第二章 「物事の価値」と「パラダイムの転換」

 

 

「 世の中の目に見えない転換を分析しよう!

(社会政策革新の核心)

----- 人/暮らし/地域社会にみる「価値形成の構造転換」 -----

 

「人種」から「人となり」へ



 ここで言う「人種」とは、白人黒人のあの人種のことでありません。
 「あの人どういう人?」ときいた時に、「商社マン」「フリーター」「サーファー」「社長」などと答えが返ってきます。一般に、職業や地位、やっているスポーツや着ているファッション、時には常習犯罪の種類などの言葉が使われます。
 まず「人種」とは、そのような「人を{機能}で識別するレッテル」で言い表される人間のあり方と思ってください。

 一方「人となり」とは、国語辞典では、{生まれつきの性質}のこととあります。
 人は誰でも無垢な状態で、無限の可能性をもって生まれてくる。可能性は、環境や経験により人それぞれに展開していく。生まれたての可能性とは、ほとんど{心の可能性}と言えます。環境や経験に対応する本人の思考と行動とが個性を築いていきますが、この思考と行動とを方向づけるのは{心の可能性}であります。
 個性とは、通常、結果的に身についた能力のことを指しますが、能力を身につけて活かす方向に本人を導き続けた{心の可能性}と言えます。現在のイチローや松井の能力も個性ですが、彼らをそのような能力の持ち主にリトルリーグの頃から導き続けた{心の可能性}こそ、他の選手と彼らを分かつ個性だったと考えることができます。
 「人となり」とは、そのような原初的かつ継続的な{心の可能性}のことです。
 まず「人となり」とは、その人を唯一無二としている{心の可能性}を活性させた「自分を自分らしいと感じる{意味}ある心の状態」の人間のあり方と思ってください。

 たとえば、私たちが「板前」という言葉を使う時、それは職能つまり{機能}を示していますから、「人種」に無意識に重心を置いています。料亭は「板前求む」と求人して経験や資格など雇うかどうかを客観的に判断します。
 一方、私たちが「日本料理大好き人間」とか「日本料理の鉄人」という言葉を使う時、それは生活や仕事にかかわる{意味}を示していますから、私たちは無意識に「人となり」に重心を置いています。下手の横好きでもとにかく料理するのが何より好きな人、料理の道を寝食を忘れて極めた人ということは、たとえ多くの他人もそれを認めるとしても、主観的な自己認識が基盤になっています。
 「人となり」は、まず主観的な自己認識があって、後から他者が追認する。
 一方「人種」は、客観的な認定をえて、あるいはえることを目指してそんな自己を認識する。一人前の板前だとかまだ半人前だとか板前の卵だとかです。
 しかし、現実には道場六三郎は、「板前」でもあり、「料理の鉄人」でもあります。
ことほどさように「人種」と「人となり」は、融通無碍で判別しにくい。

 そこで二つの概念を対極に位置するよう、
 <送り手側のモノ提供の論理>で価値形成された人間像が「人種」
 <受け手側のコト実現の論理>で価値形成された人間像が「人となり」
と構造的に定義します。


 「人種」は、{モノとしての機能的人間像}であり、同じレッテルの人間ならば等価で交換可能な社会的存在のことです。一人一人の顔が見えず個性は捨象されます。
 一方、「人となり」は、{コトとしての意味的人間像}であり、誰かと似通っていることはあっても、けっして同じではないアイデンティティのことです。


 アイデンティティとは、{自分が自己の同一性を確認する根拠}です。
 「人種」は、AさんとBさんと同じだとか違うとか判断する際の客観的なアイデンティティの判断基準です。
 「人となり」は、今の自分が、自分の根拠である「本来の自分らしいこころの状態」を保っているかどうかを判断する際の主観的なアイデンティティの判断基準です。
 「本来の自分らしいこころの状態」を殺している時や失っている時、その人は主観的なアイデンティティを喪失しています。人によっては生きている{意味}を見出せないかも知れません。「本来の自分らしいこころの状態」はたとえ誰かと似通ってはいてもけっして同じではありえないし、何より交換可能ではありえません。なぜなら、それは常に本人にとっての{意味}あるなしが問われるからです。

