癸酉(きゆう)の日に両軍は鞌(あん)に陣どって対峙した。斉は邴夏(へいか)が斉侯の御者、逢丑父(ほうちゅうほ)が車右。一方の晋は解張(かいちょう)が郤克(げきこく)の御者、鄭丘緩(ていきゅうかん)が車右という顔ぶれであった。
斉侯は「敵をみな殺しにしてから朝食にしよう」と言うと、馬に甲(よろい)もつけずに車をはしらせた。
このとき郤克は矢にあたって負傷した。血は流れて靴の中にまであふれたが、進軍の太鼓だけはかろうじて打ちつづけた。しかしたまらず、「もうだめだ」とうめいた。
解張が励ました。「合戦が始まるとまもなく、矢が手から肘まで貫きましたが、矢を抜くことができず、折り捨てて車を進めておるのです。左の車輪は私の血で赤黒く染まっていますが、決してだめだなどとは口に出しません。あなたも我慢してください。」
鄭丘緩も側で「ご存じないでしょうが、合戦が始まってから、道の悪いところに来ると、私は車からおりて押しています。傷の重いのはよくわかっていますが辛抱してください」と励ます。
解張は「われら全軍の耳目は、この車の旗と太鼓に集中しています。進むも退くも、この車の動き一つにかかっているのです。この車であなたさえ、しっかりなさっておれば、勝つことができるのです。傷が重いからといって、ご主君の命令を捨てることはできません。いったんよろい甲(かぶと)を身にまとい、武器を手にとったからには、もとより死は覚悟でしょう。重傷とはいえ、まだ死んではおられません。しっかりしてください」といいながら左手に手綱をまとめ、右手に太鼓のばちを持ち、太鼓をうち鳴らしながら進撃した。
馬は手綱がゆるんだので、走りに走って止めようもない。おくれじと全軍があとにつづいて突進したため、斉の軍はさんざんに敗れた。晋はなおも追いかけて三たび華不注山の山麓をまわった。
『春秋左氏伝』筑摩書房(世界古典文学全集13)154頁より
蘭軒伝の世に容(い)れられぬは、独(ひと)り文が長くして人を倦(う)ましめた故(ゆゑ)では無い。実はその往事を語るが故である。歴史なるが故である。人は或は此篇の考証を事としたのを、人に厭はれた所以(ゆゑん)だと謂つてゐる。しかし若(も)し考証の煩(はん)を厭ふならば、其人はこれを藐視(べうし=軽視)して已(や)むべきで、これを嫉視(しつし)するに至るべきでは無い。
以上の推窮(すいきゆう)は略(ほぼ)反対者の心理状態を悉(つく)したものであらうとおもふ。わたくしは猶(なほ)進んで反対者が蘭軒伝を読まぬ人で無くて、これを読む人であつたことを推(すい)する。読まぬものは怒(いか)る筈(はず)がない。怒は彼(かの)虚舟(きよしう)にも比すべき空白の能く激し成(な)す所ではないからである。
わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致(いた)す所だと云ふことは、必ずや彼書牘(しよとく)の言(こと)の如(ごと)くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初(はじめ)より読者の心理状態を閑却(かんきやく=無視)したのであらう。しかしわたくしは学殖(=学識)なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。
森鴎外『伊沢蘭軒』その371より
頼山陽の家は木屋町で、山紫水明処は未だ営まれてゐなかつた。主人も客も共に四十二歳である。是より先文化丙子(十三年)に霞亭が帰省した時、山陽を訪はなかつたので、山陽は不平を菅茶山の前に鳴らしたことがある。わたくしは浜野氏に借りて一読した「十月廿二日頼襄(=頼山陽)拝、菅先生函丈」と書した尺牘(せきとく=手紙)中の語を是の如くに解するのである。
「北条君京へ帰路被枉(まげられ=立寄)候様(そうろうよう)兼約(けんやく=約束)にて、中山(言倫)などと申合(もうしあわせ)相待居(あいまちおり)候処(ところ)、山崎間道(かんどう=抜道)より被落(おちられ=すつぽかし)候段、其翌日一僧(いちそう)より伝承、遣一支兵(いちしへいをつかわし)追撃(ついげき)とも奉存(ぞんじたてまつり)候へども不能其儀(そのぎあたわず=それもできず)、扨々(さてさて)失望、中山などは腹を立居(たており)候。」
霞亭は今度往訪(おうぼう=訪問)して前過(ぜんか=前科)を償(つぐな)はなくてはならなかつたのである。
森鴎外『北条霞亭』その139より
文一郎は頗(すこぶ)る姿貌(しぼう)があつて、心自らこれを恃(たの)んでゐた。当時吉原の狎妓(こうぎ=ひいきの遊女)の許に足繁く通つて、遂に夫婦の誓をした。
或夜文一郎はふと醒めて、傍(かたわら)に臥(ふ)してゐる女を見ると、一眼を大きく見開いて眠つてゐる。常に美しいとばかり思つてゐた面貌(めんぼう)の異様に変じたのに驚いて、肌に粟(あは)を生じたが、忽(たちまち)又魘夢(えんむ)に脅されてゐるのではないかと疑つて、急に身を起した。
女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答は未だ半(なかば)ならざるに、女は満臉(まんけん=顔中)に紅を潮して、偏盲のために義眼を装(よそお)つてゐることを告げた。そして涙を流しつゝ、旧盟を破らずにゐてくれと頼んだ。文一郎は陽(よう=上辺)にこれを諾(だく)して帰つて、それ切(きり)此女と絶つたさうである。
森鴎外著『渋江抽斎』その67より
人の智力・議論はなほ化学の定則にしたがふ物品のごとし。ソーダと塩酸とを各々別に離せばいづれも激烈なる物にて、あるいは金類をも溶解するの力あれども、これを合すれば尋常の食塩となりて厨下(ちゆうか 台所)の日用に供すべし。(中略)
近来わが日本に行なはるる諸方の会社なるものを見るに、その会社いよいよ大いなれば、その不始末いよいよ甚だしきがごとし。百人の会社は十人の会社にしかず、十人の会社は三人の組合にしかず、三人の組合よりも一人にて元手を出し一人の独断にて商売すれば利を得ること最も多し。
そもそも方今にて、結社の商売を企つる者は大抵みな世間の才子にて、かの古風なる頑物が祖先の遺法を守りて爪(つめ)に火をともす者に比すれば、その智力の相違、もとより同日の論にあらず。しかるにこの才子相ひ会して事を図るにいたれば、たちまちその性を変じて抱腹に耐へざる失策を行ひ、世間に笑はるるのみならず、その会社中の才子も自からそのしかる所以を知らずして憮然(ぶぜん)たるものあり。
また今の政府に会して事をなすに当りては、その処置必ずしも智ならず。いはゆる衆智者結合の変性なるものにて、彼の有力なるソーダと塩酸と合して食塩を生ずるの理に異ならず。概していへば、日本の人は仲間を結びて事を行ふにあたり、その人々持前の智力に比して不似合なる拙をつくす者なり。
西洋諸国の人民必らずしも智者のみにあらず。しかるにその仲間を結びて事を行なひ世間の実跡にあらはるる所を見れば、智者の所為(しよい 行為)に似たるもの多し。
福沢諭吉著『文明論之概略』第五章より
方今、日本の政府にて事務のあがらざるをもつて長官の不才に帰し、もつぱら人才を得んとして、此を登用し彼を抜擢してこれを試みれども、事務の実に変ることなし。なほこの人物を不足なりとして、すなはち外国人を雇ひ、あるいはこれを教師となし、あるいはこれを顧問にそなへて事をはかれども、政府の事務は依然としてあがることなし。
その事務のあがらざる所についてこれを見れば、政府の官員は実に不才なるがごとく、教師顧問のために雇ひたる外国人も悉くみな愚人なるがごとし。しかりといへども、方今、政府の上に在る官員は国内の人才なり。またその外国人といへども愚人を選びてこれを雇ひたるものにあらず。
しからばすなはち事務のあがらざるは別に原因なかるべからず。その原因とは何ぞや。政(まつりごと)を事実にほどこすに当りて必ずいかんともすべらざるの事情あり。これその原因なり。この事情なるものはこれを名状すること、はなはだ難しといへども、俗にいはゆる多勢に無勢にて叶はぬといふことなり。
政府の失策を行ふゆえんは、常にこの多勢に無勢なるものに苦しめらるればなり。政府の長官、その失策たるを知らざるにあらず。知てこれを行ふは何ぞや。長官は無勢なり、衆論は多勢なり、これをいかんともすべらず。この衆論のよりて来る所を尋ぬるに、真にその初発の出所をつまびらかにすべらず。あたかも天より降り来たるもののごとしといへども、その力よく政府の事務を制御するに足れり。
故に、政府の事務のあがらざるは二、三の官員の罪にあらず、この衆論の罪なり。世上の人、誤りて官員の処置をとがむるなかれ。古人はまづ君心の非を正だすをもつて緊要事となしたれども、余輩の説はこれに異なり。天下の急務はまづ衆論の非をただすにあり。
福沢諭吉著『文明論之概略』第四章より
開闢(かいびやく)の後、野蛮を去ること遠からざる時代には、人民の智力未だ発生せずしてその趣むきあたかも小児に異ならず。内に存するものはただ恐怖と喜悦との心のみ。
地震、雷霆(らいてい)、風雨、水火、みな恐れざるものなし。山を恐れ海を恐れ、干魃(かんばつ)を恐れ、飢饉を恐れ、すべてその時代の人智をもつて制御することあたはざるものは、これを天災と称してただ恐怖するのみ。
あるいはこの天災なるものを待ちて来たらざるか、または来たりて速やかに去ることあれば、すなはちこれを天幸と称してただ喜悦するのみ。たとへば日照りの後に雨降り、飢饉の後に豊年あるがごとし。
しかして、この天災天幸の来去(らいきよ)するや、人民に於いては悉(ことごと)くみなその然るを図(はか)らずして然るものなれば、一にこれを偶然に帰して、かつて人為の工夫をめぐらさんとする者なし。工夫を用ひずして禍福に会ふことあれば、人情としてその原因を人類以上のものに帰せざるを得ず。
すなはち鬼神の感を生ずる所以にて、その禍(わざはひ)の原因を名づけて悪の神といひ、福の原因を名づけて善の神といふ。およそ天地間に在る一事一物、みなこれを司(つかさ)どる所の鬼神あらざるはなし。日本にて言へば八百万神(やおよろづのかみ)の如きこれなり。
福沢諭吉『文明論之概略』第七章より
孟子が梁の恵王に会つたとき、王は孟子にかう言つた。
「ご老人、遠いところをよく来て下さつた。あなたなら必ず私の国に利益をもたらしてくださるでせう」
それに対して孟子は答へた。
「王はどうして利益とおつしやるのです。大切なのは仁義です。
「王が国の利益を言ひ、家老が家の利益を言ひ、国民が自分の利益を言ふなら、国中が利益の奪ひ合ひになつて、国は傾いてしまひます。
「戦車を一万持つ国の王を殺すのは、戦車を千持つ家来です。戦車を千持つ国の王を殺すのは、戦車を百持つ家来です。一万の国で千持ち、千の国で百持つことは大変裕福なことなのに、かういふことが起きるのです。
「仁義を後回しにして利益を優先したら、人はどれだけ手に入れても満足できなくなります。それに対して、仁を持つ人間が親を捨てることはないし、義を持つ人間が王をないがしろにすることもありません。
「王はどうして利益とおつしやるのです。仁義と言つてください」
『孟子』梁恵王上一
ある人また曰く「妾を養ふは後(のち)あらしめんがためなり、孟子の教へに不孝に三つあり、後なきを大なりとす」と。余答へて曰く、天理にもとることを唱ふる者は孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と言ひて可なり。
妻をめとり子を生まざればとて、これを大不孝とは何事ぞ。遁辞(とんじ)と言ふもあまり甚だしからずや。いやしくも人心をそなへたる者なれば、誰か孟子の妄言を信ぜん。元来、不孝とは子たる者にて理に背きたる事をなし、親の身心をして快(こころよ)からしめざることを言ふなり。
むろん、老人の心にて孫の生まるるは喜ぶことなれども、孫の誕生が遅しとて、これをその子の不孝と言ふべからず。こころみに天下の父母たる者に問はん。子に良縁ありてよき嫁をめとり、孫を生まずとてこれを怒り、その嫁を叱り、その子をむち打ち、あるいはこれを勘当せんと欲するか。
世界広しと言へども未だかかる奇人あるを聞かず。これらは元より空論にて弁解を費やすにも及ばず。人々(にんにん)自からその心に問ひて、自からこれに答ふべきのみ。
福沢諭吉『学問のすすめ』八編より
(遣唐使に任命されたが不服で命令に従はずに)隠岐の国に流されけるときに、舟に乗りて(大阪を)出で立つとて、京なる人のもとに遣はしける
小野たかむらの朝臣
