■移民と排日運動期(1900〜36年)■


なぜアメリカへの日本人移民が禁止されたのか?
 当時の日系人移民は、いつかはお金をたくさんためて日本へ帰ることを夢見ていたため、低賃金で懸命に働いていた。しかし、アメリカ本土ではあまりにも短い期間に日本人移民が殺到したため、仕事を奪われることを心配したアメリカ人による日本人排除の動きが強まった。そのため、日本人移民はかつて中国人移民が経験したようなひどい人種差別と戦わなければならなかった。日本人は法律で「気か不能外国人」と規定され、結局1952年までアメリカに帰化することができなかった。
 1900年、日本政府はアメリカへの移民を一時禁止したが、日本人移民に対する排除気運が高まり、サンフランシスコでは市民大会で日本人労働者排除が決議され、その後日本人への排除運動が激しくなった。1906年、サンフランシスコ教育委員会では東洋人学童排除運動が成立し、日系人児童は隔離された東洋人学校へ通うことを要求された。1907年の「紳士協定」をうけて、日本政府は1908年からアメリカへの日本人移民を制限した。
 大陸在住の一世の多くは、1909年頃までに何らかの形で農業に携わるようになり、その大部分がカリフォルニア州に集まっていた。彼らは農民として定住するにつれ、日本人農業組合を組織するなど、様々な形で連携することで、アメリカ西部の農業開発に大きな貢献をした。しかし、日系移民の農業の発展とともに、白人の反日感情も高まってきた。
 さらに、1913年にはカリフォルニア州を初めとし、その後数年してワシントン州やオレゴン州など9州で、実質的に日系人の土地所有を禁止する「外国人土地法」が成立し、日本人移民たちはアメリカ生まれの二世の子供(アメリカ国籍)の名義で土地を所有しなければならなくなった。当時アメリカでは、異人種間の結婚は法律で認められていなかったため、日本に帰って結婚相手を見つけるだけの資金がない男性は、日本にいる親戚を通して写真を交換することで結婚相手を見つけた。これが「写真花嫁」と呼ばれるシステムで、「写真花嫁」の渡米を日本政府が禁止するまで、1900年代後半から1920年の間に多くの「写真花嫁」が渡米し、結婚して家庭を築き、それにより日系コミュニティの発展が促された。やがてアメリカ生まれの二世が増えると コミュニティーも大きくなり、さまざまな社会活動を提供するようになり、二世に日本語と日本文化を教えるため、日本語学校も作られた。子どもたちは放課後、様々なクラブ活動やスポーツを楽しんで、毎日を過ごした。
 日系人は移民初期より、様々な人種差別に直面したが、1920年代に入り、排日運動の高まりの中で、ついに1924年、排日移民法が成立し、日本からの移住が完全に禁止された。こうした動きに対応して日系人は県人会や各組織をつくった。1930年には、その後日系人社会をまとめていくのに重要な役割を果たし、現在も日系社会に最も影響力のある日系アメリカ市民協会(Japanese American Citizens League)が組織された。
 1920年代後半から1930年代にかけ、二世の人口はどんどん増加し、やがて日系人コミュニティの大多数を占めるようになった。1940年頃には、二世の大部分はまだ高校生以下だったが、その数はすでに日系アメリカ人総人口の63%にまで達していた。
 二世はアメリカ大衆文化の影響を強く受けて成長した。公立学校に通い、クラスメートと同様に英語の本や雑誌を読み、ハリウッド映画やラジオ放送を楽しんだ。
 その一方で、彼等は一世の両親や日本語学校の教師から日本的な道徳心や文化を学んだ。このような二重の文化的影響を受けて、二世は日系アメリカ人となった。 

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