嘉永元年(1848年)幕府は佐久間象山に洋式野戦砲を作らせ、品川に砲台を作らせるなど当時国防多端の折柄鉄砲の需要が急増し、その当時かんざし屋刀のツバの仕上げ等のかざり職人が鉄砲鍛治となり、さらに転じてその一部の人々が製図器械を作るようになった。そのあと鉄砲鍛治などから製図器械に転じた者のほかに、明治の中頃からは医療器械の外科用器具職から転じた者、あるいは造兵所や砲兵所からの転職者から製図器械を製作する一派を開いたものもあった。
江州日野の生まれで、鉄砲鍛冶の和田熊吉の次男、和田真一郎が明治2年(1869年)に初めて仏蘭西式のコンパスを作った。これが日本での洋式文廻しや烏口など即ち製図器械製造の元祖である。次に徳川藩の鉄砲鍛冶の山崎鉄五郎、御玉池の大熊某の三人が明治の初期における製図器械の製造家である。続いて山崎五郎の姻籍、関谷弥助がコンパスを作るようになった。その後、大熊某は業績振るわず、当時業界から脱落したため、和田、山崎、関谷を三派と称え、互いに連絡を保って親しく往来していた。そしてその当時、隆盛を極めたものだった。
明治8年(1875年)銀座で時計や測量器械を売っていた玉屋の下請けで時計鎖を作っていたかざり職人の沢田金太郎は船来品を見本として仏式コンパスを独学で作り始めた。
その後、横須賀海軍工所から転職して比例コンパスを専門に作り始めた斉藤三郎が一派を興し、医療器械職からスプリングコンパスの製造に転向した石井留吉が小石川砲兵所の職工から独立してコンパスを作り始めた。
杉崎清三郎一派が一時隆盛を極めた。その後、ものさし製造家藤山捨吉が製造器械を各派から集め、大量的に製図器械の製造を始めたが、工員の技術指導者は上記の流れを汲む人々であった。材料は始めはみんな打物であったが烏口とスプリングを除くその他の製図器械の材料は明治18年(1885)頃、和田貞一郎先生の指導により川出竹松という鋳物師が鋳物を作り始めた。大正5年渡辺寛が、現在のD式という独逸のリヒテル型を国産化した時に、始めて洋白の板と棒を使い始めた。現在は仏式、英式、D式などはいずれも一部の製品を除いてほとんど鋳物である。
〜日本製図器械工業史の一部より〜