「善良な『市民』」をめぐるML上での議論


10/20 11:50  山本薫子

>賛同者の中から、以下のようなご指摘をいただいております。
>
>*「善良な「市民」として」という表現は、「善良でない」人を排除することにつながらないでしょうか。
>
>*「日本での健全な生活を送る」は、最初の方にある「正常な生活を続ける」か単に「日本での生活を続ける」というで>はよくないのでしょうか。「健全な生活」というのが何をさすのかわかりにくいですし、「在留特別許可」が出れば「健>全」になるというようにとられかねないと思います。
>
>*超過滞在外国人に対する在留特別許可は、彼・彼女らに認められるべき当然の人権だと思います。

上のご意見には私も賛成です。今回のことに限らず、これまでの(支援団体を中心とする)在留特別許可が認められるべきだとする主張の中には必ずといっていいほど「善良性」だとか「健全な住民(市民)」といったフレーズが出て
きていると思います。これは支援者の方々からすれば、本心からそう思ってというよりは対外的な戦略の1つという感じだと思うのですが、これが「声明」のようなかたちでマスコミを通して世論に出てしまうことで、一般に与える影響(悪影響?)という意味ではどうでしょうか。結局、許可対象とする外国人の「カテゴリー」(のようなもの)に恣意性を与えてしまっているのではないかという気がします。

これと関連するのですが、先日の記者会見で、国会議員の中には「密入国して犯罪を犯す外国人もいるけれど、そうした<悪い>外国人もいるけれどそうした人々とここにいる彼らは全然違う」と言って彼らの「善良性」を主張し、それゆえに在留特別が認められるべきとしていた人がいました。

APFSはじめ支援者がその辺をどういうふうに考えていらっしゃるのかわからないのですが、研究者のグループとしてはそうした点について、実際に彼ら彼女たちが在留特別許可を獲得するための運動のなかの戦略的な部分とのバランスと
いうことでは、どのように考えていけばよいのでしょうか。ご意見などお聞かせいただければ幸いです。



10/20 21:35  五十嵐泰正

さて今回の山本さんのご指摘、非常に重要な問題提起と思い、個人的なコメントをさせていただきたく思います。もちろん、学問的にも実践的にもまったく経験不足の者のコメントですので、みなさまにはいろいろ不適切に思える部分もあろうかと存じますが、その際はまたこのネットワークを通じて、よろしくご指摘下さると幸いです。

「健全な」「正常な」...こうした表現には、確かに僕も引っかかっておりました。ただ、僕の限られた参与観察の経験(北関東の工場で、日系ブラジル人・超過残留のパキスタン人と一緒に、3ヶ月ほど働いたことがあります)とその後の調査の経験を踏まえますと、この場合においては、この表現をあえて使うことには、一定の意味があるように感じております。

@ひとつには、山本さんも指摘していらっしゃるとおりの対外戦略的意味です。

A「悪い外国人」と「善良な外国人」というカテゴリーは、現場での当事者すべてにおいて、今や圧倒的なリアリティとして認識されていること。この現場での当事者とは、外国人を長らく雇用してきて会社の欠かすべからざる戦力として認識してきた経営陣、外国人の同僚をよき先輩・よき友達として人間関係を構築し始めている工場の若い日本人の工員たち、そして、摘発・強制送還に脅えながらも会社や地域に溶け込み、日本社会で生きていくことを切望する「彼ら」自身(こうしたカテゴリー化にも問題があることは認めますが)、その全てを含みます。

