『均衡の流れゆきつくところ』


日記連載中

 第1章 彼とM

ふとしたことから、人生は変わるものだ。
今思うと、しかし「あの時だ。人生が変わったのは・・・」と思えることがある。何で、こんな勉強をやるようになったのか、その契機は電話だった。

そんな時だから、その瞬間の映像は数秒覚えている。これは人間の不思議な能力、というより人の脳の不思議さと言っていいだろう。映画ではこれをフラッシュバックと言うのだがー。

彼のフラッシュバックは地下鉄の池下駅改札を出たところに聳え立つ、その地域では有数のマンションの壁面である。その電話で返事をした瞬間、たまたま携帯電話を掛けつつ見ていた、たったそれだけの理由と、後から備わるその重要性をもって大脳に蓄えられているのだった。

だが、その電話が「因」となって、慶應大学へと「果」をなすまでには1年近くを要することになる。勿論、その時の彼にそれを知るよしもなく、電話での無理難題な依頼に対して「了解」する旨の返事をしていた。

彼はMについては知らなかったが、Mは彼を知っていた。 Mは届いたばかりの慶應からの郵便物を期待を込めて開封した。オルゴールのように開けた口から文字がほとばしった。音の無い音だった。ダイヤモンドダストが奏でる音、Mはそう聴いた。

繁々とそして雑然と目を通す。多くの塾生がその多さに驚きを禁じえないというが、Mにはそれは自然だった。何故だろう。思うにMには既に自覚があったからだった。

「求める知性」は、当然それ位の事を要求してくるに違いないと無意識にも予知していたのだ。だからダイヤモンドダストのシャワーを浴びるが如く、これから聴く音無き音を既に聴いて、一瞬の至福の時を味わっていた。
テキストとは、かくも美しい音がするものなのか。それは中学1年生や高校1年生の初学のやる気に満ちた感慨に等しかった。

一方、彼は、電話の向こうで頼まれた依頼を反芻していた。「ディベートか・・」

 第2章 依頼受諾と選択

彼への依頼はディベートのリーダーへの就任であった。ディベートは討論の格闘技だ。経験は無い。
ことの起こりは、業界の任意団体が全国の地域会の持ち回りで毎年11月に開催するシンポジュウムを来年はディベートでやろうと決めたことからだ。

例年のシンポジュウムは劇形式での発表や単に読み上げる程度の発表が多かった。彼の所属する岐阜会ではシナリオ有りのパネルディスカッション形式が例年であった。

しかしディベートとなるとシナリオは無い。岐阜会の会長は、こんな役を引き受けてくれるのは彼しかいないと思ってオファーしてきたのだ。彼は「お調子者」であった。

Mは山と着た資料から、次回の科目試験の日程と、これを受験するための資格を手にするレポート提出の期限が重要なことと理解した。

Mが学ぶのは正規の大学卒業資格を得られる通信教育。すなわち郵便で添削を受け、年数回開催される科目試験を繰り返し、これと別に面接授業を最低30単位まじえて合計124単位取得すると晴れて卒業となる。

Mは「まず出す」「出してみる」と心掛けた。通信教育ではテキストを手にした時点で多くの方が途方にくれて諦めている人が多い。

その原因の大方は意欲不足である。意欲とテキストなどの資料の物量との均衡において、後者が勝って押し流す結果が早々の脱落に行きつくのである。

今から間に合うのは、1月末の科目試験で、そのレポート締め切りは12月5日であることを知ると、Mはカレンダーに目を移した。後2週間を切っていた。

「間に合うか?」ほんの一瞬脳裏にかすめつつ、「間に合わせる!」と自然に決めていた。その自然さがMが均衡において勝てている証でもあった。

合い前後して、どの科目のレポートを書くのか決める。「レポート課題集」とテキストをひっくり返し、興味と、学びたいことと、単位数と、書けそうか否か総合勘案する。が、この時点では総合勘案できるほどのノウハウはないから「まず出す」精神であった。

彼の「お調子者」は一風変わっていた。良く言えば「義を見てせざるは勇無き為り」なのだが好奇心も混在している。ディベートなら引受け手が無くて困っている「義」とディベートは経験が無く怖くもあるが、経験するいい機会だとする「好奇心」。

