白虎隊と会津武士道(5話)

                       星 亮一(国際情報専攻 2期生) 2002/03/14

 

 山川健次郎の生家は会津鶴ヶ城の北出丸に面した本二ノ丁にありました。

 山川家は代々、三百石の中級武士の家柄でしたが、祖父兵衛の時代に家老に取り立てられ、以

来、家老職の家格でした。父重固は郡奉行を務めましたが、安政七年に病没し、兄は不在がちで

この家は祖父が家長でした。

 祖父は真面目一徹の人でした。ただ少し変ったところがあった。新しがりやで、何でも人より

先に試してみました。洋式銃の優秀性に着目し、使用人に西洋銃を撃たせたり、種痘が天然痘の

予防になると聞くや家族全員にこれを施しました。

「西洋かぶれ」

 いつの間にかそういう渾名がつきました。

 それはうわべのことで祖父の真骨頂は忠実、厳格な人柄でした。毎日、誰れよりも早く出勤し、

帳簿を広げ、その精勤ぶりには皆、脱帽しました。

「お前は爺さまによく似てるわ」

 上の姉が健次郎のことをそういいました。

 凝り性の上、ほっそりした風貌もどことなく祖父に似ていました。祖父はもう八十になってい

ましたが矍鑠たるもので、杖をついては城下を歩き回り、昨今の動きを聞き回る日々でした。

 優しい母も昨今は懐剣を帯びていました。

「健次郎、何時敵が攻めて来るか分かりません。ぼんやりしていてはなりませんぞ」

 言葉も厳しくなりました。祖父も、

「虚弱ではだめだぞ、まずは体を鍛えねばならんぞ」

 と武道に励むことを勧めました。

 青瓢箪ー。

 健次郎は遊び仲間からありがたくない渾名を付けられていました。いつも青い顔をしていて、

剣道や柔術の訓練のときは、ふうふうと肩で息をする自分をどうすることも出来ませんでした。

健次郎は七人の兄弟姉妹でした。姉が三人、兄、妹が二人いました。

 兄の大蔵は風貌といい、度胸といいほかに並ぶベき者なき若武者で、若年寄に選ばれ、関東の

官軍に殴り込みをかけるべく日光口に出陣し家にはいませんでした。留守を守るのは祖父と健次

郎でした。

 慶応四年の正月から会津藩は未曾有の困難に遭遇していました。

 京都守護職という聞き慣れない役職は、京都で騒乱を起こす脱藩の浪士たちを取り締まるべく

新たに編成された武力集団でした。赴任して六年、事態は意外な結末を招いたのです。薩摩、長

州が同盟を結んで倒幕に転じ、将軍慶喜が大政を朝廷に奉還しました。これが裏目に出たのです。

 鳥羽伏見の戦争となり、幕府と会津が無残にも敗れる事態となったのです。これを知ったとき、

留守家族の衝撃は大きいものがありました。

「早々に会津に引き上げるべきじゃった。なんとしたことか」

 祖父は嘆きました。会津藩は何度も京都守護職の辞任を申し出たが、将軍慶喜はその都度、

「引き上げ相成らず」

 と会津を引き止めました。その結果がこの惨敗でした。

 兄大蔵は大砲隊員でした。大蔵は慶応二年に幕府の外交使節小出大和守の随員として欧州、ロ

シアに派遣され、西洋文明を学んで帰国したばかりでした。

 欧州での見聞を幕政やこれからの会津に生かそうとしていた矢先に戦争が起こったのです。大

蔵にとっても家族にとっても、これは予期せぬことでした。

 それから間もなく会津の侍たちが三三五五、悲痛な顔で引き上げてきたのです。

 兄はすぐ日光口の戦場に向い、家にいたのはごくごく僅かな日々でした。

 次回は健次郎の戊辰戦争です。