白虎隊と会津武士道(1話)
星 亮一(国際情報専攻 2期生) 2002/02/28
平凡社新書から上記の本を出すことになり、二ヶ月ほど、それにかかっていました。
二月末が締め切りだったので、昨夜、書き上げて原稿を送りました。
二年ほど前のことです。中国の東北部を旅行したときです。長春で東北師範大学外国
語学院の林嵐(りんらん)さんにお会いしました。彼女はここの副院長で、新潟大学の
博士課程を修了していました。日本文学が専攻で、学識のある、聡明な方でした。「星
さんは福島県ですか、白虎隊をもちろんご存知でしょう。私、大好きなんです」とおっし
ゃったのです。
「それは珍しいですね、どうしてですか」
「新潟にいたでしょう。皆さん、会津若松によく遊びに行くのです。私も行きました。感
激したわ」
林嵐さんは懐かしそうに言ったのでした。
白虎隊が必ずしも古臭い道徳的な話ではない、そのとき思ったのです。
私の追憶のなかにライシャワー駐日大使の思い出もありました。
大使が会津若松に見えたときです。大使はまっすぐ自刃した白虎隊士が眠る飯盛山に
向かったのです。 じっと墓石を見ていた大使が、「井深さんだ」と叫んだのです。
それが井深茂太郎の墓でした。井深の一族から明治学院の創設者、井深梶之助が出て
おり、そのことを知っていたのでした。白虎隊はインターナショナルだ、そのとき思っ
たのです。
そうしたこともあって、改めて白虎隊を考えたい、ということになったのです。
会津藩は幕末、といっても明治の直前、戦争に追いこまれました。
十六、七歳の少年で編成したのが白虎隊でした。
彼らは戦闘に出て敗れ、洞門をくぐって城が見える飯盛山にたどり着くと城下は火炎
に包まれていたのです。
城は落ちたと判断し、ニ十人が自刃し、一人が生き残ったというのが、簡単なあらすじ
ですが、林嵐さんがどこに、どう感動したのか、
「それはね,国家の危機に際し、身を挺して戦ったからです。中国にもいっぱいあるので
す。日本人はそれは古いといいますが、そんなことはありません。戦後の日本人は正し
く歴史を見る目がないように思えますが」それはショッキングな言葉でした。
彼女は信州大学で修士課程を終え、ドクターが新潟大学だったので、都合五年間、日
本で暮らしたのですが、日本人の道徳心の欠如、不甲斐なさには、しばしばあきれたと
いうことでした。
私はまずこの本で、白虎隊を取り巻く環境について書きました。
当時の会津藩には数人の外遊経験者がおりました。
幕府の外交使節の随員として、ヨーロッパやロシアを訪問していました。
これからの社会は世界との共存であるとして、一部の少年はフランス語の学習を行っていました。
教師は幕府の外交方の人間で、会津に支援に来ていました。教材はなく寺の一室で、スペルや文法を習うというものでしたが、その前向きな意欲は立派だったと思います。
あの時の戦争は一方的なものでした。
会津藩は京都に守護職として六年もおり、財政は破綻状態でした。
加えて鳥羽伏見の戦争で惨敗し、武器弾薬を放棄しての帰郷でした。
官軍が攻め込んだときは、老人も婦女子も槍をとって戦ったのです。
惨憺たる戦争でした。
次回は戦闘について述べましょう。