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個性っていったいなんだろう?今年の教員の採用試験の面接でこせいについてきかれたのだが全く的を得ない回答しかできなかった。
それからいろいろ考えたのだが、個性っていうのは、そのひとそれぞれが持つ特徴なのだと思う、いいところも悪いところもひっくつるめてその人の
その人らしいところである。
人が生きていくとき、集団で生活を行うときは、その個性をうまく利用しているんだと思う。少なくともこれほど科学が発達する前はそうであったんだと思う。
誰しも、どこか他の人より得意とするところや、好む物がある。例えば、A,B,Cという3人がいたとするとAという人は料理が得意で他の2人はあまりうまくない
Bという人は物を作るのが得意で他の2人はあまりうまくない、Cという人は料理も物を作るのもあんまり得意ではないんだけど人を笑わせたり
楽器を上手に弾くことができる。この3人が一つの社会を作るとすると一人一人ではたりない物をお互いが協力すれば補いあうことが
できる。もしかするとお互いに得意な事を教えあって、みんなで分担して一つの仕事をすることも出来るかもしれない。
小さな社会を例にして個性を考えてみたけど、個性を尊重するとか相手のいいところを受け入れるとか相手を認めるというのは、
機械やコンピュータが発達する前では当たり前だったんじゃなかと思う。そうしなければ生活自体ができなかったんだから。
個性の尊重と助け合いが表裏一体となっていたんだろうと思う。
今は、ちがってきていると思う。科学は、客観制を重視するそれは、誰がやっても同じ結果が出るような物をを理論や機械に求める。
同じ機械をつくかって、マニュアル道理にすれば誰でも同じ物が作れる。大した技術者じゃなくても、資格なんてなくても。
けっこういい物が出来てしまう。おかげで僕みたいなコンピュータにうとい人間でもホームページが簡単に出来るのだが。
仕事にしても、誰でも出来ることを、たまたま自分がそこにいたから、たまたま、この会社のこの部署に入ったからやらされてるだけで
自分じゃなければならない理由はないと思う人も多いんじゃないんだろうか。そうなってくると個性もなにもあった物ではない。やる気も失せるだろう。
全てが、システマティックに管理され、コンピュータ化、オートメーション化されその中で人というのは、機械のはぐるまとしての
役割があまりに大きくなってしまってきている。そうなると個性はじゃまな存在でしかないだろう。
自分が個性を持とうとするとそのために自分が苦しまなくてはならなくなる。ただ個性のない自分がそこに存在する意義はみえなくなる。
自分は生きてるって言えるのかわからなくなる、ひいてはいなくなってしまおうという気持ちも沸いてくるだろう。
自分を必要としているところにいこうとする人もいるだろう。それさえみつけられない人は自分の存在自体を消してしまうのかもしれない。
個性を生かすということはその人の存在意義を満たす事になのだと思う。
個性を生かす事が難しいからこそ、個性の尊重が叫ばれるのではないかと思う。
ただ、個性を生かすも殺すも最終的には他人でも社会でもない、かいしゃでも家族でもない科学でも何でもない自分の中にその要因は
あることを自覚しておかなくては何も解決していかないと思うのだがどうだろうか?
