ラスベガス・ヒストリー
何世紀もの間、ネバダ(米国西部の州)には、パイウート族・ショショーニ族・ワシュー族という(3つの)部族しか住んでいなかった。白人が将来ネバダ州となるこの土地にやって来たのは1826年のことだった。ラスベガスという地名は、メキシコの偵察兵であるラファエル・リベラが1829年につけた。スペイン語でそれ(ラスベガス)は“草地・草原・湿地”を意味している。1831年から1848年にかけて、ラスベガス周辺の水源地は、ロサンゼルスまで幌馬車で旅する人の、旧スペイン街道での休憩場所であった。
1844年、探検家であるジョン・C・フレモントがラスベガスの大きな水源地のそばでキャンプをした。2〜3年後、(アメリカの)国会は、月に1回の郵便ルートにし、1855年には30人のモルモン教の入植者達が布教所兼交易所を建設する為にラスベガスに来た。(修理されたこの交易所の遺跡は未だ繁華街の少し北にあり、ネバダ州で最も古い建物となっている。) いくつもの困難があって、その交易所はちょうど3年後に見捨てられた。1860年代初期に、(鉱山の)試掘者や鉱夫が運試しにこの地にやって来た。これらの人々のうちの1人であるオクタビアス・ディケイター・ガスが、そのモルモン教の交易所の遺跡の近くに、640エーカーのラスベガス牧場を建設した。
1905年、ユニオンパシフィック鉄道の列車がラスベガスを通ることになった。その駅は、(プラザホテルの後ろにある)フレモント通りの先端に位置していた。そして未だにアムトラック(全米鉄道旅客公社)の駅として役立っている。(ガーシーズとクラークの間の2番通りから4番通りの)ハウスワーカーに使われていた、いくつかの古い鉄道小屋は、いまだに繁華街で見ることができる。鉄道が敷設されてからラスベガスの街の成長が続いた。その鉄道会社が、上院議員ウィリアム・J・クラークのラスベガスの敷地を競売し、この街の復興が始まった。1911年に、ラスベガスは合併された。その地域に加えて、初期の賭博場がオープンすると、赤線地帯(売春街)が、オグデン街とステワート街の間のセカンドストリート地域に、急に出来上がった。ミッション様式が、初期のラスベガスの商業ビルにとって、最も人気のあり、建築上の影響力を持った。Sメイン通り307のビクトリーホテルは現存している最も古い繁華街のホテルであり、良い例である。1906年にネバダホテルがフレモント通り1にオープンした。1931年にそのホテルは拡大され、サル・セイゲフと改名された。1955年までには、ゴールデン・ゲート・カジノがその1階で営業を始めていた。
ネバダ州南部はボールダーダム(今はフーバーダムと呼ばれている)が作られていた1930年代初期、別の発達ブームを経験した。これ(ダム建設事業)はたくさんの労働者をラスベガスへ連れて来た。そして、ボールダーシティという町ができた。簡単に離婚ができる法律があり、ギャンブル(1931年に合法化された)もまた初期の人口増加に貢献した。1930年代と40年代に繁華街の2〜3マイル南でストリップの開発が進行した。ここに建てられた初期のホテルは、バグジー・シーゲルズ・フラミンゴホテル、ザ・ラスト・フロンティアホテル、サンダーバードホテル、エル・ランチョ・ベガスホテルとダウンタウンのザ・エル・コルテスホテルである。
1950年代までに、ラスベガスは真の保養地となった。この戦後の時代は魅力に満ちた時であり、今とは違ってカジノやショーを見に来る人々は正装していた。ラスベガスは花形役者や(ナイトクラブなどの)コーラスガールを含むスター達がずらりと並ぶ娯楽で知られた。1960年代は、“ラット・パック”がラスベガスの娯楽を占めた。ホテル兼カジノは最も魅惑的な飾り付けやけばけばしさを競い始めた。1955年に、人種差別をしない、ラスベガスで最初のホテル、ザ・ムーラン・ルージュがオープンした。
1960年代と70年代には、MGMグランドホテル(今はバリーズホテル)やシーザーズ・パレスを含めた巨大ホテルが次々に開業した。1980年代と90年代の20年間は、スティーブ・ワイン氏と“家族的保養所”のような建物の造営が盛んだった。“テーマ・カジノ”の建造は今も続いていて、エクスカリバー、ミラージ、(ニュー)MGM、ニューヨークニューヨーク、トレジャーアイランドがそうである。1995年にはクラーク郡の人口は100万の大台に達し、現時点では国内最速の成長都市である。
参考
:ラスベガス大全など
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