*この原稿は2000年の第17回創価大学インナー・セミナー合同研究大会に際して製作された『中西治ゼミナール報告集』に寄稿した一文の要約です。アラビア語訳を半分まで進めていたのですが、面倒くさくなり日本語の要約版を掲載することにしました。多忙のため、MS-Wordの要約機能を使って作成したので、かなり不十分な部分があるかと思いますが、ご容赦のほどお願いします。

中東の20世紀―諸国体制の成立とその変容(要約版)

木我 公輔

はじめに

 中東において、19世紀と20世紀の間にある最大の相違は国家のあり方であった。板垣雄三はオスマン帝国解体後の中東の国家体系を「中東諸国体制」と呼ぶことを提唱している。

「イスラエル国建設予定地としてのパレスチナも周辺のすべてのアラブ『諸』国もまたイランもトルコも、すべてワン・セットの装置としてリンクしあうものであり、この体制は第一次大戦後まったくあらたにつくりだされたものである。」 (1)

 栗田禎子はアラブ諸国の支配集団が諸国体制の一部であることを指摘した。「『アラブ諸国』体制とイスラエルは、共に帝国主義の中東支配の装置の一部であるという意味で相互補完的なものであり、アラブ諸国の支配層とシオニストとは、表面的には対立しあうかに見えながら、実は互いに支えあう存在であった。」 (2)

 こうした議論から抽出されるのは、中東諸国体制の次のような特徴である。

@複数国家への分割
A中東諸国の区分の人工性
B帝国主義支配の維持を目標とした体制

 今日の中東諸国の多くはオスマン帝国領であった。エジプトやチェニジアのように事実上の独立国もあったが、これら諸国も国際法上はオスマン帝国に帰属していた。中東諸国体制下では、これらの土地は複数の国家に分割された。その際には大国の諸会議が中東諸国の国境を定めたのであった。だが、山内昌之はこうした中東諸国の人工性を強調する立場を批判する。「『アラブ』というパラダイムや『アラブの統一』というレトリックにとらわれるあまり、現在のアラブ系の国々の多くが、歴史のなかに、それぞれが独立した国家として成立する根拠と正統性を求められる存在だということを軽視してはならないだろう。」(3)

 今日の中東諸国の諸問題の根源を全て植民地主義に押し付けるのは明らかに誤りである。しかしながら、西欧諸国が中東諸国の国家建設に関与した事例が多く、これら諸国をいろいろな形で従属させてきたのもまた事実である。中東諸国体制は帝国主義支配を支えることを目標としており、そこでは土着の権力者(部族の首長など)が国家の為政者に据えられた。

 本稿は「中東諸国体制」概念を深化させることを通じて、20世紀の中東を探ろうとするものである。以下、第一章では中東諸国体制の成立とその構造を検討する。第二章では20世紀中東で発生した戦争と革命を通じての中東諸国体制の変容を検討したい。最後の第三章では20世紀における中東諸国体制を総括する。

1.中東諸国体制の成立(4)
1.1 中東諸国の建国

 中東の多くの諸国が19世紀以来、西欧の保護国となった。英国は1882年にエジプトを占領し、1914年に保護国化した。また、アフガニスタン(1880年に保護国化)、今日のアラブ首長国連邦(1892年)、クウェート(1899年) 、カタル(1916年)、バハレーン(1892年)、南イエメンの港湾都市アデン(1839年)が英国によりそれぞれ保護国化された。一方、フランスもアルジェリア(1830年)、チェニジア(1881年)を保護国化し、モロッコ(1912年)をスペインと分け合った。イタリアはリビア(1919年)を保護国化した。中東において自力で建国した例外としてトルコ、サウディアラビア、北イエメン、イランがあげられる。しかし、これら諸国も西欧諸国の影響から無縁でいられたわけではない。一方、建国後のトルコやサウディアラビアは米国に接近してゆくし、イランは第二次大戦中に中立国であるにもかかわらず、英ソの軍隊に自国を占領される。これら諸国は第二次大戦後も親西欧の国家として独自の機能を果たしてゆくのである。

1.2 イスラエル建国

 イスラエル国家は1947年の国際連合総会の決議を経て1948年5月に建国された。続いて起こったアラブ諸国と新生イスラエル国家の国家間戦争という形をとった最初の中東戦争、1948年のイスラエル建国戦争は中東諸国体制確立の象徴的な戦争であった。まず、ユダヤ国家に予定されていたパレスティナにイスラエルが予定通り建国された。英国はパレスティナからの英軍撤退スケジュールを事前にユダヤ側に知らせ、米国は真っ先にイスラエル国家を承認した。また、戦後明らかにされたヨルダン国王アブドゥッラーとイスラエルの密約(ユダヤ国家建設とヨルダンによる西岸地区併合の承認)もアラブ諸国とイスラエル両者の共犯関係を示すものであった。