本を読んでいて、ふと昔のことを思い出した。高校の時のことである。僕は、一応進学校に入った。
周りには頭のいいヤツがいっぱいいた。僕は、落ちこぼれで、成績は後ろから数えた方が遙かに速かった。
それでもI高の生徒なのだ、自分という人間を学校という入れ物で判断されているようにそのころはよく思った。
なんかそれがつらいというか寂しいというか切ないようでもあった。幼稚園や小学校からの幼なじみも、学校が変わると
ほとんど会うこともない。たかだか、中学の時の成績で高校が振り分けられ、これからの将来も境遇も変わってしまう
ようなそんな錯覚にとらわれてしまっていた。職業に貴賤はないしどんな仕事についてもやりがいがあってそれなりのお金がもらえれば
いいとは思うのだが、なんか高校のレベルが人の階級というか身分というかそんなものを決めてしまってるように思えて
たまたま、この高校に入った、頭も悪い自分がここにいるのがなんか絶えられなくつらいと思った。今思えばかなりばかばかしい
ことではあるし、そう思うことの方がエゴのような気もする。でも、そのときは真剣に悩んでいた。人は平等だっていうけど
学歴や仕事でなんか人が差別されているようにすごく感じていた。いい職業につき、幸せな暮らしを送るには、いい高校
に入って、いい大学に行くしかないぐらいに思っていたのかもしれない。だから、たまたまいい高校(?)に入れただけの自分が
本当はすっごく能力があるのに経済的な障害やたまたま運悪く滑った人たちを押しのけてそれなりの職に就き幸せをつかもうとしてる自分がなんか汚らわしい
と思っていた。いま自分で書いていても恥ずかしいぐらいだが、でも、なぜか、そんなことを考えていたことを残しておきたいと思う。
もしかしたら、誰にも今僕が書いたことは分からない、僕にしか分からない感情なのかもしれないけど、こんなに純粋に
物事を考えていた。論理的でも理知的でも理性出来でもなく感情のままに動いていたことを書き留めておきたくなった。
今の自分とは、なんだか別人のような青春まっただ中で何より純粋さを愛した自分を
私のHNはhikaruである。男性とも女性とも分からない方がいろんな人が見に来て
くれるだろうと思ってつけたというのもある。
ただ、この名前は、今まで誰にも呼ばれたことない。
よくよく考えてみると、この名を思いついたのは、教育実習の時のサインからだった
プリントにいろいろと検印を押していたのだが、おっちょこちょいな私は、先生から
お借りしていたはんこをどっかにやってしまった。(つまり、なくしたしまった)
(注)ちゃんと後で見つけて返しましたよ。
で、しょうがないので、赤ペンでサインをして検印代わりにしていたのだ、最初は
けっこうきちんと自分の名字を書いていたつもりなのだが、もともと字の汚い私の
サインはだんだんくずれ、最後の頃には何かいてあるのかわからなくなった
最終日だったと思うが、このサインを見た生徒に「先生、これ名字なん名前なん」
と聞かれそういえば光っていう字に見えないことはないと苦笑した。
もう一度いうが私の本名は「ひかる」ではない。ひかるという音の響きから読者が
どんな姿を想像するのかわからないが、私を見たら、多分想像とは全くちがう
と思われるだろうとおもう。
なにはともあれそれがある面きっかけとなって僕のハンドルネームになった
わけである。
ちょうど1週間前、山口に夜行バスで帰った。慣れないせいか結局岩国に着くまでほとんど寝れなかった。
まあ、たまには、ゆっくり自分の今までのことを振り返ってみるのもいいだろうと自分が大学に入ってから
何をしてきたんだろうとか、いろいろ思いだしていた。その中の一つにバイトのことがあった。
自分では、そんなにいろんな職種を経験してないように思ったのだが親戚の手伝いでペンキ屋をやったり
土木工事の作業もした。ガードマンやイベントのスタッフ、コンビニの店員、宅配もやったなとか思い出してみると
以外といろいろやっていた。僕自身バイトをしてよかったなと思うのは、一つは、
相手の気持ちを考える事が出来るようになったことだと思う。初めてバイトをしたのは、コンビニだった。
ここで書くのも恥ずかしいが、僕は、このバイトをするまで、物を買うという行為に対して、店から何かを「買ってやる」
という感覚を持っていたので、かってやってるんだから、お店(店員)は客の言う事を聞くのが当たり前
