第二章 「物事の価値」と「パラダイムの転換」

 

 

。 世の中の小さな転換を分析しよう!

(マーケティング戦略の核心)

----- 商品/商売/店舗にみる「価値形成の構造転換」 -----

 

「業種」から「業態」へ



 みなさんは「業態」という言葉を、耳にしたことがあるでしょう。
 商業学や商業界の専門家の間では、「業態」について、たとえば商品やサービスの取り扱い品目と提供の仕方、商品単価と客単価、店舗の規模形態と立地、顧客の来店頻度などの想定が同じものを一つの「業態」と捉えるといった{機能論}からの定義がされています。
 しかしここでは、単純明快に、
 <送り手側のモノ提供の論理>で価値形成された商売が「業種」
 <受け手側のコト実現の論理>で価値形成された商売が「業態」
 と定義します。

 たとえば、単に生花を仕入れて売るのは花屋という「業種」だが、顧客の注文に応じて好みのラッピングをしたりカードをそえてくれるフラワーギフト・ショップは「業態」ということになります。
 「業態」は、このように生活者や顧客にとっての{意味論}からの定義です。これほどシンプルかつ誰にでも分かりやすい本質的な定義はないでしょう。


 80年代以降、人気のある商売のほとんどは、従来の「業種」ではなく新しい「業態」になってきていることを、事例を上げて確認していきましょう。 
 ある商売分野に「業種」しかなかった状況に「業態」が登場した。つまり新しいパラダイムで商売が開発されるようになった、という{商売のパラダイム転換}に着目していきましょう。


 まず卑近な共感できる例として、90年代前半にテレビでレポートされた「子供写真館」の創業話をするのが分かりやいでしょう。

 ある主婦が生まれた赤ん坊の記念写真を写真館で撮ってもらった。撮影代も衣装代もともに高いので、その後はせいぜい七五三くらいしか撮影できない。ほんとうは生後100日、満一歳、満二歳と可愛い育ち盛りにこそ、プロの手で記念写真をたくさん撮りたいのに、これではとてもプロには頼めないと不満を抱いた。
 そこで、この主婦は考えた。衣装代を含めて安くプロに記念写真を撮ってもらえる商売をすれば当たる筈だと。
 当時、業務用のデジタルカメラが登場しはじめていた。彼女はこれに着目しさっそくコニカに相談してその協力を得る。デジタルカメラなら沢山とった内から良く撮れたものを選んで現像すれば、撮りっぱぐれがないししかも安くすむ。人件費の高いベテランのカメラマンでなくても良い。さらに、衣装を年齢ごとに沢山そろえて安くレンタルすれば喜ばれるだろうと考えて起業した。
 実際、このアイデアはヒットし、女社長となった主婦の奮闘記がテレビでレポートされました。それが現在のスタジオアリスような、おとぎ話の主人公の名前を冠した子供写真館チェーンが全国に展開する状況を導いたのです。

 どのような写真館だったのでしょう。
 幹線道路沿いの駐車場付きプレハブ店舗で、撮影フロアとレンタル衣装倉庫からなる。撮影スタッフはベテランのカメラマンではなくて、子供をあやすのがうまい体操のお兄さんみたいな若者だ。親御さんも気楽に一緒に子供をあやしながら撮影作業をイベントとして楽しめる。一回の撮影代が安く済むので、その分リピート客となって小学校入学くらいまで毎年利用するケースが多かったという。
 (ただし、90年代末から安価で高性能のデジタルカメラとプリンターが普及して、家族が自前で撮るケースに押されてくる。カメラマンにプロとしての高度なテクニックが求められるようになり、それに応じて撮影設備も充実された。撮影テーマを多様化しそれに応じてレンタル衣装も充実される。さらに長引く不況下、価格競争が生じた。結果、現在は零細資本の起業では立ちいかない業態に成熟している。)

 子供写真館が登場するまで、私たちはいわゆる{街の由緒ある写真館}やその出店である{ホテルや結婚式場の写真館}で、成人式の記念写真やお見合い写真を撮ってもらっていました。プロの手で記念写真をとるということは、そういうことであり、それ以外の方法はありませんでした。
 通常の写真館はどのようなものだったのか、改めて思い出してみましょう。

