
| オウム真理教の問題などを見るにつけ、今の若い人たちは享楽的だと言われながらも、人生の目的や生きがいなどについて、真剣に考えて模索している人たちが多いと思う。 しかし、そういった疑問に答えてくれる大人たちが周りにいない結果、オウム真理教や幸福の科学などの新宗教・新々宗教に走ってしまうということになっていないだろうか? このホームページでは、私自身の考えや意見も表明するつもりであるが、訪れてくださった方たちの意見も傾聴したいと思う。 さらに突っ込んだ内容で、私の問題意識を知っていただくためには、このページの最下段にリンクが設定してある、私の「日記帳」に目を通してみて頂きたい。 その上で、ご意見なりご質問のある方は、「自由の広場」のページに設置してある「ゲストブック」に遠慮なく書き込んで頂きたいと思う。 |
第一は、「生の起源」または「生の根元」を問うもので、分かりやすく表現すれば、「私という存在は一体どこから来たのか?」という疑問である。自分という存在の根源を問うものである。ただ誤解のないように付け加えておくと、これは「種の起源」のように、生物学的あるいは生物考古学的な意味あいで問うものではない。宗教的・哲学的次元で問うものである。したがって、自分の生命は父親の精子と母親の卵子から出てきたというのは、答えにならない。確かに、物質的・生物学的次元においてはその通りであるが、この疑問は、生の根元を問うことにより、結局、生の意味を問うものなのである。
第二は、「死後の生命」を問うもので、「死んだ後、私は一体どこへ行くのか?」
「死後の生といったものは、果たしてあるのか?もしあるとすれば、それは一体どのようなものか?」という疑問である。これもまた、自分が死んでしまった後の、いわば「死体」は、霊柩車に乗せられて火葬場へ行き、灰になるだけ、というのは答えにならない。これも、物質的・肉体的次元ではその通りであって、決して間違ってはいないのであるが、問題は、それ以上のもの、それを超えた次元のものが果たして存在するかどうかということなのである。
さて、最後の第三の疑問であるが、上の2つの疑問が
「私という存在はどこから来て、またどこへ行くのか」
という、対になる質問であるのにたいして、その中間点を捉えて問うものである。つまり、今現にこの地上(地球上)に生きているという現実において、自分は一体何のためにここに存在しているのか、という問いである。「生の目的」はそもそも何か?ということである。
以上のように、自分の生命存在というものがどこからやって来て、ここにいるのかが分からない。また、何のためにここにいるのかも分からない。そして最後には、死んでここ(地上)を去らなければいけないのだが、どこに行くことになっているのかも分からないという、自分自身の生命・人生でありながら、根本的なことが何も分からないという、ないない尽くしである。これは、『聖書』の中のキリストの言葉のように、「風(原語の古代ギリシア語では、この「風」という言葉に「霊」という意味もある)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネ伝第3章8節、日本聖書協会訳)ということにもなるであろう。また、日本における最大の仏教者のひとりである弘法大師空海は、次のように表現している。「三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」(『秘蔵宝鑰』序文) そして、この人生上の疑問を、同様のパターンで世界(宇宙)全体にあてはめれば、そのままで世界全体に対する、最も根本的な「存在論」的問いということになる。つまり、世界はどこから来たか、世界は一体何のために存在するのか・・といった問いである。 |
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