 本人にとって「人種」とは、人生のある時点での外面で標榜する社会的な結果です。
 本人にとって「人となり」とは、ものごころついた時から心の中に息づいている、内面で感じざるを得ない精神的な核心です。本人が意図して外面に標榜するとわざとらしくなる。他者には自然と滲み出るものを感じ取られるだけのものであります。



 人は「人種」「人となり」の両方を担って生きています。

 「送り手としての自分」が社会的に通用する{機能}のレッテルの自分を演じれば、その人は「人種」になっています。
 「人種」の価値がどのようなパラダイム(考え方の基本的枠組み)で成り立っているかを分析すると、まず、たとえば高学歴/高身長/高収入といったロボットのような{モノの画一的な機能が根底にあります。そこに、時代時代の花形職業、たとえば商社マンらしさとかIT技術者らしさといった、人間性を捨象したロボットのような{モノの没個性的な感覚がのる。最後に、「エリート」と称して社会的に印象づけるコトの皮相的な意味がトッピングされています。
 このような人間像は本当はエリートではありません。そもそもエリートとは周囲から必要とされ選りすぐられた人間のことだからです。けっして単に優秀な{モノとしての機能的人間像}ではあり得えません。たとえば、三高でIT技術者だというだけなら、ハッカーという犯罪者だってそうです。つまり、人間性という{コトとしての意味的人間像}が問われないエリートなど本当はありえないのです。

 かつて地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教団幹部が優秀な東大卒業者だったことで、世間はその意外さに驚きました。驚きの背景には「優秀な高学歴者はエリートの筈だ」という<無意識のパラダイム>が働いていました。{モノとしての機能的人間像}において皮相的に上乗せされたエリートという印象を、誰もが素直に受けいれていたということです。
 しかしそうした世間の常識は、数えきれない各省庁の失態や官僚腐敗のニュースでキャリア組の実態をまざまざと見せつけられて破綻しました。今にして思えば、高学歴者によるオウム中枢が日本政府の官僚機構を模倣していたことは、笑えないジョークでした。

 象徴的な言い方をすれば、「人種」とは{自分を商品化して市場に位置づけたり売り込むための人間像}です。
 ここで市場とは人材市場のことです。人材市場は、就労者ばかりでなく教団信徒、お嫁さんや恋人、はては風俗嬢まですべての人材カテゴリーを含みます。

 一方「人となり」とは、「受け手としての自分」が{授かったこころの可能性を大切にして活かすための人間像}です。
 {心の可能性}をどのようにしてか授かったのかは宗教や科学の高度に専門な問題なので立ち入りません。しかし、いずれにせよ私たちは最初に{心の可能性}を授かったとしか言いようがないのは確かです。
 授かりものとは、まさにGIFT、人それぞれに与えられた天性です。ある人は、世のため人のために何かをしたり考えたりする才能かも知れない。ある人は、人の気持ちを察したり何かを慈しむ優しさなのかも知れない。「人となり」は、カテゴリー分けすることができないし、することには意味がない。大切なのは、自分の優れた「人となり」を見出して伸ばすことでしょう。それが本人にも楽しく、周囲の人々にとっても喜ばしい形でです。

 「人となり」の価値がどのようなパラダイム(考え方の基本的枠組み)で成り立っているかを分析すると、まず、本人が心から自分らしく生き暮らすという、言うは易く行うは難い{コトの画期的な意味を土壌とします。その上に、本来の自分の心がゆったりしているという{コトの個性的な感覚を捉える。最後に、そのようなコトの意味と感覚を具現化するためのものとして、あるジャンルのマニアを極める○○王、ある技に心血をそそぐ○○の鉄人、○○活動家、○○ボランティアといったそれぞれの身体活動という{モノの特徴的な機能が位置づけられています。