わたの原(大海原)八十(やそ)島(瀬戸内海の島々)かけて(めざして)こぎ出(い)でぬと 人にはつげよ あま(漁師)の釣り船
古今和歌集407番より
あるいは殿様の物好きにて普請をするか、または役人の取り計ひにて要らざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、色々言葉を飾りて年貢を増やし御用金を言ひつけ、これを御国恩に報いると言ふ。
そもそも御国恩とは何事を指すや。百姓・町人らが安隠に家業を営み、盗賊・人殺しの心配もなくして渡世するを、政府の御恩といふことなるべし。もとよりかく安隠に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言ふべからず。
政府もし人民に対しその保護をもつて御恩とせば、百姓町人は政府に対しその年貢・運上をもつて御恩と言はん。政府もし人民の公事・訴訟をもつて御上の御厄介と言はば、人民もまた言ふべし、十俵作り出したる米のうちより五俵の年貢を取らるるは百姓のために大ひなる御厄介なりと。いはゆる売り言葉に買ひ言葉にて、果てしもあらず。
とにかくに等しく恩のあるものならば、一方より礼を言ひて一方より礼を言はざるの理はなかるべし。
福沢諭吉『学問のすゝめ』二編より
唐土(もろこし)にて月を見てよみける
安部仲麿あまの原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山にいでし月かも
この歌は、「昔、仲麿を唐土に物習はし(留学)に(遣唐使に)遣はしたりけるに、数多の年を経て、得帰りまうでこざりける(帰国できなかつたの)を、この国(日本)よりまた遣ひまかり至りける(遣唐使)にたぐひて(連れ添つて)まうできなむ(帰国しよう)とて出で立ち(出発)けるに、明州(寧波)といふところの海辺にて、かの国の人(唐の詩人王維など)馬のはなむけ(餞別会)しけり。夜になりて月のいとおもしろく差し出でたりけるを見て、詠める」となむ語り伝ふる(結局帰れずに唐で死んだ人の歌)。
『古今和歌集』406番より
式部卿のみこ(親王)、閑院の五のみこにすみ(結婚して)わたりけるを、いくばくもあらで女みこの身まかり(死)にける時に、かのみこ(式部卿)、すみける(通つてゐた五のみこの)帳(寝台)のかたびら(カーテン)の紐(ひも)に文(ふみ)を結ひつけたりけるをとりて見れば、昔の手(生前に見た筆跡)にてこの歌をなん書き付けたりける
かずかずに(大切に思つて)我をわすれぬものならば 山の霞をあはれとは見よ
『古今和歌集』857番より
オデュッセイアのなかにはいくつのオデュッセイアがあるか。詩の冒頭にはテレマコスの旅の物語がおかれているが、これは、まだ現実に存在していない物語、すなわち、やがてオデュッセイアになるはずの物語を探しに行く話、といえるだろう。
イタケーの王宮にいる歌い手のフェミウスは、すでに他の英雄たちが〈それぞれの〉国に帰りついたことを知っている。まだ帰っていないのは、ただひとり、自分たちの王だけだ。ペネロペーが、彼のうたう歌をこれ以上聴きたくないというのは、そのためだ。
そこで、テレマコスがこの物語をもとめて、トロイ戦争の古強者(ふるつわもの)たちをひとりひとりたずねあるくことになる。物語さえ見つかれば、たとえ結末がよくてもわるくても、イタケーは、長年つづいた時間も法もないあの無形の状態から脱出できる。
古強者のすべてがそうであるように、ネストールもメネラオスも、物語の材料をどっさりたくわえている。だが、どれもテレマコスが探しもとめている物語ではない。そこで、メネラオスがついに驚くべき冒険をやってのける。なんと彼はアザラシに姿を変え、「海の老人」と呼ばれる、無類の変身上手であるプロテウスを捕まえ、過去と未来についてむりやりに白状させるのだ。
プロテウスはもちろん、オデュッセイアを自分の手のひらのように識りつくしている。そこで、オデュセウスの話を、ちょうどホメロスがこの話を始めているのと同じ箇所、すなわち、主人公がカリュプソの島にいる場面から語りはじめるのだが、すこし語っただけで、あとは口をとざしてしまう。そこでいよいよホメロスの出番ということになり、彼が物語をつづける。
カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』(みすず書房)15頁以下より
揺籃から柩に入るまでは/五十年にすぎない/そのときから死が始まる/人は耄碌し、張りがなくなり/だらしくなくなり、粗野になる/いまいましいが髪も抜け/歯も抜けて息がもれる/若い乙女を恍惚として/抱きしめるかわりに/ゲーテの本をよむわけだ。
しかし臨終の前にもう一度/ひとりの乙女をつかまえたい/眼の澄んだ、縮れた巻き毛の娘を/その娘を大事に手にとって/口に胸に頬に口づけし/スカートを、パンティーを脱がせる/そのあとは、神の名において/死よ、私を連れて行け、アーメン
五十歳の男 ヘルマン・ヘッセ『人は成熟するにつれて若くなる』草思社より
ルターはドイツ語で書きドイツ語で語った。かれとともに各民族語がラテン語を圧するようになり、大衆は時の文化に参加する手段を手に入れた。エリートの文化独占が終り、それとともにエリートの風俗、趣味、精神風土もまた終った。
宗教改革は聖堂から美術品を追放し、悪魔を呼び戻して信徒の良心を千年王国の恐怖の中に叩き込み、現世を彼岸への待合室に過ぎぬものとして、人生の価値を押し下げ、信仰を高く掲げて理性を失権させた。
運命予定説は地上のすべての出来事をあらかじめ定められた不可避の必然と見なし、それによって、ルネサンス人の誇る知恵と勇気と能動性を無価値にした。
それではたまらないとエラスムスは思った。宗教改革が勝利したところはどこでも文化が衰退することを、かれははっきり洞察し、公言していた。それに対してルターは、衰退したのは異教文化であってキリスト教文化ではない、と反駁した。だがヒューマニスト・エラスムスにとって、異教文化以外に文化はなかった。
モンタネッリ『ルネサンスの歴史 下巻』中公文庫200頁以下より
ダンテ以前は(ダンテも含めて)思想とは神学思想以外の何ものでもなく、神学はもちろん教会の独占物であった。中世盛期の人間にとって、現世は彼岸の控えの間であり、「神の夢」であり、聖職者のみが解く鍵を持つ大神秘であった。たとえそれに疑いを持ったとしても、それ以外の鍵は何もなかった。
ギリシア哲学が発見される前には、理性に基く論理的方法は、知られていなかったからである。当時の素朴な学校制度を独占支配していた聖職者は、前提、演繹、帰納によらず、比喩と寓話によって啓示や奇跡を説明するのが常であった。
アラブ人が北アフリカ大長征の果てに、スペインにギリシア文化をもたらしたのは、まさに大革命であった。これに続いてユダヤ人が、独特の世界主義と豊かな語学力を利して、アリストテレスとそのアラブ系の注釈家たちの著作をラテン語に訳し、12世紀の粗野なヨーロッパに贈った。
教会はいち早くこの新知識を自家薬籠中のものにしようと努め、一時はそれに成功した。ギリシア合理主義から教会に都合のよい部分だけを取り入れ、都合の悪い部分を捨ててしまったのだ。
信仰と理性は矛盾しない、理性は信仰の真理性をよりよく納得するために、神が人間に授け給うたものである。この理屈を証明するために、聖トマスはアリストテレスを利用した。学校と文化が教会の独占支配下にあったから、神学は危機をのり切って思想を独占し続けた。
だが、都市化はこの独占をも終らせた。職人、商人、企業家の支配する都市社会は、一群の人びとを、食うために労働する必要から解放し、勉学に専念させることが出来るようになった。かれらは古典文学、古典思想の発掘と普及に身を捧げた。ヒューマニストの誕生である。それは同時に、文化の教会からの自立を意味した。世俗文化が誕生したのだ。
モンタネッリ『ルネサンスの歴史 下巻』中公文庫54頁以下より
確かなことは誰にも分からないが、エリザベス女王は何らかの生理的欠陥のゆえに、完全な女性ではなかったようで、それゆえに「処女王」の名を奉られたのである。しかし、生涯に何人もの愛人を持ったところを見ると、処女としても完全ではなく、いわば半処女とでもいうべきではないかと思われる。
彼女は何事にも決定的な、断固たる解決を与えるのを嫌った。そしてこれが彼女の成功の武器だった。幼い頃から、生き残るためには、プロテスタントの異母弟とカトリックの異母姉のあいだをうまく泳ぎ渡らなければならなかったのだから、言を左右にしてその場その場をすり抜ける技術は、彼女の身についていた。フェリーペ(スペイン王)に対しても、大臣に対しても、寵臣に対しても、また神に対してすらも、エリザベスはつねに妥協に訴え、言を左右にし、ひたすらすり抜け続けた。
性的に完全な女性でなかったとしても、直観、打算、ごまかしという点では完全に女性であった。その複雑な性格の中にはすべてがあり、またそのすべての反対物があった。それゆえにこそ彼女は、16世紀のもっとも完全な政治家になることが出来たのである。
モンタネッリ『ルネサンスの歴史 下巻』中公文庫341頁以下より
フェリーペ二世は、王位継承の紛争に悩むフランスに目を向けた。アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれたヴァロア朝最後の王は、世継ぎのないままに世を去り、もっとも有力な後継候補、アンリ・ド・ナヴァール、のちのアンリ四世は、新教ユグノー派の代表選手と目されていた。
このアンリが王位につけば、フランスはカトリック教会から離脱して、新教の陣営に入ることとなる。この危機を、反宗教改革の世俗の腕であるフェリーペが見逃すわけはない。フランス国内の分裂に乗じ、ピレネー、フランドル、サヴォイアの三方から攻めかかつた。
フランス歴代の王が五世紀かかって成し遂げた長く苦しい国民統一の事業も、ここにはかなく水泡に帰するかと思はれた。
だがここでアンリがすばらしい手腕を見せ、「パリはミサに値する」という例の名文句を吐き、プロテスタントの信仰を捨て、カトリックの司教の腕の中に飛び込んで、臣民の愛国心に訴えたのである。フランスは団結を回復、新王アンリに軍兵を提供し、スペイン軍を撃退した。時に1595年。
モンタネッリ『ルネサンスの歴史 下巻』中公文庫347頁以下より
少年は、それまでに生(なま)の交響楽団の演奏を聴いたことがなかった。だから、ボレロの、あの異様なまでに単調な、同一のメロディとリズムを、異様なまでに何度も何度もくりかえしまきかえし、そのくりかえし毎にオーケストラというものの機能と能力のぜんぶを、あくまで、しつこいほどにも華麗に展開して行く演奏を聴いているうちに、ついにその音楽のなかへ、生理的なまでに、からだごとまるまるまきこまれて、とうとう異様な経験をしてしまったものである。
演奏がはじまってすぐに、少年はもうからだの具合がどうも妙だな、と感じていたのである。からだが揺れる、というのではなしに、肉体の動きを統御してくれる筈の、脳髄のどこかの部分が、単調なメロディがくりかえされるにつれて次第に痺(しび)れて来るかに感じられ、その痺れが次第に大きくなって来る音の波にのせられて揺れはじめ、音楽が最終的に痙攣(けいれん)しはじめて爆発的なまでの巨大な音の波を崩して向う側につきぬけて行ってしまい、そこに盛大な拍手につつまれた無力な静寂が訪れたとき、少年は下腹部に冷たいものを感じたのであった。
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像(上)』集英社文庫11頁以下より
・・・若者は声に出して、
「あッ、あッ、おれはあの『ミヒャエル・コールハースの運命』をすてるのか」
と、鎌倉河岸に大量の紙を積んで来ているダルマ船を見下ろしながら、言っていた。
「いや、すてるのではない・・・」
ゲッペルスがわるいんだ・・・。
クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』は、若者がドイツ語で読みとおした本のはじめてのものであり、それ以後、どんなドイツ語の文章も、この強くてがっしりした碑文(いしぶみ)のようにも動かぬものに比べては、どこかやわなものとしか思われなかった。それはエンゲルスの『ドイツ農民戦争』一巻よりもずっとしなやかで、しかも農民一揆というものの光栄と悲惨を鞭で打つようにして若者に見させてくれた。
「おれのドイツは、『ミヒャエル・コールハースの運命』だけでいいわい。一つありゃ、そいで充分じゃろ」