1.3 中東諸国体制の構造

@アラブ諸国連盟

 アラブ連盟の原加盟国はエジプト、サウディアラビア、北イエメン、ヨルダン、イラク、シリア、レバノンの7カ国であった。まだ独立前の他のアラブ諸国が連盟に加わるのは独立後のことである。アラブ連盟は主権を有する国家のみが加盟できる機構であり、中東諸国体制を象徴するものであった。

A非アラブ諸国−イスラエル、トルコ、イラン  イスラエル、トルコ、イランは中東諸国体制において最重要の構成要素である。というのも、これら三国はアラブ諸国、とくに革命運動を抑えつける楔として機能したからである。イスラエルはアラブ諸国との対立のパートナーの一番手であった。イスラエルは米国の多額の軍事援助を受けて、軍事大国として周辺アラブ諸国、とくにエジプトを牽制する。トルコ、イランは米国との軍事同盟を締結し、シリアやイラクなどを牽制する役割を担ってきた。たとえば、トルコは1957年に中東の空白への共産主義の進出防止には武力行使も辞さないというアイゼンハワー・ドクトリンに沿ってシリア国境に軍を動員して、米・シリア危機を演出した。

2.諸国体制の変容−中東における戦争と革命
2.1 中東戦争と湾岸戦争

 中東は戦争が多い地域とされ、中東での戦争は日本では宗教紛争、ナショナリズムの衝突、資源をめぐる紛争というように説明されてきた。以下、中東諸国体制を揺さぶり、変容させた戦争として3つの戦争を位置付けてみる。

@第二次中東戦争(1956年)

 第二次中東戦争は英仏による中東支配への反抗の中から生まれてきた戦争である。従来、この戦争は冷戦下で東側陣営に接近しようとするエジプトへの反撃として説明されてきたけれども、そうした冷戦イデオロギーを越えたところにこの戦争はあったのではないか。エジプトのソ連接近とアスワン・ハイダム融資撤回、1956年7月26日のスエズ運河国有化宣言と英・仏・イスラエル三国による侵略という応酬は、軍事的な敗北と外交上の勝利という結果をエジプトにもたらす。この戦争の結果、英仏は中東における威信を失墜させ、事実上中東支配体制から退場する。そして、戦争に反対するという一点で米ソの協調が成立したことは、中東諸国体制の管理者の交替を示唆していた。そして、エジプトの革命政権がこの後に中東諸国体制を破壊しようとする動き(アラブ連合共和国:シリアとの統合)へ向かうのである。

A第三次中東戦争(1967年)と第四次中東戦争(1973年)

 第三次中東戦争も中東諸国体制からの解放戦争であった。藤田進はこの戦争の性格を次のように規定する。「筆者がこの戦争に注目するのは、『アラブ解放戦争』という側面を読み取るためである。その戦争は、中東を支配する欧米イスラエルやアラブの権力集団とそれらの支配から解放されんと欲する住民たちとの間の総力戦という性格をもっていたと筆者は考えている。」(5) 1967年、イスラエル−シリア危機、シナイ半島の国連平和維持軍の撤退要請とアカバ湾封鎖宣言により高められた危機は戦争へと進展する。この戦争はイスラエル側から「六日間戦争」、アラブ側からは「六月戦争」と呼ばれた。

 しかし、この戦争は6日間で終わったのだろうか。筆者は1970年までのエジプトとイスラエルの間の消耗戦争、以後相次いだゲリラ戦を含めて1967年の戦争から1973年までの戦争は一つの戦争と捉えている。この6年に戦争はアラブとイスラエルの国家間戦争からパレスティナ民衆とイスラエル国家の間の戦争へと切り替わった。その意味で1973年10月のエジプト・シリアとイスラエルの戦争は1967年戦争の戦後処理のための戦争であり、国家間戦争の幕引きを図ったものである。エジプトは1973年以後、イスラエルとの和平(1978年のキャンプデービッド合意)へと向かい、パレスティナ民衆は単独でイスラエル国家と対決するようになる。そして、この戦争により第二次中東戦争と同様に中東諸国体制からソ連が退場させられた。

B第一次湾岸(イラン・イラク)戦争(1980-1988年)と第二次湾岸戦争(1991年)