 人間はモノではなく、心と身体をもった存在です。
 ここでは、身体=モノ=機能心=コト=意味とシンプルに捉えください。
 「人種」は、身体=モノ=機能を基盤にして皮相的な心=コト=意味を上乗せした人間像で、
 「人となり」は、心=コト=意味を基盤にして特徴的な身体=モノ=機能を上乗せした人間像です。
 どちらの人間像を理想として、あるいは信条として生きるかで、大きく生き方や暮らし方が変わってくることがご理解戴けるでしょう。

 


 以上の内容は概念図17のように整理できます。

 

 

 

 

 

 

 人と人の交流やコミュニケーションにおいて、「人種」「人となり」の概念は決定的な要因となります。
 相手に「人種」でこられれば、こちらも「人種」で対応する。
 相手が「人となり」でくれば、こちらも「人となり」で応じる、
というのが一般的な人間交流の様相です。人と人は、両者を出したり引っ込めたりして暮らしているのでしょう。
 現代の様々な問題の根底には、本来「人となり」同士であるべき交流が、「人種」同士の交流にとって替わられているという実態があります。
 その筆頭であり根源でもあるのが家族関係です。「人となり」関係であるべき家族が「人種」関係になれば、学校や地域社会も「人となり」関係が薄れて「人種」関係になり、国民が形づくる国家においても「人となり」関係が薄れて「人種」関係ばかりになっていかざるを得ません。


 家庭の本質は、「人となり」が交流する場であります。
 それでこそ団欒や安堵(不安がなくなって落ち着きを取り戻すこと)が成立します。
 しかし、父親がエリートという「人種」に専念し、母親が教育ママという「人種」に執着すれば、子供は自ずから受験生という「人種」で暮らすしかなくなります。家族本来の「人となり」同士の交流は乏しく団欒や安堵は成立しにくいでしょう。
 「人種」は常に{機能}の評価によって成立します。{機能}評価を損ねれば失格です。(たとえば、試験に合格しなければ、大学生、弁護士、医者とは認められません)
 それが世の中の現実だとしても、家の中まで同じ現実がつきまとうのだとしたら、心安らぐ居場所はなくなってしまう。心安らぐ居場所がないまま東大に入り卒業した。オウム幹部はそんな人間だったのだと思います。極端に「人種」志向の人間が官僚になって日本をリードしていくとすれば、「日本の家庭や学校を心安らぐ居場所にしていこう」という発想は、けっして生まれてこないでしょう。

 「文部科学省が推し進める個性化教育」という悪い冗談のような本当の話は、評価と管理が可能な「人種」をさらに細分化する管理教育となるだけでしょう。
 個性とは、本人が自らの「人となり」を発見し発揮させる機会を教師が与えることにより引き出すものです。そのためには、自らも「人となり」で生徒に接し、一人一人の「人となり」の{心の可能性}としての{意味}をともに見つめることのできる教師こそ必要です。文部科学省や日教組という送り手側体制の{機能}から自由に、自らの個性を自立的に育む教師こそが必要です。官僚や組合幹部がそうした教師の存在を容認するとは現実的に考えにくいでしょう。

 次に、地域社会の本質は、本来「人となり」の交流する場であります。
 警察署や消防署の安全保障、学校の教育、病院の医療、そういった諸機能に携わる「人種」がいて地域社会は{機能}として成り立っています。しかし、そうした諸機能を生活者にとって有意義なものに常に正しているのは、誇りと熱意をもって勤務している「人となり」なのです。
 警察が過激ないじめやストーカー行為の相談をほったらかしにしたことが問題になりました。その反省から相談窓口が充実されました。各種のドメスティックバイオレンスが殺人事件に発展して、その対策として自治体と警察の連携が強化され、近隣住民の通報すべき義務が告知されました。こうした改善や改革は、「人種」集団としての{機能}を正すために「人となり」集団としての{意味}を再定義し、その成果を維持発展させていくために「人となり」集団が{意味}を監視していくという営みと言えます。
 一方、さまざまな社会問題に地道な対応をしている福祉事務所やNPOは、「人となり」を発揮するボランティアの活動によって成り立っていることは言うまでもありません。

