する。
 1975年、スト権奪回を求めて行なわれたいわゆる「スト権スト」では、ストがなんと8日間も断行された。組合は、これによって物資の輸送がとどこおり各種産業に打撃を与え労使交渉を有利に進めることができると判断した。しかし、時代はすでにトラック輸送が全国を効率的にカバーできるようになっていて、思惑通りの影響を与えることはなかった。
 つまり、この時点で、国鉄は「公益事業としての社会貢献性」よりも「親方日の丸に胡座をかいて累積赤字という国民へのツケを積みまして平気でいる社会迷惑性」の方が大きくなってしまっていた、と言えるのです。
 スト権ストは、労使の闘争です。そこに国民は不在でした。
 組合も国鉄当局も、国民という鉄道利用者からすれば「送り手側」です。
 「送り手側」のお家騒動で、なぜ「受け手側」のお客様であり納税者でもある国民が多大な迷惑を被らなければならないのか。当時は、戦後の東西冷戦を背景に、イデオロギー的に右寄りの体制に対して心情左翼的な国民感情がまだまだ大きかった時代でした。しかしそれでも、国民は国鉄労働者に同情的ではなかった。なぜなら、国民は国鉄職員の「役人的に横柄に接客する態度や、自分たちの非効率的な労働環境に執着するばかりの実態」にすでに嫌気をさし始めていたからです。

 こうした背景があって、スト権ストから12年後、JR各社への分割民営化が達成される。最も反対したのは、国鉄当局ではない。現在もなお国鉄精算事業団が返済しきれない程の累積債務を生じた赤字体質を、責任ある立場の者なら誰しも野放しにすることは許されなかった。最も反対したのは、安穏と自分たちの権利ばかりを主張していた労働組合でした。その主張には、「そもそも国有鉄道事業は赤字が出るのが当たり前で、それが公益性というものだ」という乱暴な議論や、改札自動化に反対するばかりで利用者の利便向上をまったく顧みない議論などもありました。
 中曽根内閣が分割民営化を断行してJR各社の改革が目に見えて奏功してくるまでは、こうした今考えれば乱暴なご都合主義の主張を、当時は左寄りの色眼鏡でみてしまう傾向にあった新聞をはじめとするマスコミは、好意的に取り上げてさえいた。

 まさに、<過去>の送り手側の<内>で良しとされたパラダイムについて、それが受け手側の<外>のパラダイムに転換された<現在>だからこそ、このように誰もが良識として客観視することができるのです。

 国鉄時代は、国鉄当局と労働組合という<送り手側の論理>が、受け手である鉄道利用者や納税者たる国民不在の下、実践された。これは<支配の論理>に他ならない。国民は支配されていたからこそ、役人的な横柄な態度にも、スト権ストによる不自由にも、そして孫子の代までツケを回されても我慢するしかなかった。これを支配と言わずして何というのでしょうか。まさか「公益性ある社会貢献」という偽善をそのまま受け入れるわけにはいかないでしょう。

 国鉄の<送り手側の論理>は、単純な<モノ提供の論理>でした。
 {モノ提供}とは、モノの生産や流通そして小売りばかりではありません。本来、サービスとは、顧客志向で思いやりをもって接客したり顧客の利便向上をはからねば、お金を払って利用してもらえない。それを、まるで感情のないロボットが投げやりにするかのような{モノ化してしまったサービス}も含みます。国鉄の場合、顧客の満足不満足などお構いなしに、単純に「人間や物資をA地点からB地点に安全かつ正確に運びさえすれば良いのだ」という役人的なサービスでした。

 こうした国鉄のパラダイムを{概念要素の組立}として分析してみましょう。
 すると、まず土台に、「モノを運ぶ」という<モノ機能>がある。
 そしてその上に「安全、正確、最速」といった<モノ感覚>がある。
 この2つはともに{モノの価値}です。国鉄の「{モノの価値}さえしっかりしていればいいだろ」という役人的企業姿勢の土台でした。
 そして最後に「公益事業としての社会貢献」というコト意味」がのっかってくる。
 
 この<送り手側のモノ提供の論理>は、あくまで送り手側の主観であって、受け手側の客観からすれば、まったく違って観えてきます。
 「モノを運ぶ」のは私鉄でも鉄道事業ならば当たり前ですから<画一的>。
 「安全、正確、最速を追求する」のは、国を代表する鉄道であれば当たり前ですから<没個性的>。
 さらに、赤字垂れ流し体質やお役人的な横柄な接客態度に照らせば「公益事業としての社会貢献性」とは上っ面のうたい文句でしかないので<皮相的>、
 ということになります。
 このように従来のパラダイムを客観視すると{問題を発見}できます。
 そして問題を解消すべきという{課題を創造}できる。国鉄の場合、「本来の公益事業としての社会貢献性を回復する」という課題でした。