と、やっとの思いで自分に言いえて、新宿へ向かって歩き出した。
十一月末の空気は肌に冷たかった。一九三九年の秋であった。
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像(上)』集英社文庫240頁以下より
「大統領の訪日は両国の友好に寄与するよりも、今日では国内対立を激化し、日米関係を悪化させる。どうか訪日計画を延期してほしい」
このような浅沼の申し入れに対して、マッカーサー(駐日大使)は筋論を主張してこれを無視しようとした。
「アイゼンハワー大統領の訪日は日本政府の要請に基ずくものであり、社会党から延期してもらいたいといわれるのは理解できない」
何十分かの緊迫したやりとりは、やがてマッカーサーをして「社会党は、米帝国主義は日中共同の敵といっているが、これを取り消せ」という外交官らしからぬ科白を吐かせることになる。それに対して浅沼は「遺憾ながら米国の政策は帝国主義的である」といつもの主張を繰り返した。すると、マッカーサーは憤然とし、テーブルを叩きながら「どこが帝国主義なんだ」と迫った。浅沼は冷静に次のように答えた。
「米国は、日本国憲法に違反する軍事政策を中心に、日本にいろいろ要求してくる。このようなことは、憲法擁護、積極的中立、平和による経済繁栄を実現したいという日本国民の要望に反しているのだ」
浅沼には、今や大衆は自民党政府ではなくて自分たち社会党を支持しているのだという自信があった。
それほど闘争の火は凄まじいスピードで燃え広がっていた。社会党はそのスピードにすでについていかれなくなっていたのだが、一兵卒として嬉々として闘っていた浅沼は気がつかなかった。
社会党の第一線の活動家が、半年前には「大衆の中に持ちこむには重たすぎる」といっていた安保が、この年のメーデーには子供までが安保反対の掛け声をかけるようになっていた。浅沼はそのことに感激し、また二千万人近い安保反対の請願が集まったことに感動した。
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やがて五月十九日の自民党強行採決、六月十五日の流血事件、六月二十日の自然承認と事態は推移し、社会党はなすすべもなく安保条約を成立させてしまうことになるが、浅沼にはそれを敗北ととらえる感性はなかった。
沢木耕太郎『テロルの決算』文春文庫202頁以下より
赤信号のたびに止まらなくてはならないことがもどかしくてならなかった。しかし、だからといって浅沼の傷が一刻を争うほどのものだとは、まだ思ってもいなかった。日比谷公園の前にある交番でタクシーを止め、自分が浅沼の妻であることを述べ、入院先を教えてくれるように頼んだ時、応対に出た警察官の慌てふためいた様子に、享子は初めて不吉なものを覚えた。
「今すぐ、一切の信号を無視して構わないから、真直ぐに日比谷病院に行って下さい!」
日比谷病院に到着すると人ごみをかきわけるようにして病室に入った。浅沼は静かに眠っていた。「ああ、よかった」と享子は安心した。享子には、輸血が終り麻酔でも打たれて眠っているのだろうと思えたほど、その寝顔は安らかで優しい表情をしていた。
浅沼のベッドの回りを鈴木茂三郎をはじめとする社会党の要人が黙って取り囲んでいた。そこに娘の衣江もいた。享子が家を出た直後に、警視庁から指令を受けてやってきたパトカーに乗せられ、衣江は先に到着していたのだ。そのことが再び享子を不安にした。しかし、誰も口をきかない。どうしたというのだろう。沈黙に耐え切れず、享子は思わず浅沼に呼びかけた。
「お父さん、お父さん」
それを聞いて、周囲にいる人々が驚いた。享子が何も知らないことが分かったからだ。享子の血圧の高いことを知っているひとりが、後から背中をかかえるようにして、いった。
「落ち着かなければ駄目ですよ」
享子は小さく叫んだ。
「まさか、この顔で死んでいるわけではないでしょう!」
誰からも声は出なかった。ようやく別の一人が涙ぐみながら口を開いた。
「委員長はもうすでに息を引き取られているのです」
沢木耕太郎『テロルの決算』文春文庫249頁以下より
ローマ教皇とローマ皇帝の争いのおかげで、イタリヤは政治的にほかのヨーロッパ諸国とはまったく異なる状況に置かれた。
フランスとスペインとイギリスでは封建制度はその終焉後もなお君主制統一国家の阻害要因となっていた。ドイツでは封建制度は少なくとも統一国家の外見を保つ役割を担っていた。ところがイタリヤでは封建制はほぼ完全に消え去っていたのである。
ローマ皇帝はもはや封建領主としてではなく、せいぜい既得権益の代表者として敬われているにすぎなかった。一方、ローマ教皇にはイタリアを統一する力はなく、支持者や協力者を使ってイタリア統一を阻むだけの力しかなかった。
この両者の間に多くの政治組織--それは都市や独裁者だった--が存在し、また新たに生まれていた。それらの組織は現実に根ざした存在だった。そして、それらは完全に自らの衝動に身を任せており、我々はそこに近代的な国家精神をはじめて見出すことができる。
それは抑制のないエゴイズムのもつ最悪の特徴を見せて、いかなる正義もないがしろにし、いかなる健全な文化も萌芽のうちに摘み取るような組織である。
しかし、このような方向性が克服され、あるいはそれに対する埋め合わせが出来たとき、歴史上に新しい生命が誕生した。それは意図的、打算的創造物としての国家、芸術作品としての国家である。
それは都市国家や独裁国家など様々な形をとって現われたが、その特徴を我々は内政外交の両面に見ることができる。しかし、ここでは、その典型的な形がもっともよく表われている独裁国家だけを考察することにする。
ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
独裁国家の内政の手本となったのは、皇帝フリードリヒ二世(在位1212-50)が作り変えた南イタリアとシチリアのノルマン王国だった。近くに迫るサラセン人と身内の裏切りによって、常に命の危険にさらされながら成長したフリードリヒ二世は、物事を客観的に判断して行動することを早くから身につけた人間であり、王座についた初めての近代人だった。
その上、彼にはサラセン国家の内情と統治機構についての詳しい知識と、それに加えて、教皇との生存競争があった。この争いで教皇派と皇帝派の両者は死力を尽くして戦った。
フリードリヒが出した命令、中でも1231年以降の命令の目的は、封建国家を完全に終わらせ、国民から抵抗する能力と意志を表わす手段を奪い取り、国民をひたすら税金を納めるだけの人の群に作り変えることだった。
そして司法と行政のあらゆる権力を、それまでのヨーロッパではあり得ないやり方で集中した。彼は官職を住民の選挙で選ぶことを禁止して、この命令に従わない地域の住民を奴隷として売り払い、その地域を略奪にまかせたのである。
税金の徴収は網羅的な土地台帳に基づいてイスラム式のやり方で行なわれた。その取り立ての苛酷さと残酷さは、東洋人の手から金をまき上げるには欠かせないものだった。
この国にはもはや真の意味での国民は存在せず、ただ王の言いなりになる臣民の群がいるだけだった。国民は特別な許可なしに国外で結婚することは出来なかったし、留学することも禁止された。ナポリ大学は国民に通学を許された唯一の大学であり、そのような大学の最初の例となった。少なくともこの点では東洋の国々の人々はもっと自由だった。
一方、フリードリヒは自ら地中海貿易に乗り出し、多くの商品を独占的に商う一方で国民に貿易を許さなかったが、このことは、極めてイスラム的だった。
異端の秘教を奉じていたファーティマ朝のカリフたちでさえも、少なくともその初期においては国民の宗教に対して寛容だった。ところが、フリードリヒは異端審問を自分の支配機構の頂点に据えた。しかも、自由な都市生活を擁護する者たちを異端者として迫害したのだからその罪は重かった。
最後に、フリードリヒは軍隊の中枢部と警察官に、シチリアからノチェーラやルチェーラに移住してきたサラセン人たちを使った。サラセン人なら教会の破門とは無関係だし、国民の苦しみに同情することもなかったからである。
武器を奪われた国民は、後にフリードリヒの息子マンフレッドが失脚してアンジュー家に支配が移るのを為すすべもなく受け入れるしかなかった。一方、アンジュー家はフリードリヒの支配機構をそのまま受け継いで利用したのである。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
この時代には、中央集権制の皇帝だけでなく、王位を狙う者たちの中にも新しいタイプの人間が現われた。それはフリードリヒの娘婿エッツェリーノ・ロマーノである。彼は皇帝の名代として北イタリア東部を征服する戦いに明け暮れていたので、自ら王となって国を治めることはなかった。
しかし、エッツェリーノは彼の後援者だった皇帝フリードリヒに劣らぬ重要性をもっている。というのは、次の時代に彼を真似た政治家が次々と現われたからである。それまでの中世の時代では、王権を奪うにも他国を征服するにも、相続権などの正当な根拠か異端や破門に基づいて行なわれたものだったが、エッツェリーノは王座を奪うという目的のためには手段を選ばず、大量虐殺と悪逆非道の限りをつくした最初の人物だった。
エッツェリーノはその犯罪の規模の大きさにかけては、後世の誰にも、たとえチェーザレ・ボルジアにも引けを取ることがなかった。そして一旦このような手本が確立されてしまうと、エッツェリーノが没落しても、それは後の悪党たちにとっての警鐘となることはなく、それによって国民に正義がもたらされることもなかった。
フリードリヒの家臣の家に生まれたトマス・アクィナスは、君主によって選ばれた上院と国民によって選ばれた下院からなる立憲君主政治の理論をうち立てたが、このような時代にはまったく無益なことだった。この理論が教室の外にまで広がることはなく、フリードリヒとエッツェリーノの出現が、十三世紀の政治にとって最も重要な出来事だったことは当時も今も変わることがない。
この二人の人物は当時からすでに伝説化しており、すでに十三世紀に原型が形作られていた『百の昔話』の中でも最も重要な登場人物となっていた。この中でエッツェリーノは恐るべき人間として描かれており、それはまさに当時の強烈な印象の反映だった。目撃談に基づく年代記から半ば神話的な戯曲にいたるまで、当時の文学はことごとくこの人物に結び付いていたのである。
ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
このような乱暴な政治がなかなか衰えなかったことは、14世紀に現われた大小様々な規模の独裁政治が充分に明らかにしている。紛れもない悪事が行なわれ、それが事細かに歴史家によって報告されているからである。
しかしながら、それよりもこれらの国々が独裁者たちによって誰の後ろ盾もなしに作られたことのほうが重要である。目的のためには手段を選ばないという既に述べたような独裁者たちのやり方は、イタリア以外のどの君主たちにも理解できないもので、当時のイタリアの政治家の生き方の特殊性を際立たせている。
これらの独裁者の上手な統治方法とは、税制をいじくらないことだった。既存の税制があればそれをそのまま使い、なければ最初に作ったものを出来るだけ変えずに使うのである。それは土地台帳に基づく土地税と、消費税、輸出入にかける関税、それに支配階級の資産にかける税金だった。税収の増加はひとえに国の繁栄と商業の発展にかかっていた。都市でよく行なわれた公債は発行されなかった。それよりも彼らは時々行なう暴力にたよった。それは社会が動揺しないように慎重に行なわれた。たとえば、財務省の高官を首にしてその財産を没収するという完全にイスラム的な方式をとったのである。
これだけの収入で、彼らは宮廷を維持し、ボディーガードを雇い、傭兵に給料を支払い、建造物をたて、支配者の個人的な取り巻きだった道化師や文化人たちにお金を与えたのである。正当性をもたない支配者は孤独で、常に命の危険にさらされていた。そんな彼らが自慢できる唯一同盟相手は、自分より才能にあふれる文化人たちだった。
この付合いに家柄は関係なかった。13世紀の北欧の君主たちも気前がよかったが、その相手は騎士や貴族階級の歌手と家臣に限られていた。ところが気宇壮大で名誉欲の強いイタリアの君主たちはそれとはまったく異なり、生まれを問わずに才能のある者とはだれとでも付き合った。彼らは詩人や学者と一緒にいると新しい地歩を手に入れたような気がした。それは彼らの正当性の新たな拠り所だったのである。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
