日本の国技大相撲の起源
日本の相撲の歴史は、神代からあったとして、建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方主神(たけみなかたぬしかみ)が出雲の伊那佐の小浜で『力くらべ』したという『古事記』にみえる伝承から語り始めた。
それは互いに手を取り合い、投げあう力くらべであった。しかし、神代の物語は、歴史上の事実ではない。ただ、4つに組むようなことがあったのかどうかは今の所分かっていないようです。力くらべをするということがあったと言える。としか言えないようです。
『日本書紀』に当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿ね(のみのすくね)の相撲の話がある。この話を相撲の起源とされるのが一般的らしい。今日の力士も両国の宿ね神社を崇敬するのみならず、協会もこの神社の管理について世話をしている。
当時の日本人にとって、相撲は七夕を中心にしたところの行事として、古代では重んじていたそうです。王朝時代の節会相撲(せちえずもう)も、とくに奈良時代には七月七日ごろに行った例があったそうです。その当時どうしてこのころそのようなことがあったのか、すでに説明ができなくなっていたそうです。そのため奈良時代の人々は、実は垂仁天皇七年の七夕の際に当麻蹴速と野見宿ねが相撲をしたからだという話を作って、いかにも因縁があるかのように説いていったそうです。その結果、奈良時代にできた『日本書紀』に収められたそうです。
この話をどのような人たちが伝承していったと言えば、おそらく出雲に本拠地を持っていた土師部(はじべ)の人たちであったそうです。垂仁天皇の日本書紀でも野見宿ねは出雲のくにからめしだされたようになっている当麻蹴速は大和にいて、非常に力を誇り、凌ぐものがないと言ってごう慢になり、彼のことを恐れていたうわさが天皇の下に伝わって、対抗するものとして宿ねを呼び出したことになっている。その宿ねが呼び出された日が七月七日であり、出雲に宿ねを迎えに行ってから大和に彼が現れるのも七月七日であった。
節会相撲について
朝廷で行われる相撲の節が相撲節会(すまいのせちえ)という名称を与えられ(内裏式)の中にすもうの式として制定されたのは、このころより80年後の嵯峨天皇の弘仁12年(821)である。そして、醍醐天皇の延喜5年(905)に相撲節会は三度節の一つとなった。節とは祝日のことでり、節会とは、節日その他重要な公事のある日に、5位または6位以上の諸臣を朝廷に集めて、天皇が出御して賄った宴会のことである。三度節というのは、正月17日の射礼(じゃらい)『大射とおいわれ宮中の年中行事のひとつで、建礼門に射場をしつらえ、天皇出御のもとに5位以上の諸臣に大的を射させて弓術の技を競わせて宴を賄った儀式のことである。』五月五日の騎射『端午の節句に武徳殿で近衛のものに馬を走らせて的を射させた。後世の流鏑馬の元になったものだと言われている。』そして、7月の相撲の三度節である。
この三度節はどれも、武を練り、体を鍛え、武道的精神を鼓舞した儀式の会であった。その主旨は、宮廷お守護し、国を守衛する兵士を選抜するために行われたもので相撲節会、においては昼間は相撲を楽しみ、夕は宴を催して、『文人に命じて七夕な詩をつくらせた』。七夕の節は文武両道の節らしい。
武家相撲につて
鎌倉時代になると、武士の心身を鍛練する手段のつとして取り入れられるようになった。これが武家相撲の始まりである。当時の戦は弓戦から始まって接近して刀戦となり刀を捨てて組み討ちとなるのでおのずと相撲の技術を習得する必要があった。源頼朝は流鏑馬、競馬(くらべうま)、相撲の3つを奨励していたそうです。
上記の節会相撲、武家相撲で現在の相撲のルールや決まり手が確立していったようです。その後江戸時代に入ってから相撲は華やかな文化の一つになっていきます。ここでは相撲の起源に絞ったため紹介はできません。