 さて、国鉄分割民営化によって誕生したJR各社の有りようを顧みてみましょう。

 JR東日本の初代社長は、その創立時の訓示で、「これまでの国鉄はモノを運んだが、これからのJRはお客様のこころを運ぶ」という主旨を述べた。まっとうな民間企業の社員としての感性、顧客志向、サービス志向をコンセプチュアルに説諭したのだ。
 実際、国鉄からJRに変わって、駅員や車掌の接客態度は一変した。
 改札自動化が進んで、利用者が改札に並ぶことはなくなった。「のぞみ」に象徴される旧国鉄ではできなかった新幹線の高密度旅客輸送体制が整備された。旧態依然だった駅構内に様々な店舗ができた。高齢者夫婦向けの周遊旅券「フルムーン」といった新商品が登場した。プリペイドカードの「オレンジカード」やマネーカードの「ビューカード」、レンタカーの「トレンタくん」といった新サービスが続々登場してきた。
 そして顧客満足は目に見えて高まり、経営も健全化してくる。じつに赤字を出さない方が公益性は保てたのでした。

 こうしたJRのパラダイムを、{概念要素の組立}として分析してみましょう。
 すると、
 まず土台に、鉄道利用者や納税者たる国民が求める「本来の公益事業としての社会貢献」という<コト意味>がある。これは国鉄では果たされなかったことですから<画期的>。
 そしてその上に、「安心、快適、便利」といった鉄道利用の<コト感覚>がある。{安全に移動できる}というのは当たり前だが、{安心して快適な旅ができる}{便利に快適な出張にいける}というのは異る次元の顧客満足ですから<個性的>。
 この2つはともに{コトの価値}です。こうしたコトの課題を達成する手段として、JRならではの新旅客輸送体制、新商品や新サービス、新機構という<モノ機能>がのっかってくる。これは、<送り手側のモノ提供の論理>のパラダイムの土台にあった当たり前の<モノ機能>のような画一的なものではなく、あくまでJRならではの独自の新機軸ですから<特徴的>、
 ということになります。

 この新たなパラダイムは、<受け手側のコト実現の論理>と言えます。「コト」とは、受け手が生活者や国民ならば{生活}や{公益}であり、ビジネスマンならば{仕事}や{ビジネス}のことです。言うまでもなく、顧客志向やサービス志向とは、受け手側の求めるコトを実現してその満足や期待をより高めていく<受け手側のコト実現の論理>でなくてはなりません。

 <送り手側のモノ提供の論理>は、最初に既存の画一的なモノやモノ化したシステムがあって、結局はただそれを温存させることに血道を上げる。顧客志向や公益志向の欠落を、皮相的な意味づけやうたい文句で糊塗しようとします。
 一方、<受け手側のコト実現の論理>は、最初に受け手にとって有意義な画期的な理念なり目的がある。理念を具体化し目的を達成していくために特徴的な新商品や新サービスという手段を打ち出していきます。

 以上のような国鉄からJRへのパラダイム転換を整理すると、概念図5のようになります。

 

 

 

 

 

電電公社からNTTへのパラダイム転換



 電電公社が民営化して日本電信電話株式会社、現在のNTTが発足したのは、昭和60年(1985年)です。
 まず、当時の通信事情はどのようなものだったかを顧みてみましょう。
 
 民営化の前年1984年に、自動車電話サービスが全国で開始されている。そして民営化の同年1985年に、ショルダーホンのサービスが開始され業務用携帯電話が普及しはじめる。それから5年たった1990年に、NTTが欧州の通信機器メーカーとデジタル自動車電話を共同開発することを発表している。つまり、80年代から90年代初頭の当時は、今日のようにデジタル携帯電話を誰もがもつようになるなど、誰も想像さえしていない時代なのでした。

 民営化の前年1984年に、第二電電、後のDDIが、そして日本テレコム、日本高速通信が設立される。通信事業の自由化を契機に自動車電話事業への参入を狙っての民間の参入だった。科学技術的にはデータ通信の発達が予測されていたものの、日本で「インターネット」なる言葉を知る専門家さえごく僅かで、今のようにすべての情報をデジタルデータ化して通信する時代がやってくるなど、夢のまた夢の時代なのでした。