この点で有名なのはヴェローナの独裁者だったスカラ家のカングランデである。彼は、亡命生活を送っているイタリアじゅうの有名人を自分の宮廷で歓待した。作家たちはこの恩を仇で返しはしなかった。
独裁者の宮廷に出入りしたことを厳しく批判されたペトラルカは、14世紀の君主たちの理想的な姿を書き残している。その詩の中で、彼は自分のパトロンだったパドゥア(パドワ)の君主に対して多大な要求をしているが、同時にあなたにはその能力があると大いに持ち上げてもいる。
「あなたは国民の支配者であるというよりも祖国の父でなくてはならない。そして、国民を自分の子供のように、いやそれどころか、自分の身体の一部のようにいつくしまねばならない。あなたは自分の武器とボディーガードと傭兵を敵に対して向けてもよいが、国民に対しては善意だけを向けなければならない。もちろんわたしが言うのは平和を愛する国民のことであって、日頃から争乱をもくろんでいるような反逆者や国家の敵に対しては、厳しい正義の鉄槌を下さねばならない」
この作品からはその細部にわたって、極めて近代的な「全能の国家」という虚構を見ることができる。つまり、君主というものは、あらゆることの面倒を見なければならないのである。
君主は、教会や公共建造物を建ててその管理をしたり、街の警察を整備したり、沼地を干拓したり、ワインと小麦の流通に気を配るだけでなく、税金を正しく配分して、身寄りのない人や病人の援助をしたり、自分の死後の名声を高めてくれるのと引き替えに、有名な文化人を保護して交際したりするものなのである。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
しかし、このような君主たちがこうした良い面や明るい面だけを持っていたわけではなかった。多くの独裁者の支配が非常に不安定で短命であることを14世紀の人たちは多かれ少なかれ見抜いていた。
内政上の理由からこのような支配体制は領土が広いほど安定するから、大国は自分より小さい国をいつでも併合しようとした。この時代にヴィスコンティ家一つのために、どれほどの小国の君主たちが犠牲になったかは数え切れないほどである。
そして、このように常に外敵の危険にさらされると、当然のことながらそのつど宮廷の内側も混乱する。そして、こういう状態が続くと支配者の心もたいていの場合すさんでくる。
彼には表立って逆らう者がなく、我が儘放題の贅沢をすることができる一方で、外敵と裏切り者にとり囲まれて近親者でさえも信用できない。こういう状況から必然的に最悪の意味での暴君が生まれてくるのはやむを得ないことである。
正当性とは無縁のこの世界では、王位の継承についても財産の配分についても、確固とした相続権は存在しない。ましてや緊急の場合には、家の存続を維持するために、王の伯父や従兄弟が幼稚で無能な皇太子を押しのけて決然として王座に就いたものだった。また、王の私生児を追放するかあるいは彼に相続権を認めるかという争いがいつも起きた。その結果、王族の者たちと、のけ者にされて逆恨みした親類たちの間にはいざこざが尽きなかった。
このような状況から、公然と反乱を起こす者や王族を殺害する者が出ることも希ではなかった。また、他方では、国外に亡命して暮らしながら、じっと我慢して冷静に事態に対処するものもいた。
後者の例としてはガルダ湖で漁師をしていたヴィスコンティ家の男がいる。政敵が差し向けた使いに「ミラノにはいつ帰るつもりか」と直接的にきかれたときに、彼は「あの男の悪行が私の犯した犯罪を上回るようになったら帰ることにする」と答えたという。王座にある者でもその品行の悪さが目に余る場合には、家全体を救うために、親類によって排除されることがよくあったのである。
時には、王の支配権が家族に牛耳られていて、王が家族の意見に常に左右される場合もあった。この場合にも遺産分割と権力継承の際に容易に激烈な騒動が持ち上がったのは言うまでもない。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』第一章より
ついでに言うなら、成功とは実は醜いものである。成功は一見して美徳と似ているために、多くの人がだまされる。大衆にとって、成功と優秀さとはほとんど同じ顔をしている。才能と瓜二つの顔をしている成功にだまされて作られたのが歴史だ。それに異を唱えたのはユウェナリスとタキトゥスだけである。
今やほとんど公認されている哲学は「成功」という屋敷の召使となっており、そのお仕着せを着て、入り口で勤務している有様である。「成功せよ」それがこの哲学の理論である。
出世は能力のある証拠と見なされる。宝くじで儲けても才覚のある人間ということになる。勝った者が尊敬されるのだ。生まれが良ければ全てが手に入る。運さえよければあとは望みのまま。運のいい人間が偉人と見なされるである。
一時代を築いた五人か六人の例外的な大物を除けば、同じ時代の人間が与える称賛とは単なる近視眼の結果にすぎない。彼らにとっては金メッキが純金に見えるのである。成功者でありさえすれば誰でもいいのだ。大衆は自分に見とれる老いたナルシスのようなもので、成り上がり者に喝采するのである。
ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』第一章より
そもそも王政維新の争いが、政治主義の異同から起こって、たとえば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、ついに幕府の敗北となり、その後に至りて勤王家も大いに悟りて開国主義に変じ、あたかも佐幕論の宿論に投ずるがゆえに、これとともに爾後の方針をともにするといえば至極もっともに聞こるれども、当時の争いに開鎖などいう主義の沙汰は少しもない。佐幕家の進退はいっさい万事君臣の名分から割り出して、徳川三百年の天下云々と争いながら、その天下がなくなったら争いの点もなくなって平気の平左衛門とはおかしい。
ソレモ理屈のわからぬ小輩ならばもとよりよろしいが、争論の発起人でしきりに忠義論を唱えて伯夷叔斉を気どり、またはその身みずから脱走して世の中を騒がした人たちの気がしれない。
勝負は時の運による、負けても恥ずかしいことはない、議論があたらなかっても構わないが、やりそこなったらその身の不運とあきらめて、山にひっこむか、寺の坊主にでもなって、生涯を送ればよいと思えども、なかなかもって坊主どころか、しゃあしゃあと高い役人になってうれしがっているのが私の気にくわぬ。
さてさて忠臣義士もあてにならぬ、君臣主従の名分論もうわきなものだ、コンナうすっぺらな人間と伍をなすよりもひとりでいるほうが心持ちがよいと説をきめて、初一念を守り、政治のことはいっさい人に任せて、自分は自分だけのことをつとめるように身がまえをしました。
福沢諭吉『福翁自伝』旺文社文庫352頁より
役人全体の風儀を見るに気品が高くない。その平生、美衣美食、大きな邸宅に住居して散財の法もきれいで、万事万端思い切りがよくて、世に処し政を料理するにも卑劣でない、至極おもしろい気風であるが、なにぶんにも支那流の磊落を気どって一身の私を慎むことに気がつかぬ。
ややもすれば酒を飲んで婦人に戯れ、肉欲をもって無上の快楽事としているように見える。家の内外にめかけなどを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥ずかしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに横風な顔をしているのは、一方に西洋文明の新事業を行ない、他の一方には和漢の旧醜態を学ぶものといわねばならぬ。
福沢諭吉『福翁自伝』旺文社文庫350頁より
1801年。家主のところからいま戻ってきた。これからお世話になる唯一の隣人である。ここは本当にすばらしいところだ。イギリスじゅうを捜しても、これほど見事に世間の喧噪から隔絶されたところはほかにはあるまい。人付き合いの苦手な者にとってはまさに別天地だ。しかもヒースクリフ氏はこの孤独を分かち合うのに恰好の相手ときている。いやこれが実にいい人なのだ。馬で乗りつけた私を眉をしかめて不審そうに見上げた様子といい、こちらが名乗るや用心深く両手をベストのなか深くしまいこんだしぐさといい、ご当人はつゆ知らぬことながら、わたしには親しみを抱かせることばかりなのだ。
「ヒースクリフさんですか」と聞くと、返事はただうなずくだけ。
「こんど越してきたロックウッドです。引越し早々こうしてお訪ねしたのは、私が無理を言ってあのツグミ荘をお借りしたのが、ご主人にはご迷惑ではなかったかと思いましてね。なにか別の考えがおありだったと昨日ちょっと耳にしたものですから・・・」
「ツグミ荘なら私の屋敷だとも」と相手はさも不愉快そうに私の言葉をさえぎった。「わたしの目の黒いうちは、黙って人から迷惑を受けることなんぞあるものかね。まあ、入りたまえ」
歯の間からもれたこの「入りたまえ」がまるで「帰ってくれ」とでも言っているように響いてくるうえに、当人の寄りかかっている門の扉は言葉とは裏腹にまったく開く気配を見せない。いま思うと、そういう様子から、かえって私はこの招待を受ける気になったのだろう。わたしは自分以上に極端にうちとけないこの男にいたく興味をかきたてられたのだ。
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』冒頭より
ヒースクリフも善良な店子の機嫌をそこねるのは得策ではないと思ったのか、少しくつろいだ様子で私とかあなたとか言うのもやめてしまい、まわりくどい丁寧な話し方もやめて、私の興味を引きそうな話題について話し始めた。それは引退した私の現在の境遇の長所と短所についてだった。
いざこうして話をしてみると、これがなかなか頭のいい男で、すっかり勇気づけられた私は、帰りしなに「また明日来ます」と言ってしまった。
この招かれざる客の再訪をあまり歓迎していない様子はありありと見えたのだが、かまわず私はのこのこ出掛けていくつもりだ。なにしろ驚くほど無愛想な男で、一緒にいるとこの私の方が社交的とさえ思えるほどなのだ。
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』第一章最後より
君が本当にぼくの話を聞く気があるとしても、まっさきに君がきっと聞きたがるようなことは、ぼくの生まれた場所だとか、かっこ悪い子供時代のことだとか、親の仕事だとか、ぼくが生まれる前のことだとか、そういった『デビッド・カッパーズフィールド』に出てくるようなくだらないことなんだろう。だけど、本当のことを言うと、ぼくはそんなことを話すつもりはないんだ。
第一、そんな話はぼくには退屈だし、第二に、親のそんなプライベートな話をしたら、うちの親は二人とも頭の血管が二本ぐらいぶちぎれてしまうにちがいないよ。だって、ぼくの両親はそういうことにはとてもうるさいんだ。それも特に親父の方がね。二人はとてもいい人なんだけど──その話をしようってんじゃないんだよ──とにかく死ぬほど怒りっぽいんだ。
それに、ぼくはくだらない自叙伝みたいなものをだらだらと君に話すつもりもない。ぼくが君に聞いて欲しいのは、去年のクリスマスに起こったとんでもない出来事なんだ。そのおかげでぼくはダウンしちゃって、こんなところで静養する羽目になってしまったのさ。
D.J.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』冒頭より
一人のドイツ思想家が世界を震撼させた。── 哲学者カントである。彼の『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft)は、神の存在と霊魂の不滅とを知力によって證明しようとすれば吾々は救い難い矛盾に陥ることを論證した。造化證蹟論やすべての自然神学に対する彼の破壊的は批判はヒュームのそれよりもさらに徹底していた。
彼の哲学は、その体系を異にしてはいたけれども知識を経験に限定する点においてはロックの哲学と同様の実際的結果を生んだ。その後倫理の問題において、彼が表門から追い出した神を裏口から呼び込もうとしたことは事実である。しかしこの企ては成功しなかった。
