1.私的論文集
発掘調査の成果による新しい知見が果たした役割について
日本の古代史像を構成する際に、遺跡の発掘調査成果や出土文字資料による新しい知見が果たした役割を、
次の2点を基にして考えてみたいと思う。
まず第1にこれまでに築かれてきた歴史像により深みを与えてきたという点である。これについては、
地方における発掘成果が挙げられる。
例えば、私の住む土佐山田町のヒビノキ遺跡では土壙墓と呼ばれる埋葬遺構が発掘されている。この遺構には、
財物を副葬していた豪族の墓とは異なって、須恵器の破片や鉄器の一部など簡単なものが副葬されていた。
この点から、古墳時代の豪族と庶民の貧富の差を知ることができ、さらに、大和朝廷が大化の改新の一つとして身分ごとの
埋葬方法を定めた薄葬令を確認することができる(注1)。
また、長野の屋代遺跡で出土した木簡から、7世紀後半に地方豪族が一生懸命に儒教や漢字文化を見に付けることで
律令国家の地方組織を形成し、中央で進んでいた律令国家形成の動きに貢献していた事が明らかになっている。
さらに、山口の長登遺跡での発掘成果も挙げられる。長登遺跡で発掘された銅の分析調査によって、奈良時代に造営された
東大寺の大仏が長登で産出された銅を使って作られたことが判明している。
このように、地方の発掘成果から、中央政府が定めた律令が地方でどのように実行されていたかということや、
律令国家形成の動向、地方の産出物が日本を代表する大仏の造営の際に使用されていたという事実を確認できる点で、
中央政府だけが注目されがちな古代史の歴史像がより深まるのではないかと考えられる。
第2に古代史を研究する人々に新たな疑問を投げかけてきた点である。
これについては推古天皇の陵墓が挙げられる。これまで、推古天皇陵については、大阪にある山田古墳が有力であるとされていたが、
奈良の植山古墳が発掘され、こちらの方が近年では有力説となってきている。
植山古墳の発見は、推古天皇の墓が、奈良の橿原付近から大阪の太子に移されたという歴史書の記述を裏付けるものとされているが、
これまで培ってきた研究成果に対して疑問を投げかけ、新たな知見を要求しているように思われる。
以上の2点から、総体的に考察すると、新しい知見は古代史研究者に対して、歴史の深みを与えてくれると共に、
新しい課題を提供してくれており、歴史の探求への意欲を高めさせる役割を果たしているものと考えられる。
(計 976文字)
<語注>
(注1)『土佐山田町史』、77ページ参考。
<参考文献>
土佐山田町史編纂委員会『土佐山田町史』土佐山田町教育委員会 1979
現代東アジアの政治について
(1)中国の「第一次五ヵ年計画」について
1949年から52年にかけての中国国民経済の回復期の実績を踏まえて、1953年に「第1次5カ年計画」が始まった。
この「第1次5カ年計画」の中心任務はソ連の経験に倣った社会主義工業化と重工業の優先的発展であり、
社会主義への過渡期の総路線と並行して進んだ。
当時の中国では156項目のソ連援助の建設と派遣されたソ連の専門家を受け入れていた。
計画の目標は1957年を待たずに繰り上げて達成され、過渡期の総路線、農業と私営工商業の社会主義的改造と相まって、
新政権の安定・強化をもたらした。
(計 239文字)
(2)中国の「全方位外交」について
天安門事件以降、中国は「内に困難」(事件の後遺症)と、「外に圧力」(欧米諸国による対中経済制裁による孤立)の状態に陥った。
こうした「内に困難」の克服を可能にしたのが「外に圧力」の解消だった。
「全方位外交」とは、中国がこの状況を背景にして、大国との戦略的調整を重点に置いて展開した大国重視の協調外交である。
1990年代後半に入ると、冷戦終結後の「多極化」潮流の中で、経済発展の実績を背景に、中国は自らを大国の一員と位置付け、
ロシア、アメリカ、EU、日本との戦略的なパートナーシップを確立した。
(計 245文字)
(3)中国の「小康社会の全面建設」について
「小康社会の全面建設」とは、中国共産党の掲げた経済発展を最優先課題とする基本方針であり、