 ではそんな当時、電電公社が民営化して通信事情にどのような変化があったのでしょうか。
 象徴的な変化は「端末機器の解放」でした。



 明治23年、電信電話サービスが開始されて以来、電気通信に利用される端末機器は、逓信省(後の郵政省)または電電公社の支給するレンタル機器しか許されない時代が長く続いていた。それが、民営化に伴って制定された法律によって、電話機を含めた全ての「端末機器の開放」が実現したのです。
 現在のように家電メーカー各社が競っていろいろな電話機を作って売っている状況は、昭和60年の民営化の後に可能になりました。
 
 インターネットにおける日本の先駆者村井純の著書「インターネット」の以下のような記述が、民営化以前の様子を雄弁に語っています。

 「1985年4月に電電公社が民営化されてNTTになるまでは、一般の回線を電話以外の 目的で使うことは、ハードルが高くて普通の人にはとてもできませんでした。正式には認可が必要でしたし、それはたいへんな手間と出費がかかりそうでした。たとえば300bpsの(いまから見ればおもちゃのような)モデムで、電話回線を使って どことどこをつなぐということの正式認可を得るために、書類を出して、機器をそろえてとなると、何百万円かは覚悟しなければなりません。しかも、電電公社との、何段階ものネゴシエーションのために足しげく通わなければだめだとか、そんな状態だったと思います。」
 日本の通信事業は電電公社の独占で、事細かに法律の厚い壁に守られていました。自分の会社同士でも 道路一つ隔ててLANを張ることができなかったり、本社経由の支店間のメッセージ 伝送が御法度だったり、今では信じられない法律があったのです。



 さて、電電公社民営化によって発足したNTTは、いかなる具体的な刷新をはかったのでしょうか。
 新生NTTは、まず総合的なCIを導入しました。企業の“顔”にあたるコーポレートシンボルマークは愛称「ダイナミック・ループ」、“心”にあたる企業コンセプトは「未来を考える人間企業」ということでした。
 まずお客さまに対して民間企業としての顔をもつことから出発した。顔を持たねば、責任をもった行動はとれない。よって、これは対外的な訴求であると同時に、対内的な啓蒙でもあったわけです。
 ダイナミック・ループは、「コミュニケーションを通じ、人間社会の発展と人々の豊かな暮らしに真に役に立つため、お客さまを発想の原点におき、ダイナミックに自己革新を続ける温もりのある企業を目指す決意を表しています」と説明されました。
 ここで注目すべきは、キーワードが「お客様を発想の原点において自己革新を続ける民間企業としての出発」(コトの画期的な意味)、「ダイナミック、温もりのある」(コトの個性的な感覚)であったことです。そしてこのキーワードに表現されたコト、つまり企業課題を、

 1985年、フリーダイヤルサービス0120開始。
 1987年、携帯電話サービス開始。  
 1988年、INSネット64、東京、名古屋、大阪でサービス開始。
 1989年、フリーダイヤルカード販売開始、
       INSネット1500のサービス開始、
       情報料回収代行サービス(ダイヤルQ2)開始、
       テレホンカードによる通話料支払いを可能に。
 
といった新商品や新サービス(モノの特徴的な機能)を矢継ぎ早に打ち出すことによって解決していったことです。

 電電公社からNTTへのパラダイム転換は、露骨にお役所的な支配の論理である<送り手側のモノ提供の論理>から、<受け手側のコト実現の論理>への転換でした。
 ここで「モノ」とは、{回線や端末}そして{モノ化した(温もりのない)通信サービスや工事サービス}といった事業資源であり、「コト」とは生活者やビジネスマンや企業の{コミュニケーション}といった事業需要のことです。

 CI発信にあたって、テレビでキャンペーン広告「かえるコール」を展開しました。これはサラリーマンの亭主が帰宅する前に奥さんに電話するという「温もりのシーン」を繰り返し放映することで、新生NTTの好感度獲得を狙ったものでした。
 当時、新生JRでもCI発信にあたって、遠距離恋愛をする若いカップルが新幹線最終列車ホームで別れを惜しむという「温もりのシーン」を繰り返し放映しました。
 これは<コトの個性的な感覚>を反復訴求することで<コトの画期的な意味>を印象づけるPR戦略に他なりません。人々に対して「心を運ぶ」JR、「心を繋ぐ」NTTといった印象を抱かせ、民営化への期待を増進する効果は確かにありました。NTTの場合、一般個人投資家向けのIR効果も高かったようです。
 広報の効果は、具体的な構想の発表や実績の報告によるよりも、その根底にあるパラダイムを人々に感情的に容認してもらうことによって深まります。人々が感情的に容認するパラダイムは<送り手側のモノ提供の論理>ではなく、明らかに<受け手側のコト実現の論理>です。ですから前者が後者に転換したことだけを、キャンペーン広告は印象づけようとしたのでした。
 
