世間のない人たちが巷に増えているので、恥知らずが蔓延するようになってきた。なぜならば恥とは、世間体に基づく概念だからである。かつて世間には人の行動を規定するという役目があった。「お天道様に申し分けない」とか「世間体が悪い」といった言葉に示されているように、世間が歯止めになって突拍子もない行動をとることを抑制してきたのである。ある意味で世間は怖い存在であったのだ。特に、世間は社会生活を営む上で重要な役割を果たすものなので、世間で通用しないということがすなわち、人間として通用しないことを意味していたのである。
ところが、最近の学生たちに自分の世間の絵を書かせると実に狭いことが多い。大多数のものが世間としてあげるのが、せいぜい家族、友達、クラブの仲間、知り合いの教員程度である。つまり、他人が存在しないのである。他人が存在しないことの問題点は、誰もが知り合いであるという温室育ちの人間が出来上がることである。他人の存在が無い世間では、伝統であるとか因習とかが文化や社会に果たしてきた社会的な基準が揺らいでしまうのである。すなわち良識はもとより常識さえ存在しない、自己中心的な社会が存在しているのである。常識とは世間の基準であり、良識とは世間の知恵である。人とは本来、常識や良識に照らして自分自身の物差しを磨いて価値判断の基準として利用していくものである。そこで初めて社会生活を営む価値のある人間になるのである。人間という字は人の間と書く。すなわち他人の存在があることが前提である。なぜならば、少なくと一人の他者が存在しなければ、人と人の間に間が存在しないからだ。したがって、他人の存在する社会で生きていくことができなければ、その人は社会の中での存在感を欠くことになるのである。つまり人間ではなくなってしまうのである。
以上のように世間の無い人は、恥の概念を理解することが難しい。自分だけの身勝手な常識に基づいて自分だけの基準で、お気軽に行動することに疑問すらもたないのである。「恥知らずに恥は無いのである。」当然のことと思っていることがかけ離れているのである。これでは、お互いに理解し合うのは困難となる。そこで、今こそ世間を復活させなければならないのである.世間知らずは外から自分を見ない。外から自分を見ないと自分のやっていることが分からないのである。世間が本来の機能を取り戻せば日本はまだまだ捨てたものではない。手遅れにならないようにお互いに頑張りたいものである。
プライドとは心理学的に見れば恥と密接に結びついた概念である。プライドとは言い換えれば一種の「やせ我慢」である。人は何故やせ我慢をするのであろうか。我慢とは、本来、誰しもがあまりやりたくないものである。実際は自分勝手に我慢もしないで行動することは、恥ずかしいから我慢するのである。そこには、伝統とか因習、常識、良識などの織り成す躾の世界があったからである。これらの影響下でプライドの物差しが磨かれるのである。したがって前節で述べたとおり世間のない人たちにはプライドもなくなってしまうので注意が必要となる。
プライドと似た概念に自信がある。よく如何したら自信が持てるかと聞かれることがある。その時、私は次のように答えることが多い。「自信とは、努力の積み重ねというがそれは、全てにおいて正しいわけではない。自信とは、努力して成し遂げたことの積み重ねなのである。知ったかぶりとか、中途半端に何かをやったつもりになっても絶対に自信はつかないのだ。」
現在、未曾有の就職難の時代となっている。その中で自分をアピールして職を得なければならないのである。その時、あなたたちは何を持って自分をアピールするのだろうか。私は「本物は負けない」という言葉が好きである。何かひとつでも本物であれば、その人は負けないのである。自分の中での拘りを捨てずに本物が通じるような世の中が来たのだと考えれば、あながち就職難も悪いことではないような気もする。
今のところ我々人間が経験できることは、消せない過去と今だけである。過去は消せないので、反省することは必要だが何時までも後悔していても始まらない。しっかりと反省してこれからに備えるべきだと思う。過去ばかりを気にしていたら何にもならないのである。行動しなければならないのだ。動かなければ次は無いのだ。私は、行動しない人は信頼しないことにしている。実行力無くして人の信頼は得られない。悩むべきときにしっかりと悩んだら後は行動することだ。悩んでも仕方が無いことは悩まないことが肝心である。自分から行動することは非常に楽しいことである。自分から自発的に行動をすれば、必ず本物になれると考えて生きていきたいものである。