最大かつ最重要な目標として「翻両番」(2020年にGDPを2000年の4倍に引き上げ、
総合国力や国際競争力をはっきりとした形で増強するよう努めること)を設定している。
また、この基本方針の延長線上には、建国100周年である2049年前後の「中華民族の復興」がある。
しかし、経済発展を最優先させることで国有企業改革、金融体系改革の遅れや、経済格差の深刻化など、
今後の中国が抱える大きな課題が顕在化してきている。
(計 247文字)
(4)韓国の「維新体制」について
1970年代に入って、中国にアメリカ、日本の首脳が訪問し、朝鮮戦争以来の国際政治構造が再編成された。
これを受けて、韓国、北朝鮮は南北対話を開始して南北共同声明を発すると共に国内体制の強化に着手した。
韓国では、大統領の権限が強化され、重化学工業化が推進された。
韓国の「維新体制」とは、1970年代の韓国において朴正煕大統領が押し進めた、
国際情勢の急激な変化に起因する安全保障上の危機に対処しつつ、それと同時に重化学工業化を急速に推進するための
国家的な動員体制であったと言える。
(計 237文字)
福祉システムの現状と今後の方向(児童福祉システムの現状と課題・方向性について)
現代社会において、児童福祉システムについて考えていく上で、少子化という問題は高齢化の問題と併せて、
避けては通れない問題となっている。そこで、少子化を解決するために
最も重要な条件と考えられる保育所制度改革について主に論じ、さらにその他の制度改革についても関連させながら、
児童福祉システムの方向性について考えてみたいと思う。保育所制度の課題については、都市部と地方では、児童数の絶対数の違い、
自治体の財政状況の違いなどの要因から考えると、まったく異質なものである。例えば、都市部では保育所における定員オーバー
(待機児童の増加)が問題となっているが、逆に地方では定員割れが深刻な問題になっている。まず、都市部について考えてみたい。
都市部では、現在、保育所に入れない待機児童の問題がある。このような問題を 解決するためには、
様々な政策を行う行政側よりも、保護者を雇用している企業が、企業内保育所を設置するという対策を講じていくことが
必要ではないかと考えられる。企業内に一室を設けて、残業に対応できるサービスを提供できるようになれば、特に女性の従業員に
とっては、育児と仕事が両立できるため、退職する必要性がなくなるのではないだろうか。20代後半から30代前半の
女性の潜在的な就業意識を、具現化させるためには、この方法が最重要だと考えられる。行政側としても、企業内保育所を奨励する上で、
行政側が負担をしない保育所運営費の超過分について、ある程度の優遇をしたり、設置した事業主に対して、
追加児童手当(通常の児童手当に加算することを前提とする)や、追加育児休業給付
(こちらも通常の育児休業給付に加算することを前提とする)を交付するなどの策、福祉システムとはかけ離れるかもしれないが、
法人税を減額するなどの策を講じることが必要ではないかと考えられる。実際、アメリカでは、企業内保育所が充実しており、
合計特殊出生率が2を超える要因の一つとなっている。企業側としては「育児支援策は人材確保のための投資」という考えから、
設置している場合が多いようである(注1)が、日本の企業でもこのような企業主義的な考えを持たないまでも、
心身共に豊かな人間を育てるという考えを持って、 設置していくべきではないだろうか。
また、企業は、次世代育成支援対策推進法における一般事業主行動計画(注2)を作成し、積極的に働く保護者を
応援していくことが重要だと思われる。行政側は、サポート役に徹し、計画を作成し、さらに達成した企業には、
先ほど述べたような追加児童手当、追加育児休業給付を交付していくという考えも必要になってくるのではないだろうか。
次に、地方について考えてみたい。地方では、児童数の減少により、保育所の統廃合が進んでいる。私の住む土佐山田町でも現在、
9つある保育所を3つに統合するという動きが出てきている。保育所の運営費が市町村の一般財源から出され、