とにかく、客は、お店(店員)にどんなわがままでもいっていいぐらいに思っていたのだ。
店員さんが「ありがとうございました。」って言うのは当たり前だがなんでかってやってる客が「ありがとう」って言うんだ
と不思議に思ったことがある。ぐらいだから今思うと本当に恥ずかしい限りである。
それが、自分が店員の立場になって見方がかわった。あるお客さんが持ってきた商品を袋に入れお金をもらい
お釣りを渡したときだ。そのお客さんが「ありがとう」と一言、言ってくれた。これが10代の僕にはすごくうれしくて
そのとき初めて、買ってやるんじゃないんだ、「売ってもらうんだ。」 売ってやるんじゃない
「買ってもらうんだ」 そうおもえるようになった。ちょっとしたことではあるけど少し相手のことを思いやれるだけで
ずいぶん住み易い社会が出来ると思った。自分の事だけ考えているとなんだかぎすぎすして住みにくい
自分の全てを投げ出すのは難しいが、少しだけ相手のことを考えてあげるときっと自分も、他人も気持ちよく一緒に過ごせるんだと思った。
他のバイトのことは、また思いついたら書いてみようと思う。
高校まで剣道をやっていた。ま、いまでも少しは、やっているのだがホントに趣味程度になっている。
「懐が深い」という言葉を剣道で使うことがある。どんな技に対しても動ぜず自分のペースで
試合を運んでいくような剣道だと思うのだが、こういう剣道をするためには、自分がいろんな
技を身につけて行かなくてはならない、剣道と一口に言っても人それぞれ、いろんなタイプが
ある、ひたすら打ちまくってくる人もいるし、じっくり攻めていく人もいる。多彩な技を駆使してくる人
や、一瞬の隙をうまくついてくる人と本当にいろいろだ、そんないろんな相手と剣を交えるわけである。
そのときに、相手のペースに引きずり込まれず自分のペースを保てるだけの度量みたいな物が
必要だ、それは、日頃の稽古によって培われる精神力によるのだと思うのだが、自分の心に
余裕を持たせるためには、どんなことをされても対処できるだけの自信を持たなくてはならない
どっしりとした、気構えをもつためには、激しい動きをともなった稽古をしっかりと積む必要がある
僕の、ホームページもはっきり言って今は、激しく動く稽古をしているようなところがある。
とにかく、使える技を増やそうと、本屋に行っては、HTMLだのJAVAだの本を立ち読みしたり
買ったりしている。本当は、自分の伝えたいことが、伝わればいいんだろうが、今は、伝えたい
ことより、伝え方をいろいろと考えている。そのうち、このページが、ゴッタ煮のような状態になるのだろうが
少しの間、かどうかわからないが、この訳の分からないページを見守っていただけるとありがたい。
まだ、ゼンゼン入門編しか手が着いていないけど、がんばって面白いページにしていこうとおもう。
やっと「竜馬がゆく」を読み終えた。あと100ページぐらいのところで寝ようかと
思ったのだが、寝付けなかった、まあ、眠くなるまで読もうともって本をまた開いた。
そこから、は大政奉還をなしえた竜馬の行動をずっと追ってしまった。暗殺される
と分かってはいるのだが、そんな物騒なところに身を置かず、西郷さんたちの言う
ように、藩邸にいればいいのになどと、竜馬の身を安じながら読んでいた。
結局、竜馬は、私の心配をよそに、人の生き死には天が決める。まだいると思えば
生かしてくれるだけのものと外をほっつき歩き、宿の二階でなくなってしまった。
フィクションがあるとはいえ、なんだかやることはやって、「後は、わしの仕事じゃないきに
、うまくやってつこうせ」と天に駆け上っていったようにも思う。竜馬らしい死に様
なのかもしれないとも思う。司馬氏はこの小説の最後を「時代は旋回している。若者はその扉をその手で押し、
そして未来へ押し開けた。」と結んでいる。竜馬だけではない、若者には、何かの
扉を開く力があるのだと思う。そして、開かなくてはらない扉があるのだと思う。
竜馬のように一国を動かすための扉じゃないにしろ
全力で開かねばならない扉が私の目の前にもあるんだと思う。
やってやろうじゃないの!まだ、青春はおわらない、
去年教養演習という授業をとったのだが、ここでは、助教授の先生と学生と
で学生が選んだいろんなテーマにを討論するのだが、僕は、テーマに理科養育というものを出して
討議をした。自然っていうのは何らかの法則に基づいて動いている。その法則
の上で人間も暮らしているいじょうこどもたちにも自然の法則性を教えていく必