彼の哲学は、── 神という名稱を理神論的概念とは非常に異なったものを意味するように用いる新しい思弁の体系を生む一方、── 理性を権威の桎梏から解放する上に意義深い前進の一歩であった。
J.B.ビュアリ『思想の自由の歴史』岩波新書165頁以降
「世界とは私のイメージである」
これはこの世に生きて知性を働かす全ての者に当てはまる真理である。ただし、この真理について考えたり頭の中で自覚することのできるのは人間だけである。
そして人がこの真理を自覚したとき、彼は哲学に入門したのである。そのとき、彼は太陽も地球も知らないこと、彼が知っているのは太陽を見るの目、地球に触れる手だけだということが明らかになる。
自分のまわりを取り巻いている世界は、イメージとしてしか存在しないこと、つまり、世界はイメージをいだく彼自身との関わりの中だけで存在することが明らかになる。
ショーペンハウアー『意志とイメージとしての世界』冒頭より
恐慌とはなにか。それは、価値の関係の体系が一瞬解体されることだ。物の内在的価値がそのとき消えてしまう。いいかえれば、恐慌は、貨幣形態をおおいかくしていた価値形態──象形文字──を露呈させる。人々は商品をみすててしまう。商品とは商品形態にほかならないのであり、物ではないのだ。物が眼前にありながら、彼らはそれをつかむことができない。ある種の失語症の患者が物を物として知覚しえないように。
恐慌は、貨幣形態がいかにして成立したかを逆に照射する。マルクスは、フロイトと同様に、資本制の「幼年期」に遡行(そこう)したのであり、価値形態という「無意識」の世界に向かったのである。
柄谷行人『マルクスその可能性の中心』71頁より
貨幣の資本への転化は、商品交換の法則に則って行われれねばならず、等価物どうしの交換がその出発点となる。今のところまだ資本家の幼虫として存在するにすぎない我らの貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなおこの過程の終わりには、自分が投入した価値よりも多くの価値を取り出さなければならない。
つまり、彼の蝶への成長は、この流通の過程の中で行わねばならないが、しかも、この流通の過程で行ってはならないのである。これが問題の要件である。「Hic Rhodus, hic salta!(ここがロードス島だと思え。ここで飛べ)」というわけである。
マルクス『資本論』第四章貨幣の資本への転化より
流通W-G-Wでは、貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に転化される。したがって、貨幣は最終的に支出される。これに反して、逆の形態G-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を受け取るためである。商品の購買にさいして彼が貨幣を流通に投げ入れるのは、その同じ商品の販売によって貨幣をふたたび流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、ふたたびそれを手に入れようという、ずるい下心があってのことにほかならない。それゆえ、貨幣は前貸しされるにすぎない。
マルクス『資本論』新日本出版社253頁より
高倉院の皇子は、主上(安徳天皇)の外(ほか)三所(さんじょ)おわしましき。中にも二の宮(守貞親王)をば、儲君(もうけのきみ、皇太子)にし奉らんとて、平家取り奉って、西国へ落ち下りぬ。三四は都にましましけり。
同(寿永二年)八月五日、法皇(後白河)この宮達迎え寄せ参らさせ給いて、先ず三の宮(惟明親王)の五歳にならせましましけるを、法皇「あれは如何に」と仰(おう)せければ、法皇を(三の宮が)見参らさせ給いて、大きにむつからせ給う間、「疾う疾う」とて出(いだ)し参らさせ給いけり。その後四の宮(後鳥羽天皇になる人)の四歳にならせましましけるを、法皇、「あれは如何に」と仰せければ、やがて(すぐに四の宮が)法皇の御膝の上に参らさせ(登った)給いて、斜(なのめ)ならず懷(なつか)しげにぞましましける。
法皇御涙を流させ給いて、「げにもすぞろならん者(縁のない者)の、この老法師(おいぼうし)を見て、如何でか懷しげには思うべき。これぞ誠のわが御孫にておわします。故院(高倉院、後白河院の子)の幼生い(おさなおい、幼少の姿)に少しも違わせ給わぬものかな。これ程の忘れ形見を、今まで御覧ぜられざりつる事よ」とて、御涙塞(せ)き敢(あ)えさせ給わず。
浄土寺の二位殿(後白河の愛妾)、その時は未だ丹後殿とて御前に候われ(法皇に仕えた)けるが、「さて御位(おんくらい、天皇の位)はこの宮にてこそ渡らせ(この宮に行く)給い候(さぶら)わめのう」と申されたりければ、法皇「子細にや(構わない)」とぞ仰せける。内々御占のありしにも、「四の宮位に即(つ)かせ給わば、百王までも日本国の御主(あるじ)たるべし」とぞ勘(かんが)え申しけり。
『平家物語』巻第八山門御幸より
「病原体」が見出されたことは、あたかも従来のさまざまな伝染病が医学によって治療されるようになったかのような幻影を与えている。しかし、西洋の中世・近世の伝染病は、その「病原体」が見出されたときには、事実上消滅していた。それは、下水道をはじめとする都市改造の結果であるが、むろん都市改造をすすめた者たちは細菌や衛生学について何も知らなかったのだ。同じことが結核についてもいえる。
たとえば、結核が広く流行した間、いちばん感受性の高い人は若いうちに死にやすいから、子孫も残らない。これに反して、生き残った多くの人は、遺伝的に高度の自然抵抗力をもっており、それを子孫に伝えていく。現在の西欧社会に見られる結核死亡率の低下は、部分的には、感受性の高い家系を滅ぼしさった、十九世紀の大流行で生じた、淘汰作用の結果である。(ルネ・デュポス「健康という幻想」)
つまり、結核菌は結核の「原因」ではない。ほとんどすべての人間が、結核菌やその他の微生物病原体の感染をうける。われわれは微生物とともに生きているのであって、むしろそれがなければ消化もできないし、生きていけない。体内に病原体がいることと、発病することとはまったくべつである。西洋の十六世紀から十九世紀にかけて結核が蔓延したことは、けっして結核菌のせいではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない。それでは何が究極的な原因なのかと問うてはならない。もともと一つの「原因」を確定しようとする思想こそが、神学・形而上学的なのである。
デュポスのいうように、「人間と微生物の闘争」というイメージはまったく神学的なものである。細菌とは、いわば目にみえないが偏在している「悪」なのだ。たとえば、虫歯についてよく小悪魔の活動が図示されるが、それは錯覚を与えている。虫歯はほとんど遺伝的なものであって、歯をみがいてもむだだからである。ただ歯をみがくことには、別の文化的な価値があるにすぎない。
たしかにコッホは結核菌を発見した。しかし、それが結核の原因だということはプロパガンダである。
柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社128頁以下より
中将 (平惟盛) 既に打立(うった)たんとし給えば、北の方袂(たもと)にすがり、「都には父もなし、母もなし。捨てられ奉って後、又誰にかは見ゆべきに、如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨めしけれ。前世の契りありければ、人こそ憐み給うとも、又人毎にしもや情けをかくべき。何処(いずく)までも伴い奉り、同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑(みくず)ともならんとこそ契りしに、さればさ夜の寝覚(ねざめ)の睦言は、皆偽りになりにけり。せめては身一つならば如何せん。捨てられ奉る身の憂さを、思い知っても留まりなん。幼き者どもをば、誰に見譲り、如何にせよとか思し召す。恨めしうも留め給うものかな」とて、且(かつう)は恨み且は慕い給えば、
三位(さんみ)の中将、「誠に人は十三、われは十五より、見初め奉ったれば、火の中水の底へも、共に入り共に沈み、限りある別路(わかれじ)までも、後(おく)れ先立たじとこそ思いしか。今日はかく物憂き有様どもにて、軍(いくさ)の陣へ赴けば、具足し奉って、行末も知らぬ旅の空にて、憂き目を見せ参らせんも、わが身ながらうたてかるべし。その上今度は用意も候わず、何処の浦にも心安う落ち着きたらば、それより迎いに人をこそ参らせめ」とて、思ひ切ってぞ立たれける。
中門(ちゅうもん)の廊に出でて、鎧取って着、馬引寄せさせ、既に乗らんとし給へば、若君姫君走り出でて、父の鎧の袖、草摺(くさずり)に取りつき、「これはされば、いずちへとて渡らせ給い候うやらん。われも参らん、われも行かん」と慕い泣き給えば、憂き世のきずなと覚えて、三位の中将、いとど為ん方(せんかた)なげにぞ見えられける。
『平家物語』巻第七惟盛都落より
既に死罪にさだまりけるを、法性寺の大殿(おおとの)、
「むかし嵯峨天皇弘仁(こうにん)元年九月に、右兵衛督(のかみ)藤原仲成を誅(ちゅう)せられしより、去(さん)ぬる保元元年まで、御門(みかど)廿五代、年記三百四十七年、かの間、死せる者ふたゝび帰らず、不便(ふびん)なりとて、死罪をとゞめられしを、後白河院の御宇(ぎょう)に、少納言入道信西(しんぜい)執権のとき、始て申(もうし)おこないたりしが、中(なか)二とせをへて、去年大乱おこり、其身やがて誅せられぬ。おそろしくこそ侍れ。
「公卿(くぎょう)の死罪いかゞあるべかるらむ。其上(そのかみ)、国に死罪を行へば、海内(かいだい)に謀反の者たえずと申せば、かたがたもて死罪一等をなだめて、遠流(おんる)にや処せられん」
と申させ給えば、「尤(もっとも)大殿の仰(おおせ)然(しか)るべし」と、諸卿(しょきょう)同じく申されしかば、新大納言経宗(つねむね)をば阿波の国、別当惟方(これかた)をば長門の国へぞながされける。
『平治物語』下巻経宗惟方遠流に処せらるゝ事同じく召し返さるゝ事より
義仲、「六条河原にて、如何にもなるべかりしかども、汝と一所で如何にもならん為にこそ、多くの敵(かたき)に後を見せて、これまで逃れたんなれ。所々で討たれんより、一所でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べて、既に駈けんとし給えば、
今井四郎、急ぎ馬より飛んで下り、主の馬の水つきに取りつき、涙をはらはらと流いて、
「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候えども、最後に不覚しぬれば、永き傷にて候なり。御身も疲れさせ給い候いぬ。御馬も弱って候。云う甲斐なき人の郎等に組み落されて、討たれさせ給い候いなば、さしも日本国に鬼神(おにがみ)と聞こえさせ給いつる木曾殿をば、某(なにがし)が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉(ま)げて、あの松の中へ入らせ給え」
と申しければ、木曾殿、さらばとて、ただ一騎粟津の松原へぞ駈け給う。
『平家物語』巻第九木曾最後より
薩摩守(さつまのかみ)申されけるは、「この後(のち)世静まって、撰集の御沙汰候わば、これに候(そうろう)巻物の中に、さりぬべき歌候わば、一首なりとも御恩を蒙(こうむ)って、草の陰にても嬉(うれし)と存じ候わば、遠き御守りとこそなり参らせ候わんずれ」とて、日頃詠(よ)み置かれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたりける巻物を、今はとて打立(うった)たれける時、これを取って持たれけるを、鎧(よろい)の引合(ひきあわせ)より取り出でて、俊成卿(きょう)に奉(たてまつ)らる。
三位これを開いて見給いて、「かかる忘れ形見どもを賜(たまわ)り候上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじゅう候。さても只今の御渡りこそ、情けも深う、あわれも殊(こと)に勝(すぐ)れて、感涙押え難うこそ候え」と宣(のたま)えば、
薩摩守、「屍(かばね)を野山に曝(さら)さば曝せ、憂き名を西海(さいかい)の波に流さば流せ、今は憂き世に思い置く事なし。さらば暇(いとま)申して」とて、馬に打乗り甲(かぶと)の緒をしめて、西を指してぞ歩ませ給う。