地方交付税に頼りきりの地方財政を少なからず苦しめているという現実から考えると、この動きはやむを得ないかもしれない。
しかし、統合した場合、運営費が少しでも削減できるということならば、この削減した費用を、追加児童手当、追加育児休業給付に
回すという方法が有効ではないかと考えられる。また、地方では幼保一元化が積極的に進められるべきではないかと考えられる。
現在の地方の児 童数の減少は、幼稚園にも影響を与えていることは必定である。
そこで、統廃合の進む保育所と連携を深めていくことが重要ではないだろうか。例えば、保育所では統廃合が進むと、
通所距離が長くなり、通所に時間がかかる場合が出てくる。これに対して、大半の幼稚園では、
通園サービスとして送り迎えを通園バスで行っているという現実がある。幼保一元化をした場合、この通園バスの考え方を踏襲して、
通所に時間のかかる児童の送り迎えをするという策を講じれば、時間的、距離的な問題で保育所に預けることをためらう
保護者も預けやすくなるのではないかと思われる。
ここまで、都市部と地方の両面から少子化対策に関して重要だと考えられる保育所制度改革を論じてきたが、
この他にも国内では、欧米水準に遠く及ばない児童手当制度と育児休業制度の改革が課題として挙げられる。
この2つの制度改革については、前述の通り、保育所制度改革に関連して、都市部の企業内保育所を設置した場合の奨励として、
また地方では統廃合によるコストダウンの結果としての「追加」という名目で通常の制度にプラスアルファを加えることが
重要ではないだろうか。特に、育児休業制度改革については、育児休業補償を確保する上でこのプラスアルファが
最重要になってくるだろう。現在、児童福祉システムを取り巻く環境は非常に厳しい。しかしながら、これまでシステムを
引っ張ってきた行政側が、これからは引っ張るだけではなく、ある程度一歩引いた形で、
制度改革の主体となる企業や個人のサポート役にひたすら徹することで、よりよい児童福祉システムを将来に向けて
整備していくことが必要だと考えられる。
(計 2075文字)
<語注>
(注1)『新聞を読んで健康を考える』、109ページ参照。
(注2)『少子高齢社会の福祉経済論』、136ページ参照。
<参考文献>
田中きよむ 『少子高齢社会の福祉経済論』 中央法規 2004
梶山方忠 『新聞を読んで健康を考える』 文理閣 2000
ヨーロッパ政治史(冷戦体制について)
第2次世界大戦末期の1944年にドイツが連合国に降伏し、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国で
分割統治をすることがポツダム会談で決まった。
しかし、戦時中からヨーロッパ問題について、連合国側では様々な面で了解と対立の領域が交錯していたため、
ドイツを統治し始めると、明らかにアメリカ、イギリス、フランスとソ連の間に軋みが生じ始めた。
ソ連は1945年のポツダム協定締結前後から自らの占領区に対して、大企業の収用と公有化や徹底した農地改革を行うと共に、
政治再編を行い、社会主義統一党を結成することで、共産党による権力掌握を確実なものとした。
一方、アメリカ、イギリス、フランスの西側が占領した区域では、イギリスが選挙制度を改正するなど積極的に政治に
関わったのに対し、アメリカ、フランスはやや消極的であった。しかし、経済状況が悪化したために経済復興が最優先課題となり、
米英の占領区が一本化され、フランスもやむなくこの政策に同意した。
この東西お互いの行動は、非ナチ化という共通の目標を達成した後に、互いに批判しあうという悪い結果を
招くことになったと考えられる。
これらの出来事の前後には、スターリンが新たな戦争への備えを説いた1946年2月の演説、そしてチャーチルの
「鉄のカーテン」という言葉を用いた1946年3月の演説が行われた。
東西の対立が強まっていた矢先に起こったドイツ国内における、東側の社会主義統一党結成、西側の占領区一本化という
これらの行動こそが東西冷戦の引き金になったのではないだろうか。