 日本でイラン・イラク戦争と呼ばれた戦争はアラブでは湾岸戦争とも呼ばれた。戦争を継続させるべく、アラブ湾岸諸国はイラクの戦費を負担し、イスラエルはイランに武器を供給した。こうした諸国体制への重大な挑戦は諸国体制が生み出したイラクの手によって行われ、そのイラクに武器を与えたのは米ソであった。湾岸戦争の約30年前の1961年にイラクのカーシム政権がクウェート併合を企てたときには、アラブ諸国はこれを押さえ込むことができた。だが、1991年には米国は単独でイラクに侵攻できず、多国籍軍という形態をとらざるをえなかった。にもかかわらず、イラクのサッダーム=フセイン政権を存続させ、米国は湾岸危機の継続を図っている。もはや中東地域は米国の思い通りに管理できる地域ではない。米国のイラク・イラン封じ込め戦略の破綻はそれを示している。

2.2 エジプト革命とイラン革命

 諸国体制によって設立された各国の指導体制は、西欧諸国およびイスラエルと共犯関係にあった。彼らの腐敗・専制に対する抵抗運動として、民衆の側に立った革命が起こった。そのモデルがエジプト革命であり、イラン革命であった。

@エジプト革命(1952年)

 軍人によるクーデターと君主制の転覆というそのスタイルはその後のアラブ諸国における革命(1958年のイラク革命、1962年のイエメン革命、1969年のリビア革命)のモデルとなった。 エジプト革命に代表されるアラブ諸国の諸革命は、中東諸国体制の一部としての中東の君主制諸国の崩壊を意味していた。 1956年の第二次中東戦争の勝利と1958年のアラブ連合共和国成立を通じて、周辺諸国へのエジプト革命の影響力は頂点に達した。そこでサウディアラビアやヨルダンなどの君主制諸国は「アラブ冷戦」と呼ばれたエジプトとの抗争に乗り出し、その影響力の減殺に努めるようになった。

Aイラン革命(1979年)

 1978年1月以来の聖地コムその他での民衆の反乱とそれに対する官憲の弾圧の悪循環の中で、イランのパフラヴィー王朝のムハンマド=レザーが国外亡命し、1979年2月1日に宗教指導者ホメイニー師がフランスから帰国して、イラン・イスラーム共和国が成立した。イランのイスラーム革命は前述のエジプト革命のように革命の輸出を行うには至らなかったが、中東諸国のイスラーム運動に大きな影響を与えた。たとえば、革命イランはレバノンのイスラエル占領軍への抵抗運動ヒズブッラーを支援していた。エジプト革命同様、イランの革命も周辺諸国からの干渉にさらされた。前述の第一次湾岸戦争がそれである。

 20世紀中東における二つの革命は、中東諸国体制を支える各国の支配体制の交替を意味するだけでなく、中東諸国体制に挑戦する二つの運動の基地としての役割を果たした。エジプト革命はアラブ民族主義運動の拠点となり、アラブ諸国の統合を目指した。イラン革命はイスラーム運動の拠点となり、イスラーム国家の創出を目指したのである。

3.中東諸国体制をめぐる20世紀
3.1 大国支配の20世紀

 これまで中東諸国体制とその変容を簡単に振り返ってきたが、20世紀を再検討する上で、中東の20世紀をどのように総括すべきであろうか。まず「大国支配の20世紀」ということが言えるであろう。中東においては、第一次大戦後、英仏によってこの地域は支配されてきた。第二次大戦後も両国による支配は続き、湾岸のアラブ諸国が独立を達成したのは1971年になってからである。大国によって支配者が交代させられた事例は枚挙にいとまがない。また、ヨルダンやレバノンの支配者たちが民衆の反乱による破滅の危機を米英の軍隊の介入によって救われたこともあった。大国支配に少しでも抵抗するものには厳しい経済制裁や援助の中止が課された。リビアやイラクへの経済制裁、1960年代のエジプトへの援助停止がそれである。

 1992年に高橋和夫は第一次大戦後の秩序の継続を指摘している。「中東に関して言えばヤルタ体制どころか、その前の第一次世界大戦後に列強の都合で構築された秩序、言わばベルサイユ体制がいまだに幅を利かせているのが現状である。」 (6)

3.2 民衆解放としての20世紀

 中東諸国体制を大国による押し付けとするならば、それを打破する運動が1948年以後現われた。1948年の戦争は中東諸国体制に対する一連の挑戦の出発点であった。よく知られたアブドゥンナーシルの「真の戦場はパレスティナでなく、エジプトにある」というエピソード はその象徴である。(7)