僕は自分の調べた工場で、参与観察時にいっしょに働いたパキスタン人が全て摘発・強制送還される、という事態を経験しました。そのとき十条の入管施設で会った「彼ら」が、あるいはそれ以前やその後僕がカラチを訪ねた際に「彼ら」が、強く訴えていたのは、「ほとんどの外人は<まじめないい人>だということをわかってほしい」ということだったのです。「イガラシはわかってるよね、俺たちはあんなイラン人(悲しいことに、彼らの範疇化ではイラン人はドラッグディーラーの代名詞でした)とは違うんだよ」「専務とか工場のみんなは俺たちが、ちゃんと仕事するまじめな外人だ、ってわかってくれるけど、日本の新聞もテレビも、なんかひとり外人が悪いことすると、外人がみんな悪いみたいに書くから、(外人と一緒に仕事してない人は)みんなそう信じちゃう」更には、「入管は蛇頭とか、そういうヤバイ連中は怖いから、俺たちみたいなまじめな外人を簡単に摘発して、ポイントを稼ぐんだ」...といった具合に。

そして、それは日本人の経営者も同じ思いです。彼らは、「外国人の犯罪のニュース」にいつも注目します。そして地元でそうした事件が報じられるたびに、地元の外国人への感情が極端に悪化しないか、いつも心を砕きます。彼ら自身は、外国人の従業員を本当に信頼して仕事を任せるわけなのですが,その事実が、「いい外国人」がいるということが、いまだ日本社会にあまり浸透していないこと、そこをいつも気にしているわけです。若い工員たちは、「犯罪24時とか見てたから、外人っていったらピストル持ってんのかとかビビってたけど、うちの外人さんたちはすごい話せるやつらだよ」
となるわけです。

山本さんのご指摘はもっともだと思います。「悪い外国人」を排除する気持ちと、「善良な外国人」を含めた外国人全体を排除しようとする気持ちは、根本的には連続しているし、全く根は同じ所にあると思います。基本的にはそのどちらも、象徴化された「よき日本の純粋性」を守るための「安全性の装置」から派生している、という意味において。そういった意味では、こういった文脈で「善良な」という言葉を使うことの問題性を、研究者は絶え間なく指摘していくような仕事をしていかなければならないと思います。

ただ、それでもなお、「いい外人」と「悪い外人」という二分法が存在し、(少なくとも現段階では)「いい外人もたくさん日本社会にいて、その中の多くの人たちがさまざまな問題を抱えて日本に住み続けることを切望しているんだよ」と主張することには、それなりの意義があるし多くの「当事者」もそれを望んでいるような気がするのです。「彼ら」自身も、「彼ら」と深く関わる、あるいは関わらざるを得ない日本人も。(もっとも、僕はこのケースの真の当事者、21人の「本当のきもち」をまったく知らずに、こうした発言を類推で行っていることは当然付け加えておかなければなり
ませんが)

僕はむしろ、こうした運動が最終的には知識人や、リベラルな「市民」にとどまらず、「彼ら」と深く関わって生きている中小企業や飲食店の「オジサン・オバサン」や「オニイチャン・オネエチャン」を巻き込んでいくようになったらなあ、個人的には思っております。「彼ら」の強制送還は結局は、工場やひいては地域社会にダメージを与えるもの、あるいは自分たちの友達を突然奪っていくものに過ぎないのだ、ということを「彼ら」と日常的に関わっている人は深く認識しています。そして、「そういうことは俺らより、背広着てふんぞり返ってる大企業の連中がかえってわかってねえんだ」と思って、それをふがいなく感じてもいます。しかしそんな彼らも、外国人の「恐ろしい犯罪」が多発している、というように認識していますし、それをひどく嫌悪してもいます。そうした情況でいきなり、支援する対象をとにかく漠然と「外国人」というようにうたってしまっても、なかなか広範な支持は得られないのではないか、と思うのです。「善良さ」をある程度アピールすることが、重要だと思うのです。

じゃあ、「悪い」外国人には人権がないのか、といわれれば、それはそんな風には僕も思っていません。僕の言っていることは、ある意味段階論的なものなのかもしれないし、単に「一般向けのレトリック」を語っているだけなのかもしれません。しかし、僕の経験から、こうしたリアリティもあるんだ、ということだけはお伝えしておきたくて、メイルさせていただいた次第です。