1946年頃からは、アメリカを中心とする西の自由主義とソ連を中心とする東の社会主義のイデオロギー対立が顕在化し始め、
経済協力、集団安全保障体制等の面で東西の分裂が明らかなものとなった。
この分裂が鮮明になったのは、アメリカのG・ケナンが提唱した独自の軍事基地でソ連を包囲しようとする
「封じ込め政策」に対して、ソ連の共産党が、各国の共産党をまとめるための情報局「コミンフォルム」を結成し、
反撃し始めた1947年頃であると考えられる。
西側では、経済面でアメリカのマーシャル・プランを基に、ヨーロッパを共通した計画で復興しようとする欧州経済協力機構が、
安全保障の面では北大西洋条約機構(NATO)が結成された。
それに対して、東側では、経済面でマーシャル・プランに対抗したコメコンが、安全保障の面ではワルシャワ条約機構が結成された。
また、民主主義という概念の考え方においても、東西の対立は顕著であり、西側諸国では複数政党制、野党の存在、政権交代が
あってこその自由民主主義が民主主義であると主張するのに対して、東側諸国では社会的多数者である労働者や農民で構成された
「人民戦線」や「統一党」が支配する体制が民主主義であると主張した。
このような東西のそれぞれの考え方が1940年代後半から1950年代前半にかけて具現化し始め、西側では戦時中に
挙国一致内閣を構成していたイギリスにおいて戦前の保守党、労働党の二大政党による政治体制に戻り、フランスでは
頻繁に政権交代が起こるという不安定な体制ながらも、社会党、共和国人民運動(MRP)などからなる中道連合が構成された。
また、アメリカでは共和党と民主党による二大政党制が継続していた。
東側では、労働者、農民に知識人を加えた多数者が支配するという人民民主主義が喧伝され、普通平等選挙の徹底や、
広範な社会集団が参加する「国民戦線」を結成することで、大衆が政治に参加するという政治体制が生まれた。
しかし、この体制は、結局、チェコのクーデターや、ユーゴスラビアのコミンフォルム除名などの、情勢の変化によって消滅してしまい、
共産党による一党支配が多くの東側諸国でなされるようになった。
興味深いのは、東西のこのような対立する民主主義の概念に基づいた一連の動きが、1949年の9月から10月にかけて
完全に分裂し、東西に分かれて成立した東西ドイツにおいても起こっていた点である。
西ドイツでは、社会民主党(SPD)、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(FDP)の3党が活動し、複数政党、
政権交代の可能性があるという自由民主主義が具現化し始めた。
東ドイツでは、人民民主主義こそ成立しなかったものの、ソ連によって作られた社会主義統一党による一党支配体制が確立された。
東西冷戦の中心となっていたドイツ内にできた2カ国はそれぞれ、西ドイツはNATO加盟や、西側諸国との連携を果たし、
東ドイツはソ連と一部の面で一線を画しながらも社会主義を貫くこととなった。
経済面、政治面、民主主義に対するイデオロギー面などの様々な点から勘案すると、1940年代後半に分割統治され、
東西に分かれたドイツこそが、その後の40年間に及ぶ冷戦の縮図であったのではないかと考えられる。
(計 1978文字)
西洋政治思想史(ソクラテスの国法論について)
ソクラテスとクリトンの対話を書いた『クリトン』からは、ソクラテスが頑なに国法に従う姿勢に、
現代からは想像できない遵法思想の凄まじさを感じた。そこで、アテナイなどのポリスで通用していた法律と現代の法制度などを
照らし合わせながら、理想的な法の支配について考えてみたいと思う。
まず、ソクラテスの法に対しての姿勢についてである。ソクラテスによる、ポリスの中で生まれ育った者はそのポリス内の法に従うと
いう考え方は、現代国家の法制度にも通じる点があり、さらには、慣習法の現在の在り方に通じる点もあると考えられる。
例えば、日本における「むら」思想がそれである。
閉鎖的な集落、部落においてその範囲内での慣習が人々を抑えつけるという現象であるが、これが日本国内では慣習法として
ある程度容認されている。