要があると思う。たしかこんなこと発言したように思う。理工学部の人間でけで
の討論なので理科養育が必要ないと考える人はいなかったが、先生が次のようなことを言われた。
「自然の法則って言ってもそれは、人間が勝手に作り出した物で、
自然に元から存在しているワケじゃないんだ。人間が自然を利用するのに
都合がいいように法則を作り上げたそれだけのことだよ。」
3年間物理を勉強してきて、理論をいくらかでも学び、実験をし、理論と現実が
結びついているところを見てきて自然はなんだか機械仕掛けのようになっていて
全てが、型にはまった物だと考え出していた僕には、先生の言われたことは
すごく新鮮であり驚きでもあった。
ちょっと飛躍するが、何で理科を教える必要があるのか?とふと思った。
確かに、日常知っていなければならないこともある。知ってると便利なこともある
ただ、知らなきゃ知らないで暮らしてもいける。そのあと少し考えたのだが答えはでなかった。
教育実習の前またそのことを思い出してちょっとした結論を導いた。
それは、教育という面から考えると教科という物は大したことではなく、方便に
すぎないということだ。人間として得なくてはならないものを得るために方便として使う
にすぎないのだ。多分、いい授業というのは、目先の理論や文化の伝達にのみ終始せず
人間にとって大事な物を教えようとするところから生まれるし。僕の受けた授業でも
未だに心に残っている授業や先生は自分の生き方をどこか考えさせられたもの
のように思う。
もっと自分を磨かねば!![]()
最近の事だ、僕の下宿には、風呂がないので銭湯にゆく、体を流し湯船に
つかった。やたら熱い、江戸っ子は熱い湯が好きらしいが、ここの湯の温度は
44℃か45℃ぐらいだけっこう熱い。それはさておき、自分の体が外で冷やされて
いたせいか、いつもよりも熱く感じる。少しずつ皮膚からじわじわと体の芯まで
温まっていく感覚がある。
この感覚が、ふと小学校のころのことを思い出させてくれた。僕がまだ
小学校の1ねんか2ねんのころである。その日は、瀬戸内では珍しく朝から
雪が降っていた。僕は、手袋もせず1キロ半の道のりを歩いて学校に行き
そして帰ってくるのだが、行きは登校班でみんなと一緒に話しながら行った
せいかさほど寒さは感じなかった。問題は帰りである。めちゃくちゃ寒い
手は凍えて、痛くて、一人で帰るその道のりはいつもの道のりよりもうん
と長く感じる。
家につく頃には、もう、手の感覚はなくなっていた。
庭にはいると、母親が出てきて手を握って温めてくれた。それから、台所
へつれていき温かいお湯を洗面器にいれ手をその中にひたしてくれた。
少しぬるめのそのお湯はじわじわと僕の手の感覚を取り戻してくれた。
さっきまで自分の手とは思えないほど麻痺していたこの手が元の手に戻った。
母の手の体温とこのお湯の温度が僕の心に残っている。
学校は、4年になってからそんなに授業がなく、卒研もそんなにハードなところ
でもないので、けっこう時間がとれる、だからというわけでもないのだが、去年から
読み出して、途中で忘れていた本をまた読み出した。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
である。昨日薩長連合のところまで読んだのだが、この本に出てくる志士達という
のは、本当に「熱い」フィクションもあるとは思うのだがそれにしても自分というもの
を捨てて日本という国のために命を投げ出す彼らの魂というのだろうか、それに
魅せられてしまう。大事を成すには私欲があってはならないのだと竜馬や西郷を
見ていると感じる。その私欲なき熱き思いに彼らの回りの人々は魅せられ、ついて
いったのだろうと思う。
ふと、自分を振り返ると、そこには自分の事さえままならぬものがいる。
己の事ばかりに囚われていては、回りの物も見えず、人の言葉も
入ってこない、結局、何もなす事が出来ないではないかとよく思うのだが、まだ
自分には、自分の事だけで精一杯で回りのことなど考える余裕もないと突き放す。
天下を枕に野垂れ死にしても一点の悔い無き志士達と比べるべくもないのだが
なんとちっぽけな人間だろうと思う。
自分を捨てることが出来たらなんと楽だろう。なんと自然な生き方が出来るだろう
と思う。多分これが自然体という物なのだろう。「自然体」これが僕の一生の課題
なのだろうと思う。