依頼を引受けるデメリットは、上手く出来なくて・・・あるいは完敗して恥をかくかもしれないこと。無報酬であることはいとわなかった。勿論、時間が相当かかることも覚悟の上だった。

Mは「日本史」のテキストを手に取った。薄い!2単位だ。読んでみて比較的分かる。レポートも少し調べれば書けそうだ。だが実はこの選択が最悪だった。

 第3章 通友と上司

或る単位が取り易いか否かは、テキストやレポート課題では分からない。「自分の経験」と「先輩の意見」とで、その程度が分かる。その場合、自分の経験が優先する。

他人が何と言おうと得意な科目でさっさと取得出来ることも多いからだ。しかし受ける前には先輩の意見しか無い。だから友達が必要だ。

「通信」では先輩という概念が微妙である。「通学」では「学年」が存在することによって「先輩」か否かは明確だ。しかし通信では「学年」が存在しない。従って留年が無い。これは通信を学ぶ者にとって最も理解しなければならないことだ。

ここから、幾つもの差異が生まれてくるがここでは、先輩についての話である。通信では、或る科目について取り組んだ・・・出来れば合格できて・・・さらに評価が高い程、その科目については「先輩」なのである。だから、科目によって先輩、後輩は入れ替わる。

結局、自然にその言葉「先輩」は死語になる。代わりに広義の「友達」に近い概念が生まれるが、そこに固有名詞はまだ無い。近くは「塾生」卒業すれば「塾員」だが、これは普段の会話では使わない、「よそ行き」の言葉である。

慶應には福澤先生以外は君付けで呼ぶ古き良き習慣があるものの、これとて「よそ行き」の言葉である。それ故、「**君」と呼ばれると緊張するのである。

ここでは慶應通信を共に学ぶ、あるいは学んだ中で知り合った学友を「通友(つうゆう)」と呼ぼう。通友を得ることは未体験の科目や手続きに関わる情報を得る大きなルートとなる。

より組織的には「慶友会」や公認でない学習会やネット上のMLも存在するものの入学したてのMにとっては皆目分からなかった。独断で「日本史」を選んだのだった。
彼のディベートチームはルールで3人と決まっている。これを支えるためのスタッフ2人程を加えて、シンポジュウムに備えての勉強会が始まったのは、彼が依頼を受けてから半年余り経過した翌年の盆明けであった。
テーマは「規制緩和で業界はどう変わるか」で賛成と反対との言論格闘だ。規制緩和は即、法律の問題だ。のちにこれが慶應で法律を学ぶ道につながってゆくのだが彼の今の関心は、目の前の「勝負」にあった。
彼はこれより先、ディベートのテーマである規制緩和の進むアメリカに皆で視察に行く話がメンバーから出たのを受けて企画を練った。
勉強会に充てる夏から秋までは、仕事の暇な時期である。これも幸いして研修と観光のツアーにはメンバー全員が参加することになった。

Mの選んだ「日本史」は難関で有名な科目であった。特に試験は十数回受験している人がいる。当初、届くテキストの山の中から主観だけで、手が出易いものとして選ぶ危険がそこにある。

何故、手が出易いか?・・・Mは高卒だから、「普通入学」となる。「日本史」は他の「***学」「***論」といういかにも大学で学ぶらしく見える高尚な題に比べ、高校の教科書と同じである親近感から内容が想像出来ることもあった。

Mと同じく、事情の知らない者にとっては最初の科目で何度も足止めを食うのは将来を悲観に導きやすい。従って通友からペースに乗り易い、つまりは単位の取り易い科目から学ぶのが失敗が少ない。だがあくまで比較の問題だ。

視察地はラスベガスだから、セスナで飛んだグランドキャニオン観光も堪能し、カジノではいわゆる「永久預金」もしてきたが、実のところ、彼は大いに学んだ。
それは職業上の専門的なことよりも、遥かに彼に影響を与えた二つの事であった。

一つはグローバル競争の影響が、ドミノ倒しの如く、片田舎の企業の存続にも確実に影響すること。それを回避するためにも法的武装が求められる。
通常、こういう事は仕事上の「視察の中から」掴むのが当然であるはずだが、彼の場合は異なった。