 

 以上の内容を整理すると、電電公社からNTTへのパラダイム転換は概念図6のように整理することができます。

 

 

 

************************ 閑話休題************************


 NTTは、今でも電電公社という国営の体制をひきずっている。
 日本の東側を「NTT東日本」、西を「NTT西日本」、長距離電話を「NTTコミュニケーションズ」。分割民営化されたといっても、競争のないように分けられ、それぞれ独占状態のままだ。つまり、民営化したと言っても何にも変わっていないじゃないか、という議論がある。
 これは、NTTとその他の派生企業という送り手側の独占および競争を問題にしていて、現実の状況はまったくパラダイム転換していない、とする正論である。
 ここでの議論は、電電公社の受け手である顧客や生活者に対する商品やサービスのあり方が、NTTになってどのようにパラダイム転換したかに限定し、特にコミュニケーション戦略に焦点をあてている。

 ただ忘れてはならないことがある。 
 それは、電電公社の民営化は、時の政府自民党の政治的方策として断行されたもので、政治的経緯を背景にした通信事業市場自由化への歪みが生じている、ということである。国鉄のように赤字累積が問題になって改革が迫られた訳ではない。むしろその逆で、国がため込んだ借金、つまり国債の償還資金を都合するための方策であった。

 1985年に日本電信電話公社が民営化され、NTTが発足。
  政府に無償譲渡されたNTT株の売却収入は「国民共有の財産」であり、国民全体のために使うのが原則とされた。85年の国債整理基金特別会計法改正により、NTT株の売却収入を「国民共有の負債」である国債の償還財源とすることになった。
  しかし、NTT株式の売却が始まった86年は、国が財政再建に向けた取り組みを進める一方で、貿易黒字拡大等を背景として先進各国からの内需拡大要請が高まっていた。そこで、「NTT株の売却収入を社会資本整備のために一時的に活用する」というNTT株活用事業が創設される。そしてその後紆余曲折があって当初の目的を逸脱。NTT株の売却収入を投入しない公共事業が、公共事業のかさ上げのために、実質的にNTT株活用事業として扱われるようになる。国の借金を補てんするための方策が、国の借金を増やす仕掛けになってしまったのだ。

 以上のことから学ぶべきは、
 あるパラダイム転換をはかる様相を装ったコンセプトが、じつは他の目的のための政治的手段であるケースがある、という現実である。
 コンセプトはパラダイム転換をはかるコミュニケーション戦略である以上、それを分析する際に、発信主体のほんとうの戦略意図がどこにあるかを見抜くことが不可欠である。
 電電公社民営化によって通信事業市場の自由化をはかったとする政府および旧郵政省が、額面どおりのパラダイムの大転換を本気で推し進めようとしたのかどうかは、かなり疑問だ。それは、NTTが国営体質をひきずって独占体制を固守し続けていることと無関係ではあるまい。

 

(ちなみに、電力会社の「原子力発電を含む発電方式のウェルバランス」のPR広告は、一方的な構想の発表や実績の報告でしかない。視聴者は、その根底にあるパラダイム<送り手側のモノ提供の論理>を感じ取るから、感情的には決して共感しない。結果、人々の原子力容認を拡大するのではなく、原子力拒絶の拡大をくいとめる効果しか持ちえない。老若男女に好感度の高い著名人が「ご一緒に考えましょう」と最後を締括るが、視聴者には自分の考えを誰にどうやって伝えればよいのかさっぱり分からない。これでは感情移入は無理である。
 2000年代初頭、原発絡みの事故や事故隠しが起こると原子力拒絶の拡大をみる。しかし、原発停止によって電力需給の悪化が予測され大都市の停電が懸念されるようになり、実際にニューヨークをはじめとする北米大都市において大停電が起こりその様子が報道されると、不安という防衛本能的な感情から原子力容認が盛りかえした。大衆が既存の原発は必要最低限のものとして許容すべきと納得した形だ。つまり、電力会社はその不始末によって、原子力容認を拡大したことになる。