 典型的には「曽祖父が長崎で学んだ名だたる写真技師で、元○○藩主○○候もお撮りした」逸話が見て取れるセピア色の写真がウィンドーにディスプレイされていたりする。店は、かつて地方を代表した旧商店街のメインストリートにあり、大駐車場はない。親御さんが子供を撮影してもらいにいくと、まるで医者に診てもらうかのような感じで、ベテラン然とした撮影技師に「よろしくお願いします」と丁重にお願いしたりする。値段は、ご祝儀相場ということもあって基本的に高かった。ちなみに同じ長崎に起源をもつ医院と写真館には、先生と客という人の関わり方、経過する時間と空間の構成において確かなアナロジー(類型性)があり、私たちはそれを<無意識のパラダイム>として受け入れてきたと言えます。
 (現在は、こんなNHKの朝ドラに出てくるような老舗写真館は少なくなった。街の写真館として生き残っているところも「子供写真館」とか「ペット写真館」を標榜してリーゾナブルな値段を明示するようになっている。)

 従来の写真館は、<送り手側のモノ提供の論理>「業種」でした。なぜならば、掛かるコストに望む利益をのせて、それでも撮ってくれと頼んでくる客を相手にしていれば良い商売だったからです。
 一方、子供写真館は、<受け手側のコト実現の論理>「業態」です。
 可愛い育ち盛りの幼児の記念写真を毎年でもプロの手で撮ってもらいたいという大きな潜在欲求を発掘して満たしてしまった(コトの画期的な意味)。ここでコトとは{記念撮影ライフ}のことです。気づいてみれば当たり前だが、撮影技師にうやうやしく撮ってもらうのではなく、親御さんも一緒に幼児をあやして楽しく参加できる方が良かった(コトの個性的な感覚)。そんなすべてを、幹線道路沿いの駐車場付きプレハブ店舗、安価な衣装レンタル、そして撮りっぱぐれなく選択現像できる業務用デジタルカメラの活用、人件費の安い体操のお兄さん的カメラマンの起用といった全体システムで実現したのです(モノの特徴的な機能)。

 
 以上の内容を整理すると概念図11のようになります。


 

 

 

 


「出前」から「宅配」へ



 1990年代、宅配ピザの台頭を皮切りに、宅配弁当や宅配寿司が普及した。
 この「宅配」というサービスと、昔からあった「出前」というサービスは、どこがどう違うのでしょう。 
 食事を家に配達するのは同じですね。

 結論から言えば、
 「出前」は<送り手側のモノ提供の論理>「業種」
 「宅配」は<受け手側のコト実現の論理>「業態」
なのです。

 
 蕎麦や寿司の出前は、蕎麦屋や寿司屋があくまで店での商売をベースとしている付加的なサービスです。あくまで本業に影響なくできる範囲という店側のTPOで客の注文に応じていました。
 蕎麦屋は、注文してもなかなか来ない。電話をかけて急かせると「今出ました」と嘘をつく。嘘と知りつつ、そうですかと言う。それがお約束でした。近所の寿司屋が昼間やっているかどうか分からない。わざわざやってくれても値段がいくらになるか分からない。お客はそんな不便で不安な状態だった。だから、どうしても家で食事をつくれない引っ越しの時や、突然大事なお客様があって御馳走しなければならない時にしか利用しなかった。かつては主婦がどんな時でもうまい料理を作るのが当たり前とされていたから、出前の食事を「店屋物」と言い頻繁な利用は御近所や親類の顰蹙をかったものです。
 利用する場合は、主婦が家族やお客様の分を注文して、客間や居間や台所といった家のパブリックなスペースで食べるのが一般的でした。