同行したメンバーの影響。それが彼を突き動かした。
殆ど偶然で出来上がったチームであったが、彼を除いては蒼々たるメンバーであった。一流大学院出身者ばかりである。その中で高卒の彼がチームリーダーなのである。

部下の方が明晰な、上司の惨めなこと限りなしである。無論、学歴だけでは能力は量れない。そもそも彼がリーダーに選ばれた理由は年齢と少ない経験とであって、学歴ではない。

それに答えてか、彼は不可能に思われたラスベガス視察の準備を短時間で成し遂げた。
だがここで何処のサラリーマン世界でも生じる、彼の上司との軋轢が起きた。この視察には直接関係のない上司による手柄の横取りである。

Mの「日本史」レポートは順調に書けた。後日判明することになるが、結果はCだった。
レポートを出してから、徐にネットを検索していると地元に慶友会があることを知り入会した。岐阜慶友会である。早速、事情の分からない内に講師派遣行事に参加することになった。

彼の上は部長である。チームメンバーは各部からの選りすぐり、彼は課長。当初、視察の企画が困難を極めている頃には殆ど手を出さなかった部長であった。
しかし日頃から懇意に付き合っている会社でも半年前からのアポを入れるラスベガスの著名な大企業S社など、望外な視察先にもアポが取れ、成功の兆しが見えてきた。

すると俄然、お膳立てに乗って課長である彼を飛び越えてメンバーに指示を下し始める。その癖、状況が変化して方向を変えねばならない、上司として前言撤回で、言い難い指示は、彼を通じてさせる。この頃から、彼は独立の二文字が浮かぶ頭を育てていた。

 第4章 科目試験と控え室、ミニ講演会

講師派遣はその年の年末、民法の池田先生を岐阜慶友会が招き、学部を問わず20名余りが参加し、講演を聞いた。
入学して1ヶ月余りゆえ、それがどんなに素晴らしいことなのかはこの後暫くして知ることになるMであった。だが少なくとも、これが「通友」を作る最初になった。この通友とて、その重要性に気が付くまでには2-3年後のことであった。

人は変化の最中(さなか)に在る時には、その変化に気付かないものである。暫くその流れに浸し、流れ流され、元居た岸を眺めるとき初めて、その変化を認知できる。

初めての科目試験は1月末であった。名古屋城近くの桜華会館であった。まだ通友もないので、一人で会場に向かった。もっとも、通友を多く得てからも、試験の日は孤独な闘いである。
それぞれ科目も受験時間も異なり、最後の集中をしたいので最終日の岐路を共にする以外はプライバシーを重んじるかのように個別行動が多い。

Mは、科目試験後に地元の愛知の慶友会が準備してくれるミニ講演会があることを知らなかった。ミニ講演会は試験監督官としてみえた先生に事前に地元の慶友会が、事務局を通じて講演を依頼しておくと、日曜の昼食を大学が負担した上で、無料でお話を聞くことが出来るものである。

その慶友会に入っていないMでも参加できるのだが、そんな事は当日の案内もないのでMの知る由も無い。実は、案内は控え室でされていたのだが、この時点では試験会場の控え室があることすら知らなかった。
確かに会場の行事案内板などには、「控え室」と表示されてはいるものの小心者のMは先生方の控え室だと思って入ることはしなかった。

従って、Mは試験を終えるとそそくさと試験会場を出、近くにある愛知県立図書館に向かった。そこで次なるレポート「法学」「生物学」の提出に向けて準備に入る。土日しか集中的に勉強できないからだ。

Mが試験会場の控え室の存在を知るのは、ミニ講演会の準備をする試験会場の地元慶友会「慶大愛知クラス」に入会してからのことだ。控え室は試験当日の自習スペースで、その日の試験開始1時間程前から利用できる。

このことはバイブルとされる「塾生案内」にも「ニューズレター」にも書かれていない。妙なものである。ミニ講演会は、そんなこともある・・・程度にしか書かれていない。だからこそ慶友会等に入り通友を作って情報を仕入れることが肝要な訳である。

控え室には、試験初日の夜の試験官の先生方との懇親会や2日目試験終了後のミニ講演会の演題などが黒板などで案内される。これらは試験会場によっては開催されないこともある。あくまで地元慶友会の申請によってのみ開催されるのである。