 以上のことから学ぶべきは、
 大衆の<受け手側のコト実現の論理>は、個人の<合理的な知性>がそのまま集団化するケースよりも、為政者のプロパガンダや天災や大事故や戦争などの社会的インパクアトによって喚起される<本能的な感情>を後付けで正当化するケースが多い、という現実である。)

 

******************************************************

 

政治的議論のテーマとしての<自衛隊>から<PKO>への転換



 1989年(平成元年)11月ベルリンの壁が崩壊した。世界が冷戦の終結と新世界秩序の模索という歴史の転換点に差しかかったとき、湾岸危機が発生した。1991年(平成2年)1月には湾岸戦争に発展し、クウェートに侵攻したイラク軍と多国籍軍の地上戦に突入したが、国連の旗のもとに結集した国際社会の努力により同年4月に停戦が合意された。
 湾岸危機の中で、国際世論は、我が国に対して経済大国にふさわしい貢献をすることを求め、さらには人的貢献をも求めた。政府は、最終的には、湾岸地域平和回復活動支援の財源確保法案を成立させ、総額130億ドルの支援をした。さらに人的貢献として、ペルシャ湾の機雷除去のため海上自衛隊掃海部隊を、自衛隊法第九十九条の規定に基づき派遣した。

 一方、我が国でも、このような国際情勢の変化を受けて、世界の平和と安全を確保するため何をすべきかという議論が起こった。湾岸危機のさなか、政府は国際連合平和協力法案を提出したが、この法案は審査未了のまま廃案となった。その後、国際貢献論議がさらに高まり、1992年(平成4年)9月、政府は国連の平和維持活動や人道的な国際救援活動に日本が本格的に参加するために国内体制を整備することを目的として国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律案(PKO法案)を提出した。同法案は、一つの法案審議としては異例の三国会にわたる審議が行われ、翌年6月、ようやく可決、成立した。

 こうした80年代末から90年代初頭の動きを境に、それまでの政治的な議論のテーマは「自衛隊」から、明らかに「PKO」 に変化しました。


 {自衛隊論議}では、防衛予算を国家予算全体の何%に抑えるべきかというシーリング、次期対潜哨戒機は必要なのか不要なのか、海外派兵の際はどのような武器を携行させてよいのかいけないのかといったことが論じられました。つまり{専守防衛}の<送り手側のモノ提供の論理>に終始する「機能論」が争点でした。

 一方{PKO論議}では、平和維持という<受け手側のコト実現の論理>を展開しての「意味論」に争点が変化したのでした。ここでコトとは、「平和維持」であり、その手段として戦争への加担ではなく{選挙監視}{難民救済}{食糧支援}{医療支援}など多様に想定されました。
 この変化はいまだ完了していないが、「手段の議論=機能論」を送り手側の日本政府の論理で考える枠組みから、「目的の議論=意味論」を受け手側の当該地域の人々の論理で考える枠組みへの転換に向かっています。

 以上の内容を整理すると、概念図7のようになります。



 

************************ 閑話休題************************


 2001年9月11日米国貿易センタービルを崩壊させたテロの後、アメリカによるアフガンへの反撃に対して日本はいかなる対応をすべきか、国会で論戦がたたかわされた。
 PKO法案成立から9年もたっていた当時、日本人の国家の安全保障および世界への国際貢献そしてそれらの相関についてのパラダイム(考え方の基本的枠組み)は転換のさなかにあるため、与野党の論戦の争点は明快ではなかった。

 戦争の送り手側の論理に立つならば「安全保障を最優先すべき」である。
 一方、戦争の受け手側の論理に立つならば「国際貢献を最優先すべき」である。ここで「国際貢献」とは、アメリカをはじめとする同盟国という戦争の送り手への軍事的貢献ではなく、まさに世界全体に対する国際貢献であったり、戦争被害を受けて塗炭の苦しみにあえぐ難民という戦争の受け手に対する人道支援のことである。
 戦争の送り手側の論理と、戦争の受け手側の論理では、まったく異なるのは明快だ。
 そして本来ならば、どちらのパラダイムに立つかで、おのずと明快に異なる結論が導き出される筈なのだ。
 しかし、同盟国への軍事的貢献の中で憲法上の制約を理由に人道支援をして、アメリカと日本国民の両方にいい顔をするという政府与党のパラダイムと、国連主導の国際貢献の中で人道支援をして経済大国としての責任を果たすべきだという市民のパラダイムでは、同じ人道支援を論じても、そのよって立つパラダイムの対立を論点にしなければ、何も論じられないに等しい。