 現在の地域社会は、「ベッドタウン」という言葉に象徴されるように、働いた後に寝に帰る{労働力再生産機能}エリアでしかありません。
 つまり、一日のほとんどの時間、亭主や働く主婦は労働者です。地域に暮らす子供は多くの時間、学校や熟に通う学童です。専業主婦は多くの時間、ハウスキーパーであり、地元のスーパーや都心のデパートで買い物する消費者であります。そして個々の家族は家にいる時間の多くを、ひょっとするとテレビの視聴者や受験生として過ごしているのかも知れません。つまり家族全員が、地域社会にいるほとんどの時間、「人種」をベースに交流している訳です。
 それが余りにも不都合を感じない当たり前の状態なので、どこに何も問題がないようですが、根深い問題を孕んでいます。
 「人種」は様々にレッテルされるような個々バラバラな{機能}です。ですから、同じ町内とか同じ屋根の下という物理空間に暮らしたとしても、そこで個々バラバラな{機能}が同居しているだけという様相になりがちです。「ホテル家族」はその典型でしょう。かつての農漁業に従事する大家族や商売をするお店家族の形態では、個々に割り振られた様々な役目つまり{機能}は、青少年の躾や情操教育、生活訓練や職業訓練といった{意味}の体系になっていました。その{意味}は家父長制や封建制を前提にしたものでしたが、核家族化や都市化によってすべてが切り捨てられて良いものではありませんでした。家族がともに暮らす営みそのものに{意味}があり、幸せというコトの{意味}が再生産されていたのです。一方、核家族化や都市化は、豊かさというモノの{機能}の再生産を図るものでした。

 現在の「人種」のみをベースとする交流実態が改善されない限り、家族や集団の人間関係が原因で発生する多くの社会問題は、抜本的な解決をみないでしょう。高齢化社会、ますます必要とされる様々な福祉活動も、あくまでカネで解決されるべき「人種」同士の経済活動として扱われるでしょう。
 しかしそれでは、本来「人となり」がベースとなるべき互助精神は活性しません。ひきこもりやいじめは、「人となり」をベースにした交流の欠落ないし歪みの問題です。家族や個人の「人となり」の回復や地域社会の人々の「人となり」の交流を抜きには、絶対に解決しません。
 たとえ互助活動が具体的には介護者と被介護者という{機能的人間像}の交流だとしても、それを安心かつ快適に成立させる互助精神は、誇りと熱意の持ち主と、喜びと感謝の持ち主という{意味的人間像}の交流なのです。{意味的人間像}がまったく問われなくなった時、すでに{機能的人間像}も狂い始めているでしょう。かつて仁術と言われた医術や聖職と言われた教職の荒廃は、そうした狂い始めを如実に物語るものです。

 1998年に起こった和歌山毒物カレー混入事件は、隣人という
「人となり」の交流をはかることが目的の自治会活動が、住民という「人種」の義務を果たすだけの行事に堕している現実を極端な形で見せつけたものでした。
 現代社会では、同じ町内に住むという{機能的人間像}がただ一緒に飲み食いするという{物理空間のパラダイム}からは有意義な交流は生まれません。それどどころか町内会という全体を措定してお互いを束縛し強要しあうことは、地元自治体が主催して若者が荒れる成人式と同様に、社会的なストレスやリスクを拡大します。
 むしろ、家族の心身の問題、夫の失業の問題、妻のボランティアの課題など同じことに関心を抱く{意味的人間像}が互いに理解し助け合うような{情報空間のパラダイム}にこそ、有意義な交流があり、社会的なストレスやリスクの解消がある時代になっています。


 最後に企業や役所というものの本質を考えてみましょう。
 企業にはサラリーマンがいて、役所には公務員がいる。よって、そうした「人種」の交流の場であることを、企業や役所の本質のように思いがちです。しかしそれは間違いです。
 企業とは本来、企業家の「人となり」が発揮される場なのです。
 役所とは本来、政治家の「人となり」が発揮される場なのです。