さらに、イスラム教を国教とする国においても、イスラム法が絶対であるという考えがある。イスラム法は、唯一神である
アッラーの啓示をまとめた経典の「コーラン」を基に作成されており、国ごとにある国法よりも、優先されているため、
ムスリム(イスラム教信者)は、法律そのものに対して、ソクラテスと同じように遵法の精神で向き合っているのである。
ローマ時代のポリスと日本近代の集落、イスラム世界には少なからず共通する点がある。それはある程度、拘束力のある決まりを
基にして住民の自治が規定されている点である。
この共通点は、ホッブスが述べた「法の支配」があれば、人々はある程度自由に行動できるという考えを表しているのではないだろうか。
しかし、いくら自由であっても法律に基づいた裁きが不正であった場合に、それに対してソクラテスのように不正
(異議申し立てなど)を働かないという考えは現代では通用しないだろう。
現代であれば、よほどの独裁国家でない限り、法に基づく裁きが行われており、民主主義に基づいて裁判であれば控訴、
上告が、また行政に対しては不服申し立てなどの手続きをもって、異議を申し立てることができる。
ソクラテスは、不正に不正を働くことが、それまで自らを育てたポリスへの裏切りであり、友達や家族が憂き目に遭うことに
なると述べている。
この考えは、国法を尊重し、徳の涵養こそが重要であるとするソクラテスならではの考えであるが、現代の視点からすると、
ソクラテスが処刑されることで、友達や家族が憂き目に遭うのだから、国法に対して不正を行う、つまり逃亡することで、
国家に対して異議を申し立てることが最善であるというクリトンの考えが妥当なのではないだろうか。
ソクラテスの視点から見ると、国法はポリスをポリス為らしめるものであり、抽象的ながらもポリス全体が主権者であって、
ポリス全体が制定した法に遵じるという姿勢を見せている。
このように、法律が共同体の中で最上位の位置を占めるという考えに対して、ボダンが述べる主権者がその国の統治者であって、
統治者が法律を制定するという考え、つまり法律の上に統治者が立つという考えが、ソクラテス当時のポリスに存在したならば、
果たしてソクラテスは国法に遵じるであろうか。
これに関しては、答えはノーであると考えられる。ソクラテスはポリスの中で護られ、育てられたことに対しての恩義の気持ちから
遵法を全うしようとしている。ところが、1人ないし少数者の統治者による立法で制定された法律では、よほどの個人崇拝がない限り、
死刑などという極刑に対しては、おいそれと応じることはできないのではないだろうか。
なぜなら、この場合、仮にソクラテスを一市民とすると、統治者との深いつながりがない限り、護られ、育てられるという
感覚は育たないからである。そして、なにより、法律よりも統治者の方の地位が高い「統治者の支配」が「法の支配」という
概念を崩しているという要因があるからである。
では、理想的な「法の支配」とはどのような形になるのだろうか。先に挙げたアテナイのように、抽象的ながらも絶対的権威を
持つ法による支配が良いのか、少数の統治者が立法をし、被治者に与えた法による支配が良いのかという異なる視点から
考えてみたいと思う。
前者の場合は、あまりに権威が強すぎるのではないだろうか。ソクラテスのように異議などを申し立てることを拒んで
ひたすら法に遵じるという姿勢を生み出すのはいいが、法にがんじがらめという観がぬぐえない。
後者の場合は、統治者に都合のいい法律が制定される場合があり、法の支配が浸透するとは考えにくい。
この2点から考えると、法律の絶対的権威、そして統治者の支配がないケース、つまり、被治者が直接、
法律の制定に携わる場合が最善ではないだろうか。
国民全員が、法に携わり、その法によって支配されるという形こそが「法の支配」の理想形ではないかと考えられる。
(計 1955文字)
<参考文献>
プラトン著 久保勉訳『ソクラテスの弁明 クリトン』岩波文庫 1964年
日本政治思想史(天人相関論について)
天人相関論について、宋学、仁斎学、徂徠学は類似点があるものの、基本的には全く異なっている。そこで、この3つの学問について