 一方、ピザや寿司の宅配は、宅配が専門の商売です。営業時間内、広範囲なネットワークで即座の製造配達をしている。当初の宅配ピザ業者には「30分以内に届けられなかった時は料金はいらない」と宣伝するところまであった。寿司の値段も各戸にポスティングされるメニューで明朗です。私たちは何の不便も不安もなく利用できます。
 これは、いまは当たり前だが、宅配以前は当たり前ではなかった(コトの画期的な意味)。<無意識のパラダイム>で「出前とはそんなものだ」と思っていたのです。しかし誰もが潜在的には客側のTPOに応じた便利で安心できる食事の製造配達を望んでいた。そんな潜在ニーズを、ピザ宅配が発掘して満たしてしまった。
 さらに受け手側の家庭は、80年代の核家族化、90年代の核分裂家族化をうけて新たな局面を迎えていた。家にいる「奥様」が減り外出がちの「外様」が増えていた。その傾向は有職主婦の増大とともに拡大する。子供に個室を与えるのが一般化したために、子供が部屋で友達と過ごす遊び方が普及していく。そういう状態で育ったティーンエイジャーは、自室で友達と語らったり音楽を聴いたり映画を視たりテレビゲームをしたりして過ごすようになる。以前からそうであったように、若者にはアメリカ文化ないしその影響下にある日本文化が好まれた。宅配ピザのコマーシャルに、ダンス系ミュージックとそのジャンルのタレントが起用されたのは、そうしたティーンエイジャーのライフシーンへの浸透を促進するためでした。そして、届いたピザを自室で友達とすぐに食べて楽しく盛り上がれることが受け入れられたのでした(コトの個性的な感覚)。 

 (宅配ピザは、徐々に若者の食べ物から主婦の食べ物になっていく。家にいるのが専業主婦ばかりとなり、主婦同士がリビングで集まる時など割り勘で楽しむ。当初はアメリカのピザメニューしかなかったが、日本人向きに改良されたピザや女性向きのヘルシーピザが導入される。90年代末に向けて、携帯電話の普及による若者のコミュニケーションの変質と外食のデフレ化の影響で、いまは相対的に高どまりしている宅配ピザの若者による自室利用に当初のような勢いはない。)
  
 「宅配」の市場創造、顧客創造を実現したのは、宅配専門の製造配達体制であった(モノの特徴的な機能)。それは「出前」の体制とは全体システムとして全く異なっている。
 たとえば、外食チェーン店舗に出前体制を加えれば、客側のTPOに応じた便利で安心できる食事提供ができる宅配体制になるかと言えば、一部の例外を除いてそうはならない。できても鳴かず飛ばずであったり宅配専門並の製造配達速度を達成できない場合が多い筈です。
 なぜならば、まず第一条件として、想定配達地域で十分多頻度の配達注文が発生するメニュー構成でなければならない。だから、メニューが限定された「お届けケンタ」は既存のフライドチキン店舗からでは困難であり、「ピザハット」も注文できる宅配専門の製造配達体制でなければ効率をこなせない。第二条件として、注文を受けてから作る製造方式(とそれによって規定されるパッケージ方式)の問題がある。メニュー構成にバラエティのあるファミリーレストランでも、製造方式を宅配弁当と同じに冷凍やクックチルドのユニットを加熱してアッセンブルするだけの工程に特化しているものだけが、製造宅配も効率的にこなすことができます。
 宅配専門業態が普及しはじめて10年になるのに、「ピザ」と「高級弁当」と「寿司」しか成功していない。それには理由があります。理由の一つは、製造方式(とそれによって規定されるパッケージ方式)の制約条件です。そして、さらに「冷めてもプロならではのおいしさが保てるメニューおよび仕様」「想定される食事シーンに適した仕様およびパッケージ」という制約条件です。

 ピザそのモノに着目しましょう。買い置きの冷凍ピザ(70年代に台頭)では味わえない冷めてもおいしいプロの味が必要でしたが、80年代に台頭したシェーキーズのウェットなアメリカンタイプではなく、90年代に人気沸騰した生地の薄いイタリアンタイプでもなく、ドライなアメリカンタイプであったのは偶然ではありません。届いたら自室で友達とすぐに食べて盛り上がれるカット済みドライタイプで、そのまま皿代わりになるパッケージ入りといった全体システムがあって、はじめて新しい顧客たちの習慣的利用というリピートが確保できたのです(モノの特徴的な機能)。