三位後ろを遥かに見送って立たれたれば、忠度(ただのり)の声とおぼしくて、「前途程(せんどほど)遠し、思いを雁山(がんざん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)す」と、高らかに口ずさみ給えば、俊成卿も、いとど哀れに覚えて、涙を押えて入り給いぬ。
『平家物語』巻第七忠度都落ちより
亭主は、兜(かぶと)を脱ごうとしないドンキホーテのために、テーブルを風通しのいい酒屋の入口の前に置いて、棒鱈料理とパンを出した。そのパンは彼の鎧(よろい)みたいに黒くて薄汚いもので、鱈もかちかちでろくに味も付いていない代物だった。
ところで、彼の食事風景はまったくのお笑いぐさだった。なぜなら、彼は、片方の手で兜が落ちてこないように頭を押さえ、もう片方の手でバイザーが下りてこないように支えていたので、自分の手で物を口に運ぶことができずに、仕方なく酒場の女に食べさせてもらったからである。
それでもどうしても彼はワインを飲ませてもらうことはできなかった。そこで、亭主はストローを持ってきて、片方の先をドンキホーテの口にくわえさせて、もう片方の先をワイングラスの中に入れてやったのである。彼がこんなことに全部耐えたのも、単にバイザーを結わえつけたひもを切りたくなかったからだ。
セルバンテス『ドンキホーテ』第二章より
ちょうどその時、豚飼いが放し飼いにしていた豚を呼び集めるために角笛を吹いたのだが、それがドンキホーテには城のお小姓が自分の到着を知らせるために合図していると思った。それで彼は喜び勇んで飲み屋の女たちのいる方向に馬を進めたのである。
ところが、女たちはよろい兜に身を包んで槍と楯を持った男が近づいてくるのに恐れをなして、店の中に入ってしまった。ドンキホーテは、その様子から自分が怖がられていると思ったので、ボール紙製のバイザーを上げて顔を見せると、うやうやしい態度でやさしくこう語りかけた。
「あいや、お女中方、何もお逃げになることはござらぬ。これでも拙者は騎士でござる。けっして、そこもと達にご無礼には及びませぬ。ましてや、お姿から察するところ、やんごとなきご息女たちとお見受けいたす。そのような方々に対しては、なおさらのことでござる」
女たちはバイザーに隠れた男の顔を見ようとして目を凝らしていたが、自分たちが「ご息女」と呼ばれるのを聞くと、あまりにそれが見当はずれなので思わず笑い出さずにはいられなかった。それを見たドンキホーテは腹が立って、こう言った。
「ご婦人方は慎み深くなされるのが肝要でござる。さしたる理由もなくお笑い召されるのは愚劣なことじゃ。拙者がこう申すのも、そこもとたちを困惑させんがためではござらぬ。そこもとたちのお役に立ちたい一念からこう申しておるのじゃ」
この奇妙な格好をして訳の分からないことを言う我らの騎士を前にして、女たちはますます笑い転げるばかりだった。
セルバンテス『ドンキホーテ』第二章より
男が部屋に入ると、右近(うこん)は明かりを部屋の隅に移して、女の遺体と衝立(ついたて)をはさんだ反対側で休んでいた。彼はさぞつらかろうと右近に同情した。見ると女の遺体は少しも恐ろしげなところはなく、むしろ、実にかわいらしく、生きているときと何も変わっていないように見えた。彼は女の手を握るとこう言った。
「俺にもう一度だけ、おまえの声を聞かせてくれよ。何かの因縁で、こんなに短い間に俺の心はお前に対する愛情で一杯になってしまったんだよ。それなのに、お前は、俺を置き去りにして行ってしまうのかい。それじゃあ、あんまりひどすぎるよ」
そして、男は人聞きも憚らずに声を上げて泣いた。
『源氏物語』夕顔の巻より
ある時のこと、帝の後宮に女御や更衣などたくさんの女性たちがいたが、そのなかに身分が低いにもかかわらず天皇の寵愛を独り占めにしていた女性が一人いた。その女性は桐壺の更衣といった。自分が一番だと思って宮中に入っていた良家出身の女御たちは、この女性の出現に我慢がならずに嫉妬の炎を燃やした。一方、この女性と同じかそれ以下の女たちには、この女性の愛され方がなおのことおもしろくなかった。
彼女が朝夕の宮仕えに呼ばれるたびに、後宮は大騒ぎになった。そのうち彼女は、女たちの憎しみを一身に背負ったためか、とうとう病気になってしまい、実家にいることが多くなってきた。ところが帝はこうして彼女に会えなくなると、よけいに恋心を募らせた。彼は人がなんと言おうとお構いなしに、この女性一人を溺愛した。
宮中の男たちは、「まったく困ったものだ」と、帝のこの溺愛ぶりに眉をひそめた。世間の人達も「かつて中国はこういうことがきっかけで国が乱れたことがある」と楊貴妃の例を出して、不安げに噂しあった。
しかし、彼女はどんなにつらいことがあっても、自分に対する帝のたぐい希な愛情を信じて、宮仕えを続けたのである。
『源氏物語』桐壺の巻より
「こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でもわたしは別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でももっとするがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったなら、わたしはまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ」などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。
女は少し笑って、「あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ちどおしいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱して、良い夫になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言いになることになったのは別れる時になったわけです」そう口惜しそうに言ってこちらを憤慨させるのです。
女も自制のきかない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまいました。私は「痛い痛い」とたいそうに言って、「こんな傷までつけられた私は社会へ出られない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上っていくことはできない。わたしは坊主にでもなることにするだろう」などと威して、「じゃあこれがいよいよの別れだ」と言って、指を痛そうに曲げてその家を出てきたのです。
『与謝野晶子訳 源氏物語』角川書店帚木の巻より
ある時大臣(おとど)参内のついでに、中宮の御方へ参らせ給うに、八尺ばかりありける蛇(くちなわ)の、大臣の指貫(さしぬき)の左の輪を這い回りけるを、重盛騒がば女房達も騒ぎ中宮も驚かせ給いなんずと思し召し、左の手にて尾を押さえ右の手にて頭を取って、直衣の袖の中へ引入れ、ちっとも騒がず、つい立って、「六位や候、六位や候」と召されければ、伊豆守仲綱、その時は未だ衛府の蔵人にて候われけるが、「仲綱」と名乗って参られたるに、この蛇を賜(た)ぶ。
賜(たま)わって弓場(ゆば)殿を経て、殿上の小庭に出でつつ、御倉(みくら)の小舎人を招いて、「これ賜われ」と云われければ、大きに頭を振って逃げ去りぬ。伊豆守力及ばず、わが郎党の競(きおう)を召してこれを賜ぶ。賜わって捨ててんげり。その朝(あした)小松殿より、よい馬に鞍置いて伊豆守の許へ遣わすとて、「さても昨日の振舞こそ、優にやさしう候いつれ。これは乗一(のりいち)の馬で候うぞ。夕べに及んで陣外(じんげ)より傾城(けいせい)の許へ通われん時用いらるべし」とて遣わさる。
『平家物語』第四巻競より
さるほどに伊勢の国阿濃(あの)の津より船にて下りけるが、遠江(とおとうみ)の国天龍灘にて、にわかに大風吹き大波立って、すでにこの船を打ち返さんとす。水主(すいしゅ)梶取(かんどり)ども、いかにもして助からんとしけれども、叶うべしとも見えざりければ、あるいは観音の名号を唱え、あるいは最後の十念におよぶ。されども文覚はちっとも騒がず、船底に高鼾(いびき)かいてぞ伏したりける。
すでにこうと見えしとき、かっぱと起き上がり、船端に立って、沖のかたをにらまえ、大音声(おんじょう)を上げて、「龍王やある龍王やある」とぞ呼うだりける。「何とて、かように大願起こしたる聖(ひじり)が乗ったる船をば、過(あやま)とうとはするぞ。ただいま天の責め被(こう)ぶらんずる龍神どもかな」とぞ言いける。その故にや、波風ほどなく鎮まりて、伊豆の国にぞ着きにける。
『平家物語』巻第五文覚被流より
東海道のさらに先の千葉の片田舎で育ったこの私が、世の中に物語というものがあると聞いてどうしても読みたいと思うようになったのが何故だかは分からない。
昼間の暇なときや夜寝られないときなどに、姉や継母たちが色んな物語や光源氏のことなどを少し話して聞かせてくれるようになると、物語に対する私のあこがれは募るばかりだった。
けれども、姉たちが覚えている程度の話ではとても満足できなかった私は、自分の背丈と同じ薬師如来像を作ると、手を清めて人に見られないようにこっそりと仏間に入っては、「早くわたしを上京させてください。そして、無数にあるという物語を全て私に読ませてください」と、床に額(ひたい)をこすりつけるようにして必死に祈ったものだ。
すると十三才の時に上京することになった。その年の九月三日に方角合わせのためにいまたちという所に移った。
『更級日記』より
「あら、ここにいたの?」彼女が言いつけたとおりに私が食堂で父親の相手をしていないのに驚いた様子も見せないで言った。私の肩の後を通ると、まっすぐに便器のところへ行き、放尿した。両足を曲げ、ひろげ、上体を前にのり出し、顔を私の方に向けた彼女の姿を、とりわけ、人間が見ているとも知らずに用を足している動物たちのように、邪気もなく私にそそがれているそのおぼろな表情のない美しい目を見ながら、私はさっき彼女の部屋に入ったときに抱いたあの野獣の巣窟みたいだという感じをふたたび感じた。・・・
その間にチェチリアは小用を終えた。彼女は便器からビデへとむき出しの尻を移して、しゃがみ込んだ。やがて立ち上がると、脚を大きく開いて、タオルできつく拭いた。最後に、衣服を引っ張り上げながら言った。「髪をとくからちょっとごめん」
アルベルト・モラヴィア『倦怠』河出書房新社より
勝手の方には、やれ取り上げ婆さまのお出でと、下女のおなべがうろたえて、婆の手を取り、これへこれへと弥次郎が布団かぶりて寝ているところへ連れてくると、
取り上げ婆「これはしたり、寝ていさんしてはならんわいの。さあさあ起きさんせ起きさんせ」
と弥次郎を引きづり起こせば、顔をしかめて「あいたたたたた」 ・・・・
この婆もうろたえた上、一体目がすこし疎く、家の産婦と間違え、弥次郎が腰を引っ立て引っ立て「さあさあ、皆来さんせんかいな。これこれここへ来て、誰ぞ腰を抱いてくださんせ。さあさあ早う早う」とせき立つにぞ、北八はあきれかえりて、おかしく、こりゃどうしおる知らんと、とぼけた顔で、弥次郎が腰を抱いて引っ立つれば
弥次「こりゃ北八どうする。ああ痛え痛え」
ばば「そないな気の弱いことではならんわいな。ぐっと息(いき)まんせ息まんせ」
弥次「ここで息んでたまるものか。雪隠(せっちん)へ行きてえ。離した離した」
ばば「後架へ行ってはならんわいの」
弥次「それでも、ここで息むと、ここへ出る」
ばば「出るから、息まんせ言うのじゃわいの。それ、ううん、ううううん、ううううん、そりゃこそ、もう頭が出かけた出かけた」
弥次「あいたたたたた、そりゃ子ではねえ。それをそんなに引っぱらしゃんな。ああ、これ痛え痛え」
と、もがくを構わず婆ぐっと引っぱれば、弥次郎腹を立て「ええこのばばあめ」と横っ面を張り飛ばす。婆あきれて「この血狂い(ちちがい)は」とむしゃぶりつく。
十返舎一九『東海道中膝栗毛』岩波文庫下129頁より
弥次「ああ、よく寝たわ。いつの間にやらごうぎに来たぞ。時に小便が漏るようだ」と、宿の亭主がくれたる竹の筒を出し、ここでこそっと、前にあてがい小便をする。
この竹の筒は、火吹き竹のごとく、先の方に穴をあけたるなれば、船のふちにもたせかけて、小便をするつもりのところ、弥次郎の心には、穴の開いてあるには心づかず、しびんのように思い、竹の筒へ小便をしこみて、あとでうち空ける事と心得、船の中にて、すぐに竹の筒へしこみければ、先の穴より、小便が流れ出て、船中小便だらけとなり、乗り合い皆々肝をつぶし「こりゃなんじゃいな。水がえろう流れる」
