白虎隊と会津武士道(6話)
星 亮一(国際情報専攻 2期生) 2002/03/19
戦争の場面は省略します。
篭城一ヶ月,会津藩は敗れました。
「余の不行届により、皆に困苦を強いた。このようなことに立ち至り、無念の極みである」
主君容保はそう語り、二の丸の墓地梨子園に花を捧げ、さらに城中の空井戸をまわり、そこに積み重ねられた戦死者の遺体にも手を合わせ城を出たのです。
各部隊の隊長たちは、皆頭を垂れ、主君の顔を仰ぎ見る者はいませんでした。健次郎はこの模様を終生忘れまいと、じっと見続けていました。
官軍の兵士による人員改めが行われ、武器や什器は没収されました。籠城者の点検も行われ総員四千九百五十六人でした。うち婦女子は五百余人で、老人も五百人を越えていました。婦女子は城を出て近郷近在につてを頼って移り住むことが許され、藩兵は翌日猪苗代に分散収容されることになリました。
健次郎は猪苗代に監禁されました。
夜になると百姓一揆が起こり、庄屋に火が放たれた。夜通し百姓たちの雄叫びが聞こえました。秩序も失われ、世のなかすべてが地に落ちたという感じでした。
猪苗代は磐梯山の麓に広がる寒村です。目の前に猪苗代湖が広がり、冬は雪が多く寒いところでした。そこに幹部数百人が商家や農家に分散収容されたのです。責任者は兄大蔵でした。
「いかが致す」
日夜、大蔵のまわりに人が集まリました。
大蔵がもっとも気づかったのは主君容保の命でした。主君が謹慎中の妙国寺のまわりには大砲数門が向けられ、いつでも放てるようになっているということでした。
「健次郎、お前、官軍のところに参れ」
突然、兄が言ったのです。どのようにして行くのか、健次郎は戸惑いました。参謀の水島純が健次郎のほかに柴茂四郎、赤羽四郎、高木盛之助、原見三郎ら五人を選んで言い渡したのです。
「いいか君ら五人は若松の総督の陣営に行って、主君の助命を嘆願せよ。君らをどう扱うかによって藩に対する処分もきまる。いいか君らの一存で参ったことにせよ」
水島が命じました。これは明らかに謹慎所からの脱走でした。下手をすれば殺されないとも限りません。九月末の風雨の激しい夜、五人は猪苗代を抜け出して間道を若松に走リました。五里の道をひた走りに走った五人は無事若松の官軍本営にたどり着いたのでした。
「何者だッ」
五人はたちまち衛兵に掴まえられてしまいました。
「私たちは会津白虎隊の者、お殿さまの身を案ずるあまり、私たちの一存で、お殿さまの安否を尋ねに参りました。参謀さまにお目どうり願いたい」
健次郎は震え声でいいました。
「なんだと?」
少年たちは衛兵に首ねっこを掴まれて本営に引き立てられたのでした。
「拙者は土佐の伴である」
少年たちの前に現れたのは参謀板垣退助の部下の伴中吉でした。土佐藩というのは健次郎らにとって幸運でした。その表情はどこか温和で、どうなるかと体を震わせていた健次郎らはホッと安堵しました。伴は江戸の湯島の聖堂に学んだ人で、さすがは会津の白虎隊と健次郎らの行動に感心し会ってくれたのです。
「君たちが白虎隊か、そうか、そうか」
伴は感慨ぶかげにうなずき、
「腹は減っていないか」
と菓子や茶を出してくれました。健次郎らは菓子には一切手を触れず、
「お殿さまは、ご無事でしょうか」
と口々に聞いたのです。
「心配はいらぬ」
伴は言い、「水島君は元気か」と聞きました。
健次郎らはびっくりしました。
山川健次郎の生家は会津鶴ヶ城の北出丸に面した本二ノ丁にありました。
山川家は代々、三百石の中級武士の家柄でしたが、祖父兵衛の時代に家老に取り立てられ、以
来、家老職の家格でした。父重固は郡奉行を務めましたが、安政七年に病没し、兄は不在がちで
この家は祖父が家長でした。
祖父は真面目一徹の人でした。ただ少し変ったところがあった。新しがりやで、何でも人より
先に試してみました。洋式銃の優秀性に着目し、使用人に西洋銃を撃たせたり、種痘が天然痘の
予防になると聞くや家族全員にこれを施しました。
「西洋かぶれ」
いつの間にかそういう渾名がつきました。
それはうわべのことで祖父の真骨頂は忠実、厳格な人柄でした。毎日、誰れよりも早く出勤し、
帳簿を広げ、その精勤ぶりには皆、脱帽しました。
「お前は爺さまによく似てるわ」
上の姉が健次郎のことをそういいました。
凝り性の上、ほっそりした風貌もどことなく祖父に似ていました。祖父はもう八十になってい
ましたが矍鑠たるもので、杖をついては城下を歩き回り、昨今の動きを聞き回る日々でした。
優しい母も昨今は懐剣を帯びていました。
「健次郎、何時敵が攻めて来るか分かりません。ぼんやりしていてはなりませんぞ」
言葉も厳しくなりました。祖父も、
「虚弱ではだめだぞ、まずは体を鍛えねばならんぞ」
と武道に励むことを勧めました。
青瓢箪ー。
健次郎は遊び仲間からありがたくない渾名を付けられていました。いつも青い顔をしていて、
剣道や柔術の訓練のときは、ふうふうと肩で息をする自分をどうすることも出来ませんでした。
健次郎は七人の兄弟姉妹でした。姉が三人、兄、妹が二人いました。
兄の大蔵は風貌といい、度胸といいほかに並ぶベき者なき若武者で、若年寄に選ばれ、関東の
官軍に殴り込みをかけるべく日光口に出陣し家にはいませんでした。留守を守るのは祖父と健次
郎でした。
慶応四年の正月から会津藩は未曾有の困難に遭遇していました。
京都守護職という聞き慣れない役職は、京都で騒乱を起こす脱藩の浪士たちを取り締まるべく
新たに編成された武力集団でした。赴任して六年、事態は意外な結末を招いたのです。薩摩、長
州が同盟を結んで倒幕に転じ、将軍慶喜が大政を朝廷に奉還しました。これが裏目に出たのです。
鳥羽伏見の戦争となり、幕府と会津が無残にも敗れる事態となったのです。これを知ったとき、
留守家族の衝撃は大きいものがありました。
「早々に会津に引き上げるべきじゃった。なんとしたことか」
祖父は嘆きました。会津藩は何度も京都守護職の辞任を申し出たが、将軍慶喜はその都度、
「引き上げ相成らず」
と会津を引き止めました。その結果がこの惨敗でした。
兄大蔵は大砲隊員でした。大蔵は慶応二年に幕府の外交使節小出大和守の随員として欧州、ロ
シアに派遣され、西洋文明を学んで帰国したばかりでした。
欧州での見聞を幕政やこれからの会津に生かそうとしていた矢先に戦争が起こったのです。大
蔵にとっても家族にとっても、これは予期せぬことでした。
それから間もなく会津の侍たちが三三五五、悲痛な顔で引き上げてきたのです。
兄はすぐ日光口の戦場に向い、家にいたのはごくごく僅かな日々でした。
次回は健次郎の戊辰戦争です。