 
 以上の内容を整理すると概念図12のようになります。

 

************************ 閑話休題************************


 21世紀初頭の現在、活況を呈している回転寿司。
 幹線道路沿い立地の回転寿司店舗が出前体制を加えたならばどうだろう。
 客側のTPOに応じて便利で安心な、しかも事業効率も確保する宅配体制を実現できるだろうか。

 製造方式(とそれによって規定されるパッケージ方式)の制約条件、そして「冷めてもプロならではのおいしさがあるメニューおよび仕様」「想定される食事シーンに適した仕様およびパッケージ」といった宅配事業を成立させる制約条件は、すべてクリヤーするように思われる。

 幹線道路沿いの広域集客を前提にした製造宅配基地を兼ねた大型店舗ならば、近隣向けテイクアウトと中域配達網を想定すれば、カニバリ(自社競合)を回避しつつ効率のよい調和点を見出せるだろう。
 いまは活況を呈しているから店内サービスに専念していればよいが、同業態のチェーンが多店舗化し、価格競争も激しくなって、スケールメリットの追求や活用が課題になってくれば、ファミレス業界の「ガスト」のような宅配体制導入をする回転寿司も出てくるのではないか。
 回転寿司のメニューのバラエティは宅配寿司に比べて圧倒的だ。定刻に店頭でマグロをさばく高鮮度メニューもある。これを事前にネット上で告知して破格タイムセールするなど、店舗での多様な製造方式にリンクしたネット宅配サービスが好評を呈するのではないか。
 回転寿司は、人気店ほど長い行列ができて長い待ち時間をしいられる。競合が激しくなってきた時、顧客にとってこの待ち時間の長さは必ず問題になる。


 「ガスト」では、店舗を『地域のコミュニティー拠点』と見立てて、地域に溶け込む一つの具体的な方法として「宅配サービス」を1998年から開始した。
 この宅配メニューの中で人気を集めているが「ダイエットメニュー」だ。ダイエットをする人のためのメニューであるだけではなく、糖尿病また他の理由で食事制限をしている人の利用も多い。メニューのカロリー、塩分表示の完全徹底を実施している。一般の家庭でダイエットや健康上の理由でカロリーの計算をいちいちしながら食事を取るというのはなかなか難しい。個々の家族の食事を別々に考えて準備することも主婦には厄介だ。この点に目をつけたすかいらーくでは、妊娠・子育て中の女性、病人、高齢者達の需要を考えてこのようなサービスを作り出したそうだ。
 また一日三食を配達してもらう時は、アツアツの食事と残り2食は冷凍のままで配達してくれるので、時間に合わせて電子レンジで温めて食べればいい。この消費者側のニーズに応えた宅配サービスの2000年の売上は前年の5倍、約100億円に増加した。すかいらーくでは、「ルームサービス」という商標で「自宅に居ながらホテルの客室に居るようなサービス」を提供し、多くの人のための利用計画を図っている。

 今後の宅配サービスは、単に一般客向けの出来立ての食事を家に配達するだけでなく、多様な個人や個々の家庭の多様な食事ライフを支援するサービスに進化していくだろう。
 この動向は、同じ「品種」を同じように提供して不特定多数のニーズに対応する「マス・マーケティング」から、多様な「品態」を多様な提供の仕方で提供することで特定の個人や個々の家庭のニーズに対応する「ワントゥーワン・マーケティング」への転換に着実に進んでいく。

 回転寿司の宅配サービスの検討においても、そうした顧客の食事スタイルの変化、業界の食事マーケティングの変化ということを念頭におかなくてはならない。
 ガストやすかいらーくが{毎日の食事}という領域で店舗での「マスマーケティング」が限界に達して宅配による「ワントゥーワン・マーケティング」を追加したような、パラダイムの追加ないし転換という視点が必要だろう。
 回転寿司の宅配サービスの場合、優位大手が過当競争状態を見越して{家族や仲間やお客さまが集う時の食事}{中高年を中心とした健康志向のお客さまが習慣的にとる食事}という客単価の高い領域で、{ちょっと贅沢な海鮮中心の和の食事}を、近隣狙いのテイクアウトと併行して、中域狙いで展開するのではないか。