この文章はまったく僕の経験からの個人的なコメントであり、もちろん山本さん(学会で拝聴した限りですが、寿町のことを調べていらっしゃるのですよね?)含め、みなさまがご研究の中から感じていらっしゃるリアリティは、僕の感じていることとはまったく異なるものであるのかもしれません。そしてこの場合、間違いなく一番大事なのは、この当事者たちのリアリティです。そうしたことを踏まえて、僕のこの生意気なコメントが不適切なもの、と思われた場合には、ぜひともご批判・ご反論いただけたら、と思います。

それでは。この運動のご発展とご成功を、遠くの地でお祈り申し上げております。


10/21 20:15  高 鮮 徽

さて、山本さんからのご指摘ですが、

>超過滞在外国人に対する在留特別許可は、彼・彼女らに認められるべき当然の人権だと思います。

この場合、基本的人権の保障と理念は、区別する必要があります。近代国家の枠組み、法治国家である以上。

「今回のことに限らず、これまでの(支援団体を中心とする)在留特別許可が認められるべきだとする主張の中には必ずといっていいほど「善良性」だとか「健全な住民(市民)」といったフレーズが出てきていると思います。これは支援者の方々からすれば、本心からそう思ってというよりは対外的な戦略の1つという感じだと思うのですが、」

「善良性」や「健全な住民」を強調することは、対外的な戦略だけでなく、支援者の本心ではないでしょうか。もちろん、そうでない理由で支援していることもいるでしょう。

しかし、事例で見ますと、出稼ぎ目的の「不法入国」の在日(ほぼ「特在」がとれないケース)が、「特在」をかちとる大きな要因は、「善良性」や「健全な住民」であったことにあります。ただ、「善良性」や「健全な住民」の立証のみで、とれるわけでは決してありませんが。

すでに、「支援者」を見つけたこと自体が「善良性」を物語っているとも考えられます。

五十嵐さんのご指摘、大変興味深く読みました。私の調査で得た知見を少し紹介します。主に、大阪市生野区の事例で、済州島人(密航者の8割以上を占める)です。

事例では、「雇い主」や「地域住民」が積極的に支援していました。「「彼ら」と深く関わって生きている中小企業や飲食店の「オジサン・オバサン」や「オニイチャン・オネエチャン」を巻き込んでいくようになったらなあ、個人的には思っております。「彼ら」の強制送還は結局は、工場やひいては地域社会にダメージを与えるもの、あるいは自分たちの友達を突然奪っていくものに過ぎないのだ、ということを「彼ら」と日常的に関わっている人は深く認識しています。」

「彼ら」の身近な人々こそが、良き理解者であり、「善良性」を立証しうる人たちで、説得力を持ちます。そして、「彼ら」は、日々の生活・労働をとおして、周囲の人々を巻き込んでいると思います。実際に、「彼ら」への理解を深める必要がある人々は、「知識人や、リベラルな「市民」」の方ではないでしょうか。少なくとも現実的に接点が薄いことだけでも、「彼ら」への理解が、周囲の人々より不利な条件になります。

最後に、「彼ら」と一緒に働く同僚や周囲の人々は、入管に通報をしないだけでも、「彼ら」を(消極的に)応援していると思います。大阪の事例で、入管と掛け合う経営者や嘆願書を書く地域住民(支援者を含む)は、非常に積極的に応援していることだと思います。