乗り合い「誰か土瓶を打ちこかいたそうな。それそれ、たばこ入れも紙入れもびっしょりじゃ。こりゃたまらんわ。やあ、おまえ小便じゃな」と、とがめられて、弥次郎、竹の筒を隠し所にうろたえて、まごまごする。
十返舎一九『東海道中膝栗毛』岩波文庫上316頁以下より
「お父さんは失敗したんだよ、何もかもね。気が付いているだろう? だが諦めてはいない。考えてみると・・・どうも人生観というか、近頃の新しい言葉で言えば社会観というのかね、根本的にものの見方が間違っていたかもしれないよ。人間を信じすぎ、人情に溺れてね・・・世の中というものは、それだけで動いているものじゃなかった。そのようには出来ていなかった。だが諦めてはいないがね・・・」
石光真清『誰のために』中公文庫345頁より
ロシア王室では遭難〔大津事件〕の原因が理解できなかったので、とりあえず皇太子の安全を計るために、日本側の医者を辞退して軍艦に戻り、十九日に予定を切りあげてウラジオストックに帰るように指示したのであった。先方の王室の意向は日本側には通知されなかったから、日本側は陛下を初めとして、皇太子一行の行動に肝を冷やして協議を重ねるばかりであった。
軍艦は十九日出港との報があったので、日本側では御用邸に皇太子一行を招待して送別の宴を開きたいむねを軍艦へ申し入れると、治療上の理由で謝絶され、そのかわりに、先方から十九日には陛下に来艦されたい旨の申出を受けた。招待の指名は天皇、北白川宮、有栖川宮のほか侍従長以下数名で、政府閣員としては青木外相一人であった。
この招待を受けるべきかどうかについて閣議は沸騰した。十九日は露艦出港の日である、黒煙を上げている軍艦はそのまま天皇と皇族を人質としてロシアに連れ去るかもしれない。人質としないまでも、艦内でどんな辱しめを受け、どんな難題を持ちかけられて、強迫を受けるかもしれない・・・と各大臣の憂いは皆同じであった。
如何なる国難が来ようとも、われわれ国民は断じて天皇を露艦に送ってはならぬと、意見の一致を見て、御辞退なさるよう奏上した。すると陛下は即座に強く退けられた。
「お断りする理由はない。悦んで御招待に応ずる。わたしの一身を以て日本国の危急を救い得るなら満足である」
一同は声を呑んで沈痛の顔を伏せた。すると、陛下は却って一同を慰め顔に言われた。
「お前たちが心配するように、ロシアへ伴れてゆかれたら、その時は、お前たちが迎えに参ればよろしい。お断りするのは無礼である」
こうして十九日が来た。午前九時御所を御出発、国の運命を賭けた行幸であった。沿道は不安顔の群衆で埋まっていた。
陛下の御一行をボートで露艦にお送りしたあとの神戸埠頭には、心痛の西郷内相をはじめとする高官連が、そのまま立ち並んでお帰りをお待ちした。一般市民の拝観者数千もまた、岸壁を埋めて、沖合に黒煙を上げている七隻の露艦を見つめたまま、緊張の二時間を過したのである。
午後二時、艦上の交歓は終わって、無事陛下が埠頭に帰り着かれた時、西郷内相がまず感極まって声をあげて泣き出した。これをきっかけのように、埠頭に万歳の声が起こり、民衆もこれに和して、潮のようにどよめいた。
石光真清『城下の人』中公文庫237頁以下より
ある人が、久我畷(こがなわて)を通っていたとき、小袖を着て大口袴(はかま)をはいた人が、木像の地蔵さまを田の中の水につけ込んで、丁寧に洗っていた。わけの分からないことをするものだと見ているうちに、狩衣(かりぎぬ)姿の男が二三人出てきて、「こんなところにいらした」といって、この人を連れていってしまった。この方は、久我の内大臣通基公でいらした。
気がお狂いにならなかった間は、殊勝な、立派な方でいらしたそうだ。
吉田兼好『徒然草』第195段角川文庫262頁より
むかし備前少将光政が咽喉(のど)が渇いた事があつた。・・・「蜜柑(みかん)が食べたくなつた。二つ三つ持つて参れ。」暫(しばら)くすると、大顆(おおつぶ)の甘味(うま)さうなのが籠に盛つて持ち出された。光政は子供のやうに手を出してその一つを取つた。すると丁度その折(おり)襖(ふすま)の影から皺くちやな顔がひよつくり覗いた。
「御前様、蜜柑をとの御意(ぎよい)ださうに承はりましたが、この頃の夜寒に如何で御座りませうな。」
侍医は怯々(びくびく)もので言つて、円(まる)い滑々(すべすべ)した頭を下げた。
「うむ」と言つたきり、光政はじつと侍医の顔を見詰めてゐたが、暫くすると掌面(てのひら)の蜜柑をそつと籠のなかへ返した。・・・
その夜光政は寝床に入ると、誰にいふともなし、独言(ひとりごと)を言つて溜息をついた。
「あゝ危(あぶな)かつた危かつた。」
側(そば)に居た女が聞き咎(とが)めて理由(わけ)を訊(き)くと、光政は宵の間(ま)にあつた蜜柑の事を話して、あの折自分が、その位の事だつたら此方(こつち)にも知つてゐるとでも言はうものなら、今後(これから)は誰一人間違つた事を止め立てして呉れるものは無くなるだらう、
「ほんとに危い所だつた。」
と言つて、また一つ深い溜息を吐(つ)いた。・・・
薄田泣菫『完本 茶話 上』富山房百科文庫315頁以下より
喫茶店を出ると、車にのって、もう二軒ほどさきのチェチリアのアパートの玄関の真向かいに車をとめた。他人の行動をさぐったりするのは生まれて初めての経験だった。・・・
私は思ってもみなかったわかり切った事実に気がついた。つまり、警官のように職業上、または、おばさん連中や腕白小僧たちのように暇つぶしの好奇心から人をさぐるのと、私のように直接自分に関係するはっきりした目的のために人をさぐるのとでは全然別だということである。・・・
いまもチェチリアを疑い続けていることに変わりはないが、その疑いの苦しみに探偵をする苦痛が加わってきた。
せめてチェチリアの出てくる時間がはっきりわかっていれば、彼女が建物の戸口に姿を現わす一分前までは、おそらく落ち着いた気持ちでいられるであろうが、その瞬間がいつやってくるかわからないために、すぎていく一瞬一瞬が私には彼女が実際に姿を現すのを見るその唯一の瞬間とおなじく極度に苦しいものであった。
アルベルト・モラヴィア『倦怠』河出書房新社より
ディオニュシオス父王は、自分の物のうちで何よりも自分の詩を高く評価していた。オリュンピア競技の季節には、豪華この上もない戦車とともに、詩人や楽人たちを送り、王家にふさわしい金襴の天幕をはりめぐらして、自分の詩を朗誦させた。
いよいよその詩が披露されると、発声が美しくすぐれていたので、はじめは民衆の注意を引きつけた。けれども、やがて、作品の拙劣なことがわかってくると、民衆はまずこれを軽蔑した。引き続き判断をいらだたせられた民衆は、ついに怒りだし、走り寄って彼の天幕を打ち倒し、くやしまぎれにこれを引き裂いた。
また、彼の戦車も競争で何らめざましい働きも見せず、彼の部下を乗せた船がシケリアに帰りつかず、嵐にあってタラスの海岸で粉砕されたのを知って、民衆は、これは神々が、自分たちと同様に、あの下手な詩に対して怒りを発したからであると確信した。この難破を免れた水夫たちでさえ、この民衆の意見を支持した。
モンテーニュ『随想録』第2巻17章河出書房新社『世界の大思想5』191頁『新裝版・世界の大思想6』34頁より
葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。
葉公が孔子に話した、「わたくしどもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたときに、息子がそれを知らせました。」孔子はいわれた、「わたくしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ」
『論語』巻第7・子路第13・18岩波文庫181頁より
命令と服従のあいだには、もっと釣り合いがあるのが望ましいであろう。誰も到達しえないような目標をかかげるのは不当であると思う。どんなに立派な人間でも、その全ての行為と思想を法律の吟味にかけてみれば、一生のあいだに十ペンぐらい絞首刑に値しないような者は一人もいない。・・・法律は、われわれには出来ないことを決めておいて、あとで、できないからといってわれわれを責めるのだ(Les loix qui nous condamnent, à ne pouvoir pas, nous condamnent de ce que nous ne pouvons pas.)。
モンテーニュ『随想録』第3巻9章河出書房新社『世界の大思想5』513頁『新裝版・世界の大思想6』356頁より猫ふんじゃった、猫ふんじゃった
恋人から内緒でもらった一つの林檎が乙女の純潔な胸からころがり出た。
彼女は自分のふっくらとした下着のなかに隠しておいたことを忘れていた。
母親の近づくのを見て立ちあがる拍子に、かわいそうに彼女はそれを足もとに落したのだ。
乙女は自分の顔がたちまち赤らむのを感じる。
カトゥルス65の19
モンテーニュ『随想録』第3巻5章河出書房新社『世界の大思想5』425頁『新裝版・世界の大思想6』268頁より
クラトス(権力)とビア(暴力)がプロメテウスをはさんで登場する。うしろから道具をもったヘファイストスがついてくる
クラトス われわれは人けのないスキタイの荒れ地にまではるばるとやってきた。さあ、ヘファイストスよ、そろそろこの辺であんたの父親の命令を実行に移してもらおうか。この不埒な奴を鉄の鎖と足枷で、このささくれ立った岩山に縛りつけるのだ。こいつはあんたが大切にしていた燃える炎を、それさえあれば何でも作れるという輝く炎を盗み出して、人間どもにくれてやったのだ。こんな大それた罪を犯したからには罰を受けずに済ますわけにはいかない。王ゼウスの支配を甘んじて受けねばならないということを、こいつに思い知らせてやるのだ。そして、人間どもを可愛がるなどということを金輪際やめさせるのだ。
ヘファイストス クラトスとビアのお二人さんよ。ゼウスから言いつかったあんたたちの仕事はもうこれで全部終わりだな。いよいよこれからはわしの出番というわけだ。だがな、わしは自分と同じ仲間の神を、こんな寒い岩山に無理やり縛りつけるなんて、どうも気がすすまんのだよ。とはいうものの、いやがおうでも、心を奮い立たせて、やってしまわねばならなんのだ。父の命令にそむくとあとが怖いからな。おい、プロメテウスよ、思慮深い女神テミスの息子さんよ、いやがるあんたをこんな人気のない岩山に青銅の鋲(びょう)で打ちつけるなんて、わしはけっして喜んでやっているのではないのだ。こんなことをすれば、あんたはもう人間の声を聞くことも、人間の姿を見ることも出来なくなってしまうだろう。こんなところにいたら、あんたは照りつける太陽の光にじりじりと焦がされて、そのつややかな肌の色も変わってしまうだろう。
アイスキュロス『縛られたプロメテウス』冒頭より
天がイタリアへ行くのをお前に思いとどまらせるのか? それならば、私を信じて行け。お前がこわがるのも無理はない。お前は、乗っている私が誰であるかを知らないからだ。・・・嵐をついて行け、お前の守護神は私だ。(シーザーが水先案内に言った言葉 ルカーヌス5の578)
モンテーニュ『随想録』第2巻13章河出書房新社『世界の大思想5』165頁『新裝版・世界の大思想6』8頁より
人々がこの器官のままならぬ自発性を指摘するのも無理はない。この器官は、別に必要のないときに、いやにうるさく出しゃばるくせに、何より必要なときに、折あしく萎縮する。また、独断でいかにも傲然とわれわれの意志に刃向かい、まったく尊大に頑強に、われわれの心や手の勧告をしりぞける。
それにしても、人がこの器官の反抗を非難し、それを証拠にこの器官を断罪しようとするのに対して、もしこの器官がわたしに弁護を頼んでくるようなことがあるならば、おそらくわたしは、その仲間である他の諸器官に嫌疑をかけるであろう。・・・
なぜなら、尻ほど無遠慮で、時をわきまえない器官はないからである。それに、わたしの知ってる尻は、まったく騒々しく手に負えないほどで、その主人公に、四十年ものあいだ、絶えず息も切らさず放屁させつづけ、ついに主人公を死に至らしめた。
モンテーニュ『随想録』第1巻21章河出書房新社『世界の大思想4』86頁『新裝版・世界の大思想5』86頁より
猫ふんずけちゃったら、ひっかいた
猫ひっかいた、猫ひっかいた
猫びっくりして、ひっかいた
悪い猫め、ツメを切れ!