 90年代は、コンビニを筆頭に「個食のマーケティング」が成熟化した。ガストやすかいらーくの「個食のスケジュール化」はその最先端である。
 しかし2000年以降は、その揺り戻しとして個個人に適した個食を集わせる「個食集合のマーケティング」が求められるようになっていくと予測する。そもそも寿司屋とは、食べ物の好みがいろいろな老若男女の個食を集わせる稀な食事業態である。みんなで同じものをつっつく鍋物の店や同じお膳が並ぶ料亭の対極にある食事業態と言っていい。しかも、注文を受けてすぐに出来たてを食べさせるため、客数を最大化する可能性の大きな食事業態であった。その可能性を追求した究極の姿が回転寿司だったのだと、今さらながら気づかされる。
 回転寿司の宅配サービスは、このような人々が慣れ親しんだ「個食集合の食事業態」の特質をいかに自宅にもたらすかを創意工夫することで、先行する宅配寿司を優位に差別化できるのではないか。

 

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「モノ売り」から「コト売り」へ



 90年代後半になって、「モノからコトへ」という経営戦略スローガンをよく耳にするようになりました。
 この経営戦略スローガンは大切なのですが、その真意が理解されていないことが多い。トップが「モノからコトへ」と言っても、現場は「モノを売らないでは商売にならない」と反対してばかりで何も変わらないという事態が生じています。
 この現場の反対意見は極論であって誤解があるのです。

 「モノからコトへ」とは、商品で言えば「モノづくりからコトづくりへ」であり、商売で言えば「モノ売りからコト売りへ」です。これは無論「モノを作らない」「モノを売らない」ということではありません。
 「モノを送り手側の論理で直接売りつけるな」
 「まずはコトを受け手側の論理で受け入れてもらえ、そうすれば必ずモノやモノを媒介とするサービスが後から売れていく」
 ということなのです。そんな虫のいいことがあるのか。それがあるのです。

 前述した子供写真館も宅配ピザも、新しい便利さや安心というコトをまず受け入れてもらった。そうすれば記念撮影やピザというモノを提供するサービスがよく売れるようになったのでした。
 問題は、自分たちの業界や担事業分野における{子供写真館や宅配ピザに当たるもの}を創造できないでいる、あるいは創造しようとしないことです。
 新業態の成功例はすべて、「まず従来なかった歓迎されるコトを提示し受け入れてもらった、そうするとモノがとても売れるようになった」というパラダイム転換です。新しい生活スタイルや生活シーンというコトを提示して受け入れてもらえるかどうかが成功の鍵なのです。
(ビジネスの場合、新しいビジネススタイルやビジネスシーンというコトを提示して受け入れてもらえるかどうかが成功の鍵です。
 しかし、実際問題として、「モノを売らないでは商売にならない」と反対している人が念頭においているコト志向は、業界人がこぞって次の市場だと息せき切ってすでに参入した横並びのコンサルティングやメンテナンスなどのサービスだったりします。ビジネス向けITやビジネス機器の業界で言えば、SIS、SCM、CRMなどなどテーマは変わっても、結局はとにかく「同じモノ」をたくさん効率的に売るための販促手段でしかありません。けっして個々の顧客企業がかかえる成長や存続の問題に対する、本来多様であるべき本質的なSOLUTIONではない。どうしてそれでモノを買ってくれると思えるのでしょうか。そちらの方が不思議になります。)

 「プロダクトアウト志向ではなく、マーケットイン志向が大切だ」と観念的にはみな理解しています。しかし、「マーケットイン志向でモノづくりをしよう」になってしまうのです。よって、業界横並びのハードやソフトにこぞって参入することになる。
 もし「マーケットイン志向でコトづくりをしよう」と具体的な方策を考えて実行していく中に、多様な現実を捉えてそれに応じたモノのプロトタイプづくりをしていけば、事業主体ならではのリソースや着眼点により競合とは異なる成果を生み出していくことができるでしょう。