ちょっと、議論になっていない感じもしますが、お許し下さい。


1999/10/22 3:24  五十嵐泰正

高先生、有益なコメントをどうもありがとうございます。僕が言いたかったことを、更にクリアに言い換えていただいたように思います。

>「「彼ら」と深く関わって生きている中小企業や飲食店の「オジサン・オバサン」や「オニイチャン・オネエチャン」を>巻き込んでいくようになったらなあ、個人的には思っております。「彼ら」の強制送還は結局は、工場やひいては地域社>会にダメージを与えるもの、あるいは自分たちの友達を突然奪っていくものに過ぎないのだ、ということを「彼ら」と日>常的に関わっている人は深く認識しています。」
>
>「彼ら」の身近な人々こそが、良き理解者であり、「善良性」を立証しうる人たちで、説得力を持ちます。そして、「彼>ら」は、日々の生活・労働をとおして、周囲の人々を巻き込んでいると思います。実際に、「彼ら」への理解を深める必>要がある人々は、「知識人や、リベラルな「市民」」の方ではないでしょうか。

完全に同意します。われわれ「知識人や、リベラルな「市民」」のほうは、長年この問題に日々の生活の中で、逃げられない現実として取り組み、心を痛めてきた人々が、全国のあちらこちらに散らばっていることを、強く認識すべきです。
僕の働いていた工場でも、全ての同僚は「彼ら」を消極的に「応援」していた、といっていいでしょうし、「彼ら」がつかまったときには、若い日本人とブラジル人が大挙して仕事を休んで北関東から十条に押し寄せ、あとで専務にお目玉を食らう(その「叱り方」も、「おまえらの気持ちはとても嬉しいけど、まとめて行くことはないだろう、少しは生産の事を考えてくれ」というようなものでした)、といった情況さえありました。

僕がただひとつ危惧するのは、こうした運動には、このように全国に強く深く賛同してくれる人たちがいるのに違いないのに、その人たちとは遊離した論理で「知識人やリベラルな「市民」」のほうの運動が展開してしまうことです。彼らはいわゆる「市民運動」に関心を持つようなタイプではないような気がしますし、むしろ「人権」とか「市民」といった言葉は苦手な部類に属するでしょう。(まあ、これも一般化すると偏見に近いかもしれませんが、正直な実感です)そんな中で、こうした運動が「典型的な知識人の主導する市民運動」として展開し、「またこうるさいモラリストの人権屋か、俺たちには関係ないね」と彼らに認識されて、本当にこの問題に強く思い入れのある人たちが、自分とは関係のない世界
のもの、と思ってしまうことを、なんとなく危惧しているのです。

もっとも、僕には「市民運動」のような経験がないので、いらぬ心配をしているだけなのかも知れません。高先生の、

>大阪の事例で、入管と掛け合う経営者や嘆願書を書く地域住民(支援者を含む)は、非常に積極的に応援していることだ>と思います。

といったような情況をお聞きしますと、この危惧がいい意味で裏切られ、遥かにいい方向に展開し始めているような気がして、非常に嬉しく思います。


1999/10/22 21:44  近藤敦

まず善良な「市民」という言葉をみて法務官僚や「研究者」がどう受けとるかという観点からの私見を書くことにします。

もともと、声明文が誰に対して書かれているかという点で、法務官僚や「研究者」に向けて書かれていることが、非正規滞在者やその回りの人々の受け取り方、「研究者」の線引きの問題を招いていることを興味深く読んでおります。まず、私は「法務官僚」「研究者」いわゆる「一般の人」ないし「世論」の受け取り方のうち、「法務官僚」の受け取り方を推測してみようかと思います。また、非正規滞在者の正規化の根拠付けの基礎作業にも少し言及しようかと思いますので、いろいろなご批判を受けることを歓迎いたします。

法務官僚が「善良な」という言葉をみるとき、国籍法5条1項3号にある「帰化」の要件としての「素行が善良であること」を念頭に置くかもしれません。というのも、私自身はみたことがありませんが、おそらく永住許可に関する通達か何かにも同様の規定がありそうですし、在留特別許可の判断材料としても、類似の発想は予想されます。