 国会での与野党の論戦は、徹底的なパラダイム対決をしないまま、目先の落し所を模索する方向に動いた。
 パラダイムの転換期には、旧パラダイムも新パラダイムもともに賛同者が多い。また説得力も同程度にあるため、政治家も選挙民も一人の人間の頭の中にさえ矛盾した考えが併存したりもする。
 そういう状況で、対立するパラダイムのどちらかに自らの旗色を明らかにすることは得策ではない。そのような「なあなあ主義」の物言いが、政治家にも、マスコミにも、そして国民にも、無意識に働いたようだ。

 「急場凌ぎの議論は避けるべきだ」と野党はいった。
 ならば、パラダイムの対立軸を明快にして根本的な議論をすべきであった。
 新聞やテレビも、パラダイムの対立軸を解説して、本質的な争点を明快にすべきだった。
 具体的には、与党が「アメリカに対する軍事的な後方支援を主軸とする直接的な国益最優先」策を、そして野党が「国連主導の人道的な国際貢献を主軸とする迂回的な国益優先」策を、それぞれ明快な対案として打ち出した上で国会討論をすべきではなかったか。前者は「アメリカ追随」と、後者は「一国平和主義」と短絡的なレッテル貼りをした感情的な対立だけが展開してしまった。
 しかも、与野党それぞれの内部で意見が分かれていた。
 自衛隊も海軍と陸軍で意見が分かれていた。その際、参戦意欲が積極的にしろ消極的にしろ、自分たち軍部や軍人のご都合ならばそれは官僚主義であった。それをマスコミや政治家が問題視しないことはシビリアンコントロールを失う遠因になる。そのような事態が看過されたのも、国家の安全保障と世界への国際貢献についての本質的なパラダイム対立が明快な国民的議論になっていないからである。

 同じ食糧というモノも、同じ医療というコトも、パラダイムによって軍事支援にもなり人道支援にもなる。要はパラダイムを{短絡的なレッテル}ではなく{概念要素の組立方}として明快にしなければ、与野党の政治家も、陸海の軍部も、そして体制反体制のマスコミも、「玉虫色の決着」をめぐってそれぞれに都合のいい解釈と対応に終始するしかない。
 日本という国の平和や戦争に対する哲学を明快なパラダイムとして説得的に提示できなければ、いくら貢献したつもりでも国際社会には理解されようがない。物事はパラダイムに照らした文脈(コンテクスト)としてしか理解されないからだ。
 「玉虫色の決着」は、仮に日本人同士のコミュニケーションにおいて有効に作用してきたとしても国際的には有効ではない。文脈(コンテクスト)が国際社会から説得的に理解されないからだ。分かりやすい「アメリカ追随」という文脈でのみ理解されるだろう。
 むしろ情報化と生活者や市民のネットワーク化の進んだ現代では、戦争と平和、環境と資源、人権と民主主義などについてのパラダイムの対立図式が国際的に共通化してきている。国境や文化の壁を超えて、同じパラダイムの議論や世論はすぐさま共鳴し、異なるパラダイムの議論や世論はすぐさま争鳴するようになってきている。私たち日本人は、国民的議論を、国際社会のパラダイムの対立図式に照らして際立たせるように形成して、国際的な関心や影響を受容したり喚起していくべきだろう。


 こうした明快なパラダイム対立の欠落の様相は、2003年のイラク特措法をめぐる議論にそのまま持ち越された。
 与党による強行採決の結果、日本は国連の承認がなくても同盟国の要請に応えたり自国の判断で派兵できる国になった。
 そして、遠いアフガニスタンやイラクの問題でのこうした成り行きは、北朝鮮の核開発をめぐる緊張への国際社会の対応における日本の基本方針の決定にも影響せざるを得ない。「アメリカにどこまで協力するか」という問題意識で考え場当たり的に出した結論が、喉元に突き付けられた北朝鮮の核や拉致の問題に対して「日本はどのように独自の判断と行動をしていくか」という問題解決に反映していく。そこには、日本の安全保障をアメリカが十分にしてくれないのであれば、核武装を含めて自分たちでやるしかないと結論される可能性もある。
 国家の安全保障についての明快なパラダイム対立という<合理的な知性>の過程を経ないで自国の判断で派兵できる国になってしまったことは、<本能的な感情>によりあらゆる行動を正当化してしまうというパンドラの箱を開けてしまったのかも知れない。

 

******************************************************