 ここでは、化粧品販売における典型的な事例として「ボディショップ」をとりあげましょう。


 「ボディショップ」は、1970年代、イギリス人女性アニータ・ロディックがキッチンで自然原料をベースに作った商品を販売することから創業しました。環境や動物、人権に最大限配慮したその商品づくりは今も脈々と息づいています。
 日本では、1990年、英国ザ・ボディショップ製品のヘッドフランチャイジー契約をしたイオングループ(旧ジャスコグループ)が展開しています。
 1990年と言えば、バブルがはじける直前です。猫も杓子も高級高額の一流ブランド化粧品に明け暮れていたピークで、そろそろそれに飽き足らない知性派の不満がつのり始めた頃でした。1号店を原宿表参道にオープンした「ボディショップ」は、そんな彼らの不満を解消します。海外ブランドでありながら、官能的ではなくソフィスティケートされた感性であることが、知性派を自認する女性たちの人気と話題を呼びました。

 日本の「ボディショップ」の化粧品販売の特徴は、売上に占めるギフトの割合がとても高いことです。その関係で、石鹸やシャンプーといった品目の売上に占める割合が高い。ギフトでは個人の好みや肌の相性のある化粧品は敬遠されがちなのと、石鹸やシャンプーは嵩張る割りに安いのでギフト向きだからです。
 ギフト用に商品を買う人は、ギフトセットを購入するか、それが「ボディショップ」の商品だと一目瞭然にわかる包装をしてもらう。つまり、贈る人が「環境や動物、人権に心をくだくような都会的な知性派である」という自負を相手に発信するために、買い贈るわけです。つまり日本の「ボディショップ」は、受け手側からすれば化粧品を売っているのではなくて、贈る人の自己表現メッセージというコトを売っているのです。

 だから、資生堂やカネボウのように毎年の流行を追うことはない。むしろ、使用済みの容器を持ち込めば詰め替えてくれるリフィル・サービスや、米国多発テロが起これば救済募金をいち早く募る社会派キャンペーンが必要なのです。
 店頭での販売量拡大を直接的に目指すことよりも、全国の主要都市の繁華街スポットに立地して、先端的な人々の目につくことが重要です。贈られた人が「ボディショップ」のメッセージを認知している必要があるからです。もしモノを売ることを直接の目標にするならば、必ずしも家賃最高のスポットにだけ出店しなくてもよい。家賃が多少落ちるところで売場面積や店舗数を追求してもいい筈ですが、そうはしません。

 インターネット普及以前はこのように解説すると、「そうは言っても店を出している以上、モノを売ることが目的だろう」と反論されました。今でも、そのような誤解をしている人が小売業のベテランに多い。
 2001年10月現在「ボディショップ」のホームページで、「ギフト&雑貨のネット販売開始」というところをクリックすると、「お待たせいたしました。皆さまからのご要望にお応えし、ネット販売アイテム数を大幅にアップいたしました。どうぞご利用くださいませ」とありました。
 売上に占めるギフトの割合が高いこと、そして知性派の顧客を想定していることは、ともにネット購入を便利と感じる度合いの高さに繋がります。(おそらく贈り先に事前にメール配信してお届希望日時の返信を求めるといった女性らしいデリカシーあるギフト配送サービスもその内に導入されるのではないでしょうか。)ネット販売の効率性は店舗販売のそれを大きく上回りますが、ギフト比率の高い「ボディショップ」はデジタル&モルタルのネット販売に向いていると言えるでしょう。
 日本の「ボディショップ」においては、販売拠点を増やし販売コストをかけてブーム化し大量販売を目指すことよりも、情報発信拠点を厳選して濃密なファンづくりを継続し、ネット販売も含めたコスト効率の良い売り方をすることの方が課題でした。つまり、「モノ売り」ではなく「コト売り」を直接の目標にしてきた、と言えるのです。