それぞれの天人相関論について論じたうえでそれぞれの異なる点を挙げていこうと思う。
まず、最初に宋学である。宋学では、万物の原理を生み出すものとされる「理」が社会秩序、自然秩序、人間の精神を貫くという
合理主義的天人相関論を展開していた。つまり、道徳に見合う正しい行動をしておけば、必ずその報いがやってくるということを
肯定していたと言える。また宋学は、日本の近世初期には「理」を「天道」として捉え、天が人の地位や身分を決めるということを
正当化し、徳川幕府の権力の正当性や人々の身分の妥当性を明確にする道具として用いられていた。
しかしながら、宋学では、天から下される命令、すなわち「命」はその時々の「天地の気」によって左右されるということを、
充分な位を得られた文王や舜、充分な位を得られなかった孔子の例を出して認めており、そういう意味では近世初期に展開された
宋学と比べると幾分、曖昧であったと言えるのではないだろうか。
宋学では、「命」は聖人が聖人の境地に立っていない者を導くための用件としており、道徳に見合った行動を展開していても、
聖人になりきれない者に聖人となることへの決断を促す上で「命」が必要となるとしている。
次に仁斎学である。仁斎学では、天道と人道の非連続性を示し、両者は別次元にあるものとして相互に浸透しないと考えていた。
特に、仁斎学の祖、伊藤仁斎は「孔子」から、道徳に見合った正しい行為をしながらも全く役職に就けない例を引用し、いくら
「理」にかなった行動をしてもそれは絶対に報われるということではないということを指摘した。これは、仁斎自身が宋学では
一本化されていた「天道」を人に天命を下す「主宰の天道」とその時々によって変わる「流行の天道」に分け、いくら
「主宰の天道」に従うとしても、「流行の天道」や人それぞれの判断によって、人の運命は変わってくるということを論じている
所以である。
この論理は一見、宋学における「天地の気」による論理と似ているように見えるが、宋学では天そのものが人の運命を変えるという
論理に対し、仁斎学では、その人自身の判断も要因となってくるという点で異なっていると言える。
なお、仁斎学では「理」にかなった行動をしていながらも、「命」によって運命が左右される場合に、「命」による判断を絶対的に
受け入れる聖人を理想像としている。
最後に徂徠学である。徂徠学では聖人はその超人的な智恵で天地自然に対して「理を窮め、性を尽くす」ことで「道」を見出し、
物が持つ人間生活に有用な性質を見出すようになった、と定義している。「道」は歴史に準じて変化し、当初は生活に関することと
して捉えられていたが、結果的には政治に関する事として捉えられるようになったと言える。「道」を政治に関することと捉えた上で
聖人は、自らが見出した道徳と物がもつ人間生活に有用な性質を基にして、ある仕事に適応する人材を抜擢することで
政治を行ったのである。
これは、宋学的な合理主義的天人相関論とは一線を画しており、例え、道徳に見合った行動を起こしていたとしても、
その時の為政者、いわゆる聖人がその卓越した智恵をもって選ぶ人材に見合わなければ充分な位を得ることができないという
一種の不合理性を表している。そういう意味では徂徠学は、宋学的な合理主義を否定したと考えられる。
なお、徂徠学では「六経」を学ぶことによって聖人が立てた文化や秩序の原理を学ぶことができるという「格物致知」の論理を展開し、
学んだ者の中で優秀な者が聖人の制度行為を身に付けることができる、とした。しかし、この論理展開は、「六経」を学んだとしても、
必ずしもそこで聖人の制度行為を身につけることはできないという不合理性を表している。
以上のように、3つの学問の天人相関論について述べてきたが、宋学が合理的な天人相関論であるのに対し、
仁斎学、徂徠学は不合理な天人相関論を支持していると言える。これは、近世に置き換えると、宋学を中心として
合理的に政治を進めようとした体制派である徳川幕府と、それに対して疑問を呈する反体制派の学者たちの構図を
表していたのではないかと考えられる。