 第5章 英語の必要性

彼に影響を与えた二つ目は「英語の必要性」であった。
こんなこともあった。ラスベガスのホテルで部屋の電話にメールが届いているらしい赤いランプが点いているので、直接フロントに出掛けて問い合わせたが、全く通じない。

そもそもフロントが「ミィエール」と猫が鳴くかのような発音をするのが「メール(郵便)」とは全く理解できず、応酬が続いた。 

「メール?」「ミィエール」「はぁ?メール?」「ミィエール!」「????」「*wdk;gokdko lm*。&%mmlpsji* ミィエール!」「・・・(汗)・・・・」そして踵を返して、すごすごとうな垂れて部屋に帰る。

英語の必要性は、彼は慶應通信を始めてた後、ドイツに視察に行くときにも、ドイツですら必要に迫られることになる。しかしラズベガスに視察する以前からそれは分かっていたことであった。だが差し迫って不自由を感じていなかった。多くの日本人はそうである。

その癖、営々と中学以来、高校まででも6年間英語を学び、「メール」一つ聞き取れない有様である。
井上一馬氏の『英語できますか?』に「合理的無知」が日本人から英語を遠ざけている話が出てくる。

それによると「合理的無知」とは経済学の理論だそうだ。 ひとつの知を得るメリットが、それを得るために必要な費用よりも大きくなければ、合理的に考えて、その知を得ることを放棄する。これが「合理的無知」である。

確かに島国日本では殆どの人は、合理的に考えて、英語を必死に学ぶことをしてこなかった。彼もまたそうだった。彼の新婚旅行はハワイだったが、これとて添乗員が居れば事足り、日本というバリアに包まれて外国に居ることが可能である。

 第6章 先に進むことが良いことにあらず

Mは1月の試験を終えたあと、4月試験の準備に入っていた。1月試験の結果は1ヶ月余りで判明する。それまでの間、不安定な心持で過ごすことになる。

年数回の試験のたびに、この結果待ちの期間があるので、ここで不安定になっていては年4−5ヶ月を無駄にすることになる。
Mは「終わったことは忘れるのさっ!」と見事に切り替えていた。
「すぐ次の科目に向かう」
しかしながら、それが、いささか早過ぎるきらいもあった。本当に効率がいいのは、試験が終わったら、直ぐに切り替えずに問題を反芻し、至らなかった所を見直し、十分反省してから・・・だから数日後ぐらいになるであろう。それがベストだ。

Mはその点、下手である。過去に拘らないのはいいとしても、しっかり見直し、見届けなければならない。これを”供養”ともいう。でないと化けて出てくる。実際、殆ど同じパタンーンで次回に出されて玉砕したこともあった。失敗から学んでいないのである。

Mは「私が過去を振り返らないのは、恐いからさ」と思っていた。
「過去は自分の傷口。それを見るには勇気が要る。出来るなら見ずに放っておきたい。臭いものには蓋だ」

また、こうも考えた。
「注射針が正に自分の皮膚を貫通する瞬間をまじまじと見ている奴がいるが、そんな奴の気が知れない。私は目を背けている。献血でも、血液検査でもそうだ。じっと見ていたら貧血になりそうだ」
・・・でMは科目試験の見直しをしていない。無論、議論の余地無く直さねばならないことだ。

 第7章 

ラスベガスの訪問先の社長が団員の一人に言った。
「君は英語が堪能だから私の車に乗りなさい」
彼は「・・・・・」

また、次の訪問先では会議が全て英語で終始する。無論、通訳がついていたのだが、彼を除く皆が英語を何とか理解し、通訳する前に、笑ったり、頷いたりとリアクションをするので、段々通訳はフェードアウトするかのように無くなっていった。

それにオーバーラップするように、彼の不安は増すが、他の視察団員のリアクションに合わせて、意味も分からず笑ったりする、その悔しさ。脇の下は他人の汗のように冷たかった。

彼はいつしか決意していた。(何としても英語をものにするぞっ!)