 1948年までに完成した中東諸国体制は次々と崩されてゆくことになる。英仏は、第二次中東戦争に敗北し、その結果として英国はエジプトから、フランスはアルジェリアから撤退を余儀なくされ、中東諸国体制の管理者としての地位を失った。英仏の後に米国とソ連が中東を共同統治しようと試みた。1956年から1979年まで続いたこの秩序は第二次中東諸国体制と呼べるだろう。この二番目の体制はそれまでと比べ、中東諸国の近代化に貢献するなど評価できる面もあった。1957年以後、中東の「空白」をめぐり、米ソが争ったが、ソ連がその影響力を1967年まで伸ばしつづけた。しかし、1967年から1973年の戦争は、中東におけるソ連の影響力を殺ぎ落としてしまう。そして、1979年のイラン革命とアフガニスタン侵攻以後、米ソは急速に中東をコントロールする力を失った。これ以後の期間は第三次中東諸国体制と呼べるが、アフガン戦争の泥沼、イラン・イラク戦争、レバノン内戦とイスラエル侵攻、湾岸戦争など米ソによる管理の効かない事態が続発する。

 また、アラブ民族主義運動やイスラーム復興といった現象も中東諸国体制を克服しようという試みであった。たとえば、アラブ民族主義運動は本来、歴史的シリアに限定された思想・運動であったが、これがエジプトやマグレブ諸国に普及していった背景にこうした押し付けられた秩序への反発があるのではないか。

 中東の20世紀は中東諸国体制の世紀、すなわち大国支配の世紀であった。しかし、中東の人々はこの支配に抗し、その体制を変容させた。彼らは植民地支配という愚行を克服し、人類の進歩に貢献した。中東の20世紀は「民衆解放の20世紀」でもあったといえよう。

おわりに−21世紀にむけて

 中東諸国体制の克服は21世紀の課題として残されている。中東諸国体制をいかに克服してゆくか。まず、諸国体制によって創られた国家という枠組みをどのように乗り越えてゆくのか。1990年の湾岸危機に際して、板垣は次のように警鐘をならした。「中東のこれまでの<諸国体制>(国分けシステム)に、いずれ大変動が起きるのは避けられないだろう。いくつかの国が解体したり消滅したり、またまったく新しい国が形成されたりして、地域や国家や民族の枠組が大幅に組み換えられ、政治地図が一変する可能性がある。」(8)

 すでに中東諸国はいくつかの地域統合の試みに乗り出している。その枠組みはどのようなものであれ、中東諸国はすこしずつ対話を重ねていって、中東諸国体制を乗り越えなければならない。

 次に中東諸国は内的な進化を遂げなければならない。それは民主化の推進である。中東諸国体制下において大国の傀儡としての役割を担い、民衆を抑圧した諸政権に対して20世紀の中東の民衆は一部の軍人によるクーデターという形で戦ってきた。これは市民の政治的な未成熟さや不十分な組織化に原因があったわけだが、21世紀においては、これまでの暴力を伴った革命で問題を解決するのではなく、民主主義のルールにのっとっての話し合いによって問題を解決しなければならないであろう。そのためにも中東諸国で遅れがちな民主的な制度の整備は不可欠である。

 中東諸国体制は20世紀を通じて少しずつ変容してきた。英仏や米ソのような大国に左右されることはもはやないであろう。そうした変容は革命や戦争といった暴力によって生じてきたが、暴力では問題は完全に解決できないというのが20世紀の教訓ではないだろうか。したがって、21世紀の中東は平和的手段によって問題を解決していかねばらない。


〔注〕

(1) 板垣雄三「中東政治の基底にあるもの―10月戦争後の検討―」『国際問題』210号、8-9頁。

(2) 栗田禎子「アラブ民族主義とパレスティナ民族主義」歴史学研究会編『講座世界史10 第三世界の挑戦−独立後の苦悩』東大出版会、1996年、157頁。

(3) 山内昌之『民族と国家−イスラム史の視角から−』岩波新書、1993年、30頁。

(4) 中東諸国体制の成立については以下の論文を参照。板垣雄三「第一次世界大戦とアラブ地域」『岩波講座 世界歴史24 現代T』岩波書店、1970年。

(5) 藤田進「第三次中東戦争」歴史学研究会編『講座世界史10 第三世界の挑戦−独立後の苦悩』東大出版会、1996年、192頁。

(6) 高橋和夫「第三章 中東をめぐる国際関係」板垣雄三編『新・中東ハンドブック』講談社、1992年、225頁。

(7) このエピソードについては以下を参照。栗田禎子、前掲論文、164-166頁。

(8) 板垣雄三『歴史の現在と地域学』岩波書店、1992年、357頁。


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