 企業とは、そもそも企業家がいなければ生まれない組織です。そして、有能な企業家がいなければ発展しない、つまり顧客や生活者や株主のための貢献を最大化できない組織です。経営者が有能な企業家ではない場合、世の中に送りだす商品やサービスもまあまあのものでしょう、経営が不振となれば優秀な社員も解雇されてしまいます。
 本来役所は、政治家がトップになって管理運営する組織です。市役所であれば市長がトップであり、県庁であれば知事がトップであり、国の政府であれば総理大臣がトップであります。そして、本来トップの誇りや熱意という「人となり」が色濃く行政に繁栄されなくてはなりません。
 しかし、トップに誰が担がれても同じような行政のお御輿に過ぎない役所を、実質的には役人が動かしているのが現実ですね。

 企業家と政治家の共通点は、「創造性」「チャレンジ精神」「リーダーシップ」「公正さ」などが必要な資質として求められることです。
 こうした資質は、東大卒や元○○省官僚といった「人種」で保証されるものではありません。どこの大学を出ようが出まいが、元が何だろうが、「人となり」をベースとする「態度能力」によって保証されるものであります。


 現在の日本の企業や役所を見渡してみましょう。
 企業家、政治家と自称する方々の中には、チャレンジ精神も創造性もなく、リーダーシップも公正さもない、「企業家のふりをした回り持ち社長」や「政治家のふりをした回り持ち大臣」が余りにも多く見受けられます。彼らは、交換可能な社会的存在である「人種」でしかありません。つまり誰がなっても大差がない。従来からの組織のパラダイムに忠実なだけの人間です。
(役所の長である立場を悪用し私服を肥やすような輩は問題外ですが、そうした犯罪者の存在を許すのは選挙民が「人種」のレッテルを軽信し、出入り業者たちが自分たちの有利なように「人種」のレッテルを盛り上げるからに他なりません。)
 「人種」を基準にしていては、必要な資質を備えた企業家や政治家のリーダーシップの登場は期待できません。小生には、それこそが現代日本の弱点の核心だと思えてなりません。

 「人となり」は、必ず、何かをする際の「態度能力」の基盤になります。単なる「性格」や「気性」とはそこが違うポイントです。
 「人となり」という「態度能力」の基盤が公正で創造的で挑戦的でなければ、いくら頭がよくて専門知識や人脈に通じている人間でも、百害あって一利なしでしょう。一般の国民や従業員や顧客や株主にとって価値ある仕事を、安定的に継続してすることを期待することはできません。
 しかし、そんな当たり前のことが当たり前に理解されていない。なぜでしょう。
 それは、私たちが「企業家なんて所詮そんなものだ」「政治家なんて所詮そんなものだ」という<無意識のパラダイム>に従順でいるからです。もっと言えば、社員や国民たる私たち自身の「態度能力」が、「会社が儲かるなら多少ずるい奴でもいい」「国の景気がよくなるなら多少悪い奴でもいい」「自分の立場が良くなるなら上は誰でもいい」「自分も似たようなもんだから文句はない」といったネガティブなものだからではないでしょうか。(悪に加担しているという意識はないので、無意識のパラダイムなのです)

 こうした「長いものには巻かれろ」的パラダイムの存在は、何も日本に限ったことではありません。いわば古今東西の俗世の常でしょう。しかし、とりわけ現代の日本で問題なのは、「人となり」をベースとする「態度能力」を育んで活かす公の仕組みを欠いてしまったことです。本物のエリートを輩出する仕組みの欠落です。
 企業や役所は相変わらず、学歴尊重と女性蔑視という「人種」の採用と人事を行う。
 政党は、相変わらず、有力なレッテルをもつ「人種」候補を公認する。
 いわゆる実力主義は結果だけを評価して、談合や情報隠しなど場合によっては「不公正な態度能力」を黙認する。

 住専処理機構のトップに乞われてついた中坊公平氏のような、国民が信頼を抱くことのできる厳正なる態度能力の持ち主こそ、本来人々に期待され選ばれしエリートです。しかしそのような「人となり」重視の人材活用にまだまだ消極的です。「人となり」重視の教育にいたっては根絶やしになってしまった。日本は戦争に負けてアメリカに占領されて以来、いつの間にか本物のエリートを輩出し、その能力を世のため人のために役立たせる公の仕組みを欠いてしまいました。