「素行が善良」というのは、道徳的な意味ではなく、法律的には「法律を守っている」ということをさすように限定的な意味で理解すべきと私は考えます。おそらく、刑罰を課されたことがあるか、納税の義務を果たしているかがその主要な判断要素となるでしょう。人によって異なる恣意的な要素を多分にもつ道徳的な判断はここでは避けるべきでしょう。在留特別許可は、入管法違反をのぞく、その他の犯罪を犯していないとか納税義務を果たしているという意味で「善良な」という言葉を使うものと法務官僚は理解できるように思います。

さて、「市民」という言葉は、おそらく法務官僚には、理解できないでしょう。研究者が好んで用いる言葉ですが、その内容はさまざまです。私見の着眼点は、すでに『外国人参政権と国籍』159頁以下の中で書いていますが、three gate modelによる説明可能性を検討しています。

外国人が入国後、3つの関門が存在しているという図式です。第1に、正規の外国人のステイタス(「外国人市民」のステイタスと言い換えるべきか?)にとっての入国管理の入り口があり、非正規滞在者にとっては「正規化」(在留特別許可)の手続がある。第2に、永住市民(デニズン)のステイタスにとっての永住権(永住許可)の手続がある。第3に、国民にとっての帰化の手続がある。

いわば、「外国人市民」(正規化)、「永住市民」(永住市民化)、国民(帰化)の3つのステイタスおよび関門のどこに位置しどこを通過したかで、そのステイタスに伴う権利状況が違っているように説明することができそうです。(もちろん、正規化により一足飛びに永住市民となる国もあります)。3つの承認ルールの異同を論ずることが、正規化の理論の一助となるようにも思われます。

声明によれば、非正規滞在者をカッコつきの「市民」としていますが、「市民」として承認して欲しいという意思を読み取ることができます。何らかの社会構成員に対して「市民」という言葉を使うとき、その市民としての承認のルールをどのように定めるかは、その社会や国家が独自に定めるものと、研究者が独自に規定するものとが多様に存在しています。名称や承認のルールを議論することと、、国籍法や入管法の規定や実務を検討することは、車の両輪のような関係であり、おそらくこの種の議論がもっと必要なのだと思います。その中で、「善良な」ないし「法律遵守義務」という要素が要るのか、要らないのかを検討することになると思います。

また、「人権」と「市民権」の議論も必要です。非正規滞在者もまぎれもなく「人間であることにより当然にもつ権利」としての「人権」をもっています(ただし、憲法学がいう基本的人権の多くの部分が制限されており、言葉の本来的な意味での人権がもっと広がることを望んでおります)。一方、非正規滞在者は、マーシャルがいう市民的権利のうち、裁判を受ける権利など保障されています(具体的にどの権利が保障され、どの権利が保障されていないかの実態の報告をどなたかに期待しております)。しかし、居住権などの権利、社会的権利、政治的権利は保障されておらず、社会的な構成員としての承認が正規になされていないことから、「市民権」の多くの部分が欠落しているという意味で、「市民」という名称で規定することができるかどうかは悩んでおります。正規化されてはじめて一定のレベルでの「市民」となると考え
るのか、一定期間の居住、市場および社会への参加実態から「市民」という名称を与えるのか。市民権は、メンバーシップですから、仲間選びと排除の両方の側面をもちます。「市民」と呼んだ方が仲間として、権利主体として認識しやすいことはわかります。職場や地域で積極ないし消極的に承認されているとして、「市民」という言葉を社会学的に使うことができるかどうか検討することを期待します。法制度上の承認ルールがある場合に法学上の「市民」を使うことが私のすべきことかなとも考えています。(それであっても、永住市民という言葉が、法務官僚においても認知される時期がいつくるのか。おそらく、地方選挙権の改正が国会で通過すれば、1歩近づくかも知れません。その先に、外国人市民という用語の認知の展望もいずれみえてくるかも知れません)。もっとも、排除される者との比較を通じて市民ないし市民権が
確定される機能、「線引き」機能が市民権論の問題点であり、人権論を同時に念頭に置いた議論が必要です。「人権」ならば、もちろん「善良性」などの要素は不要だと思います。