屋根をおりて、ヒゲをそれ!
猫ニャーゴ、ニャーゴ、猫かぶり
猫なで声、甘えてる
猫ごめんなさい、猫ごめんなさい
猫おどかしちゃって、ごめんなさい
猫よっといで、猫よっといで
猫かつぶしやるから、よっといで
朝日放送『探偵ナイトスクープ』2001年8月27日放送分より
この渚(なぎさ)ほど、海らしい海を知らない。
つぎつぎに押し寄せては、いいわと言い、いやと言い、
また、その青さで、白い泡で、いいわと言い、いやよいやよと言う。
ひとときもじっとしていない。わたしは、海よと、くり返し、
岩にうち寄せ、言い寄るが、口説き落とすことはできない。
そこで今度は、緑の七つの犬の、緑の七つの海の、緑の七つの舌で、
岩をなで、口づけ、ぬらし、くやしそうに胸をたたき、
自分の名を繰り返す。
君のほほえみは顔の上で蝶のようにひろがる。
君の笑みはバラの花だ。
散らばらせた槍、ほとばしる水、
その笑みは押し寄せる銀色の波だ。
純粋な娘のそばにいると、白い海のほとりにいるようだ。
好きだ、黙っている君が。ここにいないみたいで。
はだか、きみは手のように素朴で、すべすべして地上的で、
小さく、丸くて透明だ。月の輪郭、リンゴの小道。
はだかは脱穀した麦のようにか弱い。
はだかはキューバの夜の色だ。君の髪には蔓(つる)と星がある
はだかは黄金色(こがねいろ)の教会の夏のように巨大で黄色い。
あの年、詩がわたしを探しにやってきた。
どこから来たのか、分からない。冬からか、川からか、
声でも言葉でも静寂でもないが、確かに呼ばれた。
通りから、夜の枝から、ほかの人から、
激しい炎の中、あるいは一人になるとき、
顔のないわたしにそれは触れた。
パブロ・ネルーダ(1904 - 1973 チリ)
映画『イル・ポスティーノ』吹き替え版 ブエナ・ビスタ・ジャパン株式会社より
プルジョア階級の貞淑な人妻としての外装を保ちながら、娼婦たちの生活に身を投じて、その利益だけ手に入れようとするだけでは、十分ではない。悪徳は、容易に凱歌をあげるものではない。その点で天才と似たところがあって、どちらも富と才能を共存させるためには、よほどの幸運な状況の協力を必要とする。・・・愛好者も、名声も、莫大な財産を蕩尽したという不名誉な勲章もなければ、金目あての美貌と言えども物置にしまわれたコレッジョの画と同じであり、屋根裏部屋で息絶える天才と同じである。
バルザック『従妹ベット』新潮文庫、上246頁より
獄中より脱走した彼は、まだ市から遠く落ち延びなかったとき、かつて彼の敵だった数人のものが跡を追ってくるのを見つけて、あわてて身をかくそうとした。しかしながら彼らはしきりに彼の名を呼びながら近づいてきて、旅行のための費用として家から持参した若干の金をぜひとも受け取ってくれるようにと熱望して、ただこの目的のために跡を追いかけてきたと言って、さらに、勇気をふるい起こして今の不運に耐えてくださいと懇々と慰めたとき、彼ははじめて声を放って泣いた。
プルターク英雄伝『デモステネス』潮文庫第七巻178頁より
彼はいまだかつて、政治に志し人間を取り扱うことを願う者にとっては、他の万事に超えて、プラトンのいわゆる孤独との縁者たる我執を避け、他の万事に超えて、人々に嘲笑されるという虐待に対する忍耐力をつけることがいかに大切であるかを知らなかった。
プルターク英雄伝『コリオレナス』潮文庫第二巻300頁より
およそ国内で対立する二政党、または二分派というものは、船の中の乗客のようなもので、その中の不安定なる力の運動を整え、平衡をとるものである。ゆえにもし乗客がいっしょになって、全部が一方の側に集まってしまえば、その衝動のために船は顛覆し、あらゆるものを沈没させてしまうものである。シーザーはそれをよく知っていた。
であるから、カトーは、ローマの全ての災いは、ポンペイウスとシーザーとの軋轢にあると言って攻撃する人に対して、うまいことを言った。「全ての罪を、この最終的原因に帰して、それを攻撃するのは間違っている。国家にたいして最初で最大の打撃を与えたものは、彼らの不和や敵意ではなくて、その和解と提携にあったのだ」と。
プルターク英雄伝『ポンペイ』潮文庫第五巻342頁より
人情の機微に通じた者は、一般に育ちがよくて極めて素行が悪い連中の方が、道徳堅固な人間よりはるかに愛想がいいという事実を否定できないであろう。すねに傷を持つ身なので、彼らは自分を裁くべき人間の欠点にたいして鷹揚な態度を見せることによって、あらかじめ寛容を懇請しておくのであり、だから彼らは素敵な人間と見なされる。
道徳堅固な人たちの中にも魅力的な人間がいることはいるが、彼らは、道徳堅固ということはそれだけですでに素晴らしいことだから、自分のほうから機嫌をとったりしなくてもいいのだと考える。それからまた、偽善者は除外しなければならないから、ほんとうに道徳堅固な人たちについていうのだが、彼らはほとんど誰でも、自分のおかれた地位にたいして多少の疑心をいだいている。人生という大がかりな駆け引きの場で、自分は喰いものにされているのだと思っており、それで彼らは、真価を認められないと称する人間に特有の、ぎすぎすした物言いをするのである。
バルザック『従妹ベット』上 新潮文庫86頁より
そうして吾人が別に記したごとく、さらにデモステネスがカラウリアに、ヒュペレイデスがクレオナイにおいて死んでからは、市民らは痛惜の情をもって故フィリップ王および故アレキサンダー王を想い、その時代の再来せんことをはかなき望みと知りつつ望むようになった。
それはあたかも当年のフリギア王アンティゴナスの場合に似ていた。アンティゴノスが戦い敗れて殺されたのち、その征服者がはなはだしく人民に圧制を加えたとき、一人の農夫が野に出てしきりに土を掘り返しているのを見たある人がそのいわれを尋ねた。すると彼は、「これはなあ」と深い溜息を吐きながらいった、「アンティゴノス様を探しているのじゃよ」・・・
プルターク英雄伝『フォーシオン』潮文庫第6巻265頁より
サムソン おい、俺たちゃいつも歯ぎしりばかりしてるわけにはいかねぇ。
グレゴリー そうだい。歯ぎしりばかりするやつはうるさくて眠れねえからな。
サムソン そうじゃねえ。いざとなりゃ、目に物見せてやるって言ってんだ。
グレゴリー そうだい。生きてるうちに物見遊山はしておくもんだ。
サムソン 俺は一旦かっとなったら手が先に出るって言ってんだ。
グレゴリー おっとどっこい。ところが、お前はおいそれとかっとはならねえときた。
サムソン かっとなるさ。モンタギュ一家の犬っころを見たってかっとなる。
グレゴリー かっとなるのは、気が短いってことだな。短いってのは、小さいってことだ。となると、かっとなるってのは、気が小さい、意気地がねえってことじゃねえか。
サムソン ばかいうな。あの家の犬なんかちっとも恐かあねえ。モンタギュー家の連中が束でかかってきたって、相手になってやらあ。
グレゴリー それが意気地なしの証拠だってんだ。弱いやつほど大きなことを言うからな。
サムソン そりゃそうだ。だから女はいつも大きな声を出すってわけだ。よし、モンタギュー家の野郎どもをやっつけたら、次は女たちのほうをひいひい言わしてやらあ。
グレゴリー おいおい、女はこの喧嘩には関係なかろうが。
サムソン 女も男も同じこった。奴らを相手に一つ暴れまくってやるか。それで、野郎どもを片づけたら、こんどは女どもの急所をずぶりとやるまでよ。
グレゴリー 女どもの急所だと?
サムソン そうともよ。女の急所は女の急所。なんなり好きにとってくれ。
グレゴリー 感じる女なら「なんなり好きにして」って言うはずだぞ。
サムソン そうだとも。きっと感じさせてやるさ、おっ立ってる間にな。俺は馬並みって評判なんだぜ。
グレゴリー おや、馬並みとはうまやらしい、いや、うらやましいことだ。さあ、あすこに二人、モンタギュー家の野郎がおいでなすったぞ。あんたの抜き身の程を見せてやれ。
サムソン よし準備はできた。だから、さあ、お前行け。俺が後ろについているぞ。
グレゴリー なんだって? お前、ずらかるっていうのか。
サムソン 俺のことなら心配いらん。
グレゴリー 馬鹿言え。お前のことなぞ心配しとらん。
サムソン 言っとくが、法律を味方にしたけれゃ、こっちから先に手出ししちゃならねぇぞ。
グレゴリー 俺は通りすがりに奴らにシカトしてやる。あとは相手の機嫌がいいかどうかだ。
サムソン そうじゃねえ。ここは相手に度胸があるかどうかだ。俺は奴らに向かって親指を咬んでやる。これで黙ってたら、奴らの恥だ。
シェークスピア作『ロミオとジュリエット』冒頭より
※翻訳は出版社名のないものは全て私訳である
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