Mは4月の試験勉強のレベルを設定し直していた。その点、反省はしているわけだ。ただ、試験全体を通しての反省で、個々の問題を見直すことはしていない。

Mは通友にこう語った。
「最初の試験だった1月では見事、Dだったのであれ位の勉強ではだめなようだ。もう少しレベルと量と気力を上げて臨まねばならない」
通友のSは、「慶應通信の科目試験は資格試験のレベルで言うとどのくらいだろうね」
「そうだなぁ。少なくとも運転試験免許よりは難しい。英検3級程度だろうかな」とM。
Sは「英検3級とは意外だが、反って言い得てるかもね。つまりさぁ、分かっている人には簡単過ぎ、分からない人にとっては全くの難問ってわけだ」
先輩通友Lは「重要なのは科目によって異なることさ。Mは何受けるの?」
「法学(憲法を含む)だけれど・・・」
「無類に難しい科目だね。何度も落ちてる人がいるよ」

「日本史は何も情報を収集するまでもなく受けて、Dだった。そして、法学は受験する前から難しいとの情報を慶友会で聞いていたので、それなりに準備してきたんですが、日本史と比べてどちらが難しいですか?」Mは先輩通友Lに聞いた。
「これを比較するのは難しい。しかしあえてするなら慶應通信の単位を科目試験とレポートに分けて、その難易度を考えなければならないでしょうね」とL。
「Lさん、それはレポートが簡単でも試験が難しい・・・あるいは逆のこともあるということですか?」

L曰く「その通り。日本史はレポートはやや難し目、試験は難関。法学は両方とも難関」
Mは慶友会で法学部の普通課程を学ぶ通友に会うたびごとに、同じ質問をしてみた。両方の科目を受けていない人もいて統計データが取れるまでにはいたらないし、合格した人も個人差は相当見られて一概に言い難い。

この場合、個人差とは実力差と運である。だがMには傾向が漠然とながらつかめて来た。
新たに取り組む科目は、事前にこうして”威力偵察”をしておくといい・・・とMは体得して行った。

”威力偵察”とは敵陣に対して試しに攻撃を仕掛け、その反応から相手の戦力を偵察することである。
従って、学習に当たっては、まず攻めて(学んで)みなければ分からない。そうするとそれに対する反作用が返ってくる。
その上で経験者に問うてみなければ、お互いの頭脳やバックグランウンドの差を抱えているので評価を推し量ることは困難である。

「しかし、それでも尚、合格するくらいの勉強をしないと、その科目の自分にとっての難易度は分からないですよね」と先輩通友のLが笑みと共に諭す。

ラスベガスから帰ると、ディベートの対策が始まった。
“規制緩和で業界はどう変わるか“のテーマ。
「じゃぁ、規制そのものの勉強から始めなければならないなぁ。」
「規制は、法律や通達、行政指導というような形で存在するから・・・結局は法律の勉強をしなきゃならん」彼の独り言は段々小声になってゆく。言う端から厳冬の原野に水を蒔いたかのように、次々凍て付いてゆく。
「また大学院卒メンバーの中で唯一自分だけが法学部の門外漢だ・・・」

ディベートに向けての勉強会は、それから毎週のように開催され、11月初旬の本番までに12回開催された。結果、横浜の地で開催されたディベート大会は見事に優勝することができた。圧倒的な勝利であったのは彼の勝負への拘りだった。
しかし、勉強会が進む中で、彼は既に次のことを考えていた。

「法律の勉強を基礎からしっかりしないといけない。こんな付け焼刃のように、ディベートのためにお茶を濁すが如く、ちゃっちゃっぁーとやり終えてはいけない。」
「折角、法律を学ぶ必要性を肌で知り、また英語の必要性も恥を掻いて知ったのだから、今後どう学ぶか具体的に考えなければ・・・」
こうして、彼の慶應大学への入学動機は形作られていった。

Mは4月の科目試験の計画の他に、長期計画を立てていた。
「通信教育は通学と異なり、ペースメーカーがないことが大きな差異だ。通学では1年という時間が最低限のペースメーカーとって、クリアしないと留年のレッテルが貼られることでいやが上にもペースを意識する。通信ではこれがない。郵便物が届くだけ。留年通知も何も無い。自分でペースメーカーを作らなければ流されてしまう。これは極めて重要な短期卒業のためのポイントだ」
「それが長期計画だ。何年で卒業するか、その卒業までの計画だ!」Mは入学と同時にこれを作り始めていた。
(続く・・・日記に掲載中)

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