 こうした日本のお寒い現状に、生活者であり消費者であり企業人であり選挙民である私たちは、なす術がないのでしょうか。
 いな、私たちは、生活や社会にとって貢献的でない商品や行政サービスを、もっと厳しく糾弾していけばよい。不用意に買わないようにしたり不服申し立てをしたり、不条理を温存する政治家に投票しなければよいのです。
 まず、生活者としての感性と知性を研ぎ澄ましましょう。そして、受け手側を思いやる「人となり」をベースとする態度能力によって企画され製造された商品だけを購入し、運営される店舗だけを利用し、構想された政策を進める政治家だけに投票する。国民に必要以上の負担をしいたり必要以下の公益しかもたらさない公的サービスについては、オンブズマンやマスコミに情報提供する。時代錯誤のお上意識をもつ役所や既得権益に胡座をかく特殊法人や病院の職員はどんどん内部告発をする。みんながそうすれば、企業も役所も病院も、受け手側を思いやる「人となり」をベースとする態度能力の持ち主を重用せざるを得なくなるでしょう。
 
 現状はまだまだで、自分の会社だけは、自分の業界だけは、自分の役所だけは例外として許してもらおうと、みんなが「人種」でだんまりを決め込んでいます。あるいは、「見ざる、聞かざる、言わざる」に徹している。リストラの嵐がふく中、余計なことを言えば首になってしまうかも知れない。しかし、雪印グループの一連の不祥事をみるまでもなく、不正に対する社員の意図的不作為が会社自体の存続を脅かすとすれば、保身には結局なりません。

 日本全体を傾むかせても我が業界我が職域だけ守ろう、地元経済にだけ利益誘導しようとする厚顔無恥な「人種」代表の立候補者が、団体組織票や地域受益者票だけで当選しています。こうした動きに、選挙民である私たちは断固反対しなければなりません。時間が掛かりますが着実な方法は、義務教育の過程で、「共生システムとしての公」の概念、公の大切さと公への責務、さらに公に反して我が利得だけを追求することの愚かさと恥ずかしさを、子供たちに教えることです。「知識の詰め込み」の知識偏重教育への反省からいわゆる「ゆとり教育」が押し進められています。しかし、人々にゆとりを創り出す「共生システムとしての公」を教えることの方が先決であることは明らかです。
 その昔、孔子は「衣食足りて礼節を知る」と人の常を言いました。現代の日本は、「衣食足りて礼節を損なう」という異常事態なのです。私たちが、人の世の根底にあるべき重大な何かを失っているのは間違いありません。
 物事を企画構想するにあたり前提とすべき公とは、フェアな国民全体なのであって、アンフェアな一部の限られた人々であってはなりません。一部の限られた人々の便益だけを不当にはかる輩はかならず見返りに自らの利得のために動いています。ですから身の保身ができないとなれば、一部の限られた人々の便益を見捨てます。票田である米作農家を保護して競争力を無くしておいて最期には切り捨てる自民党。銀行をいいように手懐けて不良債券を積み増させておきながら最期には切り捨てる財務省。戦中にまで遡れば、満州開拓民を扇動しておきながらロシア侵攻に最初に逃げ出した関東軍など。無垢ではない大人には、マスコミが「お上」の裏切りの歴史を教えるべきでしょう。
 日本人は、長く閉ざされた江戸幕府の支配があったせいでしょうか、「お上」=「公」という致命的な誤解をしているところがあります。NHKの大河ドラマや水戸黄門の視聴率を高く保っているような「お上」への期待と依存の感情があります。テレビは、その影響力についてもっとバランスをとるべきでしょう。不用意に「お上」幻想を肥え太らせることは、最終的にジャーナリズムの自立性を脅かす遠因になります。