今日、久しぶりにある友達から電話がかかった。
彼は、今年東京都の教員試験に受かったのだそうだが、名簿に登載されても
東京都いうところは、たまに、学校に配属されないことがあるのだそうだ。
本人は、今年の採用試験で受かるとは思っていなかったらしく、2次試験の
時に出さなくてはいけない健康診断票を作ってもらうのに1万円かかるので
2次受けるのをやめようかと思ったこともあったらしい。
ま、落ちても大学院の推薦をもらっていたらしいのでそのへんは気楽だったの
かもしれないのだが、
で、そんな彼が、今年は、いつもの年より東京都は多く採用しているからもし
かしたら、自分まで配属の学校が回ってこないかもしれない、ってなことを言っ
てきたのだ、内定はもらって、大学院の推薦は蹴ったものの肝心の学校が決まら
なかったらたまらないと、かなり心配しているようだ、他にも、ホントにこのまま
教員になっていいのかとかいろいろ心配の種はあるのだろう。もしかすると、
配属のことよりもこっちの心配の方が大きいのかもしれない、既婚者のはなし
によれば、結婚する前というのはけっこう精神状態が不安定になるのだそうだ
俺、一生この人とうまくやってけるのかなあとかこの人でいいのかとか、考えて
しまう物らしい。彼の場合もそれと似たところがあるのかもしれない。
彼と話しながら、試験に落ちた自分が、受かった人を励ましていることになん
だか、不思議な、というか、おかしさを覚えた、彼も、気をつかってくれているの
だと思うが、人を励ましながらいつの間にか自分も少し元気になっていくのを感
じた。友達というのは、ありがたい物だと思う。何かあったときに、いや、何か
なくても、お互いに勇気付け、励まし合って、つまんないことで落ち込んでも、
話しただけでなんか、楽になって、またもとの元気を取り戻す。相手を励ましな
自分を励ましているのだろう。
少しは、誰かに必要とされてる自分にほっとしながら
笑ってはなせるために
人生はね、
きっと、、、
苦労しないことなんてない
後悔しないことなんてない
でもね、
いつかそのこと
を笑ってはなせるようになれば
それで
チャラ
ある意味
簡単だよね、
楽しい
人生って、、、
きっとさ
苦労も
後悔も、、、
喜びも
楽しいってことも、、、
みんな
おんなじもので
できているから
なんだよね。
8月13日採用試験の不合格通知がきた。
それから、1月以上たとうとしてる。
今は、来年の試験に向けて1から勉強し直しているところだ
未来は見えてこない、見えないから不安で、でも見えないから
希望も持てる気がする。
今は、前が見えず、本当に自分の選んだ選択が
これでいいのか分からないでいる。
はっきり言って 「つらい」
でも、こんなことを思っていたこともいつか笑いとばせる日が来る
そう、信じて
また、頑張ろう
木のこと
フツーの1本の木下で、
生活している命は、微生物とか含めると、
実は、ものすごい数で、、、
みんな
この木の恵みを目当てに集まってきて、、、
それが結果的に木に恵みを与えて
木は、さらにしげって、、、
でも中にはやっぱり、恵みをもらうだけで、
さっぱり返してくれないヤツだって、たくさんいるんだけど、、、
木はそーゆーヤツもひっくるめて、恵み恵まれ
自分の下に集まってくるたくさんの命と自分とを
育てていって、、、
木に集まってくる生き物って確かにいいことするヤツ
ばっかりじゃない。
木に穴をあけたり、巣を作ったり、中には殺し合ったりするヤツもいる。
それが、いいことか悪いことかじゃなくて、、、
きっとその生き物が幸せに生きるために、
何か知らないけど必要なことだと思う。
だから木は、いい人も悪い人も育てるんじゃないかな
そして、みんなもそういう悪い人がいてもやっぱ、なにか知らないけど、
集まってきちゃう
人は、好むと好まざるにかかわらず社会的な存在
なのだそうだ、いろんな人の集合体としての
社会の中で、その中で生きている、この社会という
木は、多くの人に恵みを与えてくれるのだろうか
社会は、人だという、出来ることなら、お互いが
お互いの幸せのために生きることが出来たら
この木は恵みの絶えない、豊かで、幸せで
なんだか楽しくて、みんなが安らげる場所になるんじゃないだろうか。
それは、ただの夢なのか、理想なのか、
たとえ、ゆめのようなことでも少しずつ変わっていける
努力をしていこう、せめて僕の心に大きな木が出来るように頑張ってみよう。