白虎隊と会津武士道(4話)

                       星 亮一(国際情報専攻 2期生) 2002/03/11

 

 明治、大正、昭和初期の三代にわたり星座の人と呼ばれた教育界の大御所がいます。 

その人の名前は山川健次郎といいます。幼少の頃はあの有名な白虎隊の隊員でした。

 十七歳のときアメリカ留学の機会に恵まれ、名門エール大学に学び、長じて東京帝国

大学に奉職し、薩長藩閥政府のなかで二度も総長を務めました。

 これは異例中の異例といってよいでしょう。この間、京都帝国大学、九州帝国大学の

総長も務めました。東北帝国大学の創立も深く関係しました。東京物理学校、現在の東

京理科大学の創立にも尽力しました。退官したあと武蔵高校、現在の武蔵大学、明治専

門学校、現在の九州工業大学の校長や総長も務めました。全国を歩いて教育談義も行な

いました。

 日本人初の東京大学の物理学科の主任教授であり、湯川秀樹、朝永振一郎ら日本の物

理学者は皆、健次郎の流れをくみ、有名な田中館愛橘、長岡半太郎は直弟子でした。

 風貌は巨眼炯々として会津武士の気迫がただよい、見るからに偉丈夫でした。終生清

廉潔白を旨とし、東京小石川の住まいは田舎臭く破れ別荘のようでした。

 芸妓が出る宴会には絶対出席せず、講演会に招かれても報酬は一切受け取りませんで

した。相当の堅物ですが部下や学生にはやさしい人でした。

 会津若松の戦争で破れた会津の人々は本州最北端の下北半島に流され、極貧の暮らし

を強いられました。それを思うと贅沢は出来ませんでした。

 山川の自宅にはいつも会津の青年が何人か居候していました。あるとき書生が勢いよ

く雨戸を閉めました。健次郎は手を挟まれ怪我をしましたが、とがめることはありませ

んでした。

 教育現場でも同じでした。健次郎はいつも学生や生徒のことを考えていました。

 大正八年、東京帝大の学生四人が山梨県北部の笛吹川上流の渓谷で遭難死する事故が

ありました。この知らせが入るや山川はただちに学生監を現地に向わせ、学生の家にも

職員を送り、遺体が荼毘にふされて遺骨が中央線の飯田駅に到着したときは自ら駅に出

迎え、涙を拭きながら遺族に弔意を述べました。

 若者の死がいかに悲しいか、山川はあの会津戦争で骨身にしみていたのです。白虎隊

士から東京帝国大学総長に上り詰め、明治、大正、昭和初期の教育界の大御所といわれ

た山川健次郎の素顔はこんなものでした。

 人々はそんな山川を「フロックコートを着た乃木将軍」といいました。

 一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名

になりました。それでいいのだと健次郎は考えました。いまの日本に求められるのは、

山川健次郎のような人物ではないでしょうか。

 次回は健次郎の生い立ちです。