 受け手側を思いやる「人となり」をベースとする公正な態度能力の有無を見抜く。
 それは私たち自身が「人となり」をベースとして公正な態度能力で直視すればできることでしょう。
 人々の目となり耳となるマスコミやジャーナリズムにも、同じことが期待されています。
 ヒットチャートをランキングするオリコンが医療機関のランキングを提供するビジネスをはじめました。これは、病院というとかくレッテルで判断してしまう「人種」集団を、患者の厳しい視点で「人となり」集団として評価していこうとするものです。
 家から近いとか設備が充実しているといった判断をするしかなかった{物理空間のパラダイム}ではなく、{情報空間のパラダイム}にこそ有意義な交流があり、社会的なストレスやリスクの解消がある時代になっていることを象徴しています。
 受け手側を思いやる「人となり」をベースとする公正な態度能力の有無を見抜く目は、社会の情報インフラとして充実していくのでしょう。


 

 私たちは日本の国や地域社会を、実際に「人となり」という態度能力が尊重される方向に転換することができるのでしょうか?

 「人となり」の公正な態度能力が尊重されるようになると、「人種」のレッテル神話に依存してきた多くの人々に大きな痛手を与えざるを得ない。よって「人種」神話崩壊の痛手を補って余りあるほどの、人々が心安らかに「人となり」で仕事をして暮らす喜びや楽しさを構想し、具体的に用意することが為政者に求められます。
 具体的には、「物質的な豊かさが半減しても、いな、だからこそ精神的な豊かさは倍増する」そんな心のセーフティネットを国民の生活と人生に保証する。その上で、成長性ある新ビジネスを立ち上げる企業家を支援すべく規制緩和や自由競争の環境整備をする。同時に、小さな政府を実現しつつNPOやNGOといった公的貢献セクターを促進支援して経済における大きな割合をしめるようにしていく。役所が合理化を求められ企業が終身雇用をやめる以上、国は公的貢献セクターで流動的な終身の雇用を安定確保する政策をとるべきでしょう。

 送り手側体制の既得権益に執着する「人種」政治家「人種」官僚がそうしたヴィジョンを描けるとは思いません。しかし現実に、大半の国民が自分も役人も「人種」でいたら幸福になれないことを実感し、「人となり」でいたいなってほしいと心から望んでいます。いずれは、そんな選挙民の実情を直視する「人となり」政治家「人となり」官僚が行政パラダイムの転換に乗りだすことでしょう。
 すでに日本国民の一人一人は、ちょうど先の大戦で{モノの焼け野原}から再出発したように、政治家や官僚などあてにせずに{コトの頽廃}を直視しそこから再出発しなければならないと実感しています。黙ってやり過ごすことのできない危惧と渇望とによって人々の頭の中の枠組みが変われば、世の中のいろいろな<無意識のパラダイム>は矛盾不合理を露呈され雪崩をうって転換していくでしょう。

 その際、何より大切なのは、国民一人一人が常に「人となり」を優先して暮らし、「人となり」を優先することで繁栄する社会を希求し、その実現に向けてそれぞれのできるベストを尽くすことです。
 つまりは、私たち国民一人一人にポジティブな「パラダイムの転換」が求めらるのです。それは、一人一人の顔のない大衆がカリスマ的なリーダーに煽動された抽象的な観念先行の付和雷同であってはなりません。それぞれに具体的な自助努力を惜しまぬ創造的な国民だけが、そうした自分たちをリードしてくれる真に創造的なリーダーを産みだすことができるのでしょう。


 いずれにせよ、21世紀初頭の現時点で言えることは、日本人の「理想とする自分」は、政治経済体制の矛盾不合理の露呈によって、明らかに「人種」優先から「人となり」優先に転換しつつあるということです。
 長引く不況は、転換を受け入れる様々な制度や機構の改革を早める方向に作用するでしょう。これに先んじて国民は、「人となり」同士の交流を基盤とするNPOやNGOといった公的貢献セクターの活動に注目しはじめています。様々な社会問題に地道に対応する福祉事務所やボランティア組織に参加する人々も拡大しています。
 地域社会では、「人となり」で助け合う様々な活動が、不況を乗り越えるための現実的な共生手段ともなっています。

 価値観の変化というものは目には見えませんが、世の中を大きく転換させていく動機であり動因であり、すでに歴史は次のステージに向かい始めているように思います。