 一方、テレビで広告し百貨店で販売する資生堂に代表される従来からの化粧品販売は、「モノ売り」を直接の目標にしています。
 「流行というコトを売っている」「コンサルティングというコトを売っている」と言っても、それは販売促進のコト的手段を述べているに過ぎません。あくまで、使用者本人にとってのモノそのものの価値が前提であることに変わりはありません。
(再春館製薬は、ドモホリンリンクルの「7日間無料お試しセット」というお客側の安心感と期待感をつかむ画期的な販売手法で成功しています。しかし、これとてもそれだけ自信がもてる他に真似のできないモノそのものの価値を前提にしている訳です。いわば{コンサルティング・セールスのセルフサービス化}に過ぎません。)

 たとえば、エルメスのようなブランドの男性化粧品がある。それは「ボディショップ」と同様にブランドのメッセージを売り買いしていると言って良い。だから、「ボディショップ」は何も新しくないのではないか?そのような疑問があっても不思議はありません。
 男性がエルメスを自分用に買う場合、最初はブランドに惹き付けられたかも知れないが、習慣的に使うようになるのは、やはりそのモノそのものが気に入ったからです。ボディショップの場合も同じです。女性が自分用に習慣的に使うようになるのは、自然原料をベースにしているモノそのものが気に入ったからです。
 ブランドのメッセージを自己表現に役立てるのも、両者とも同じです。
 しかし、問題はギフト用に買う場合なのです。ここに決定的に違いが隠れています。
ブランド価値のあり方に詳しく着目してみましょう。
 エルメスをはじめとする高級ブランドは<送り手側のモノ提供の論理>であ{希少性}をベースにしています。一方、「ボディショップ」のエコロジカルなブランドは、<受け手側のコト実現の論理>である{奇特性}をベースにしています。
 モノが希少なのではなく、やっているコトが奇特(志が深く、普通一般の人には行いがたい事を進んでする様子)なのです。
 大手化粧品メーカーでも「ボディショップ」のモノづくりを技術的にできない訳ではない。ただ、ばく大な利益を上げている現行ビジネスの全体システムにそれを阻害しない形で導入できないのです。
 また、エルメスをはじめとする高級ブランドのブランド価値は、大ヒットしてギフト行為が大衆化すれば相対的に落ちてしまう。それに対して、「ボディショップ」のブランド価値は、大ヒットしてギフト行為が大衆化し奇特な主張が普及すればするほど高くなるという違いも大きい。そこに、両者を同じブランドメッセージの売り買いとして、単純に同一視できないポイントがあります。

 「ボディショップ」のホームページでは、「コミュニティトレード」(社会的にも経済的にもぎりぎりの状態にある地域の人々を公正な取引を通じて支援するしくみ)が語られています。「化粧品の動物実験反対」の立場から、ムスクがジャコウジカの生殖腺から取られる香りで、化粧品を作るために動物を犠牲にすることに反対し、ムスクの香りを人工的に作っていることが語られています。
 ギフトを贈られた人々が「ボディショップ」ブランドのファンになればなるほど、「コミュニティトレード」も「化粧品の動物実験反対」も拡大していく。そういう奇特な理想と可能性がブランド価値になっている。これはモノの価値ではなく、あきらかにコトの価値ではないでしょうか。

 ドイツの主要都市では「コミュニティトレード」をしている店舗は、それを示すマークを提示しています。人々は、多少高くてもマークのある店をわざわざ利用しています。電力料金に関しても主体的にエコロジー電力を指定してグリーン料金を支払うエコ志向のお国柄です。人と人、人と企業、企業と企業の関係を単なるモノの売り買いの関係ではなく共生の関係に止揚しようという哲学が通底しています。
 日本の「ボディショップ」のブランドメッセージが単なる購入者の自己表現にとどまるか、それとも実効ある生活運動に繋がっていくかは、今後の日本人の世界市民としての主体的知性の動向とイオングループの企業市民としての腰の入れ方によって決まるのでしょう。

 
 以上の内容を整理すると概念図13のようになります。