wars in me


戦争の記憶

2006.8.17 記憶を作る季節−夏

 私にとって、夏と冬は戦争の記憶を作る季節です。今年の夏も、8月6日、9日の原爆の日、8月15日の終戦記念日を過ぎ、記憶が作られました。テレビでは戦争関連の番組が放映されていました。しかし、今年はそうした番組をほとんど見ませんでした。今年、戦争の記憶を作ったのは、首相の靖国参拝報道でした。
報道をみて感じたことは、戦争の傷はまだ癒えていないということでした。戦争の傷はいつ癒えるのかわかりません。永遠に癒えないのかもしれません。侵略者つまり我々日本人が、侵略された側に心からの謝罪と賠償をしたとき、傷は少しはいえるかもしれません。原爆の被害者の傷も、同じく加害者の謝罪と賠償が傷の癒しになるかもしれません。でも、それでも傷はまだまだ痛み続けるように感じます。
私は、生まれてから死にいたるほどの加害を受けたことはありません。生涯に残る傷を負わされたこともありません。そうした傷を負わされたとき、自分はどんな気持ちになるのか正直想像できません。大きな傷はどうしたら癒されるのか、報道をみながらその答えがわからない自分が恥ずかしく思いました。


2006.1.4 記憶を作る季節−冬

 今年もまた戦争の記憶を作る冬の季節がやってきました。テレビではいくつも戦争ドキュメンタリーが放映されていました。その全てをもれなく見たわけではないですが、いくつかを見ました。そして、偶然なのか見たもののほとんどが沖縄戦に関することでした。
 私は、これまでの戦争の記憶の中で、沖縄に関することはほとんどありませんでした。それどころか、最近では、南国の夢の島のような印象がありました。常夏で青く美しい海、独特で健康的な沖縄料理、それらはとても魅力でした。世間でもテレビドラマの舞台になったりスーパーでゴーヤが普通に売られるようになり、沖縄料理店がはやるなど沖縄ブームと呼ばれるほど沖縄に人気が高まりました。私もいつか旅行に行きたいと思うようになりました。
 しかし、こうした世間の沖縄ブームや私の沖縄憧れに、なぜか母だけは全く同意しませんでした。むしろ、沖縄に嫌悪感すら感じていました。それは母はとても暑がりなこと、沖縄料理が苦手なことが一つ理由です。でもこれらは、些細な理由でした。母が沖縄に行きたくない本当の理由は、沖縄戦でした。
 母の沖縄嫌いは、過去に一度沖縄に行ったときに感じた雰囲気からきているようでした。一般市民が隠れたり最後に集団自決をした壕の中を見学したとき、なんともいえない感覚を味わったそうです。そしてそのとき体調を崩したそうです。母には壕の中の雰囲気が、沖縄全体から感じられるそうです。今でも戦争から切り離せない雰囲気、戦争の影のある雰囲気。とても開放的で明るい土地柄なのに、強烈に恐ろしい戦争の記憶がその背後にたたずんでいる雰囲気です。
 私は、母の感じた雰囲気をまだ理解できません。ただ、今年の冬テレビでみた沖縄戦の記録に、少なからずショックを受けました。そして、母の言っている事が、誇張や母の過剰な反応ではないように思いはじめました。私は、沖縄に旅行に行く願望が高まりました。そのときは、南国の夢の島にある母の感じた雰囲気を体験しに行くのです。


2005.11.28 収容所の楽しみ

 つらいときやかなしいとき、そこから逃れたりそれを忘れたり気持ちを落ち着かせる方法があります。私は、ご飯を食べておなかが満たされると少し楽になります。テレビを見たりするのも気を紛らわせることができます。さらにいいのが、楽器を触ることです。ギターやベースをもって音を鳴らしていると、すぐにその音に集中していままでのつらさや悲しさが遠くなります。弦を指で押さえて適当に音を出すだけで、むしろ楽しくなってきます。そういえば、以前精神的にあまり不安が多かった時期、毎日夜一人でギターをいじるのが楽しみでした。それは夜中であってもかまいません。むしろ夜中であるほど静かで音に集中できてより楽しくなりました。
対象は違えど、他の人にも私にとって楽器を触ることと同じ効果をもたらすものを持っているかもしれません。それをすると、きもちがすーと落ち着くものです。今までのことがみんな気にならなくなることです。むしろ楽しくなり前向きになり、今自分はとても有意義な時間を過ごしていると実感できるものです。
戦時下で、私は楽器を触ることができるでしょうか。収容所に送られた人や前線に送られた人にそうした実感をえら得る行為ができたのでしょうか。私は、収容所の生活を想像すると、そのような楽しみができないどころか、そうした楽しみがむしろ不快に感じるように思えてきます。気持ちが落ち着くこと、今までのことが気にならなくなること、それは楽しみでは解決できない気がするのです。楽しむことは悪である、不必要なことである、余計絶望させる、そう感じるのでした。
それと近い状況が私の日常にもありました。もう二度と会わなくなるかもしれない人と演奏するとき、また次も演奏しようと約束しないその場限りの演奏のとき、自分が演奏すると他の人が悲しむときです。こうしたときは、いくら楽器をいじってもむしろ哀しさが増すばかりです。それは、先の可能性、希望がないからです。
過去や未来のことはともかく今を大切に、という意見もありますが、私には未来の可能性、希望がとても大切なのです。戦争や収容所の中で、可能性や希望が得られるのか私には不安です。


2005.10.03 爆心地へ向かう

 新幹線に乗るといつもわくわくします。それは、今から自分の知らない世界へ旅立つ好奇心と楽しさがこみ上げてくるからです。また、車内で食べるお弁当などの食事も格別の楽しみです。駅のホームで買ったときから食べたくてしかたありません。そして、旅先で作られた旅の記憶はずっと自分のなかに残り、ときどき思い出しては宝物のようにその記憶を眺めて楽しむことができます。
 今年は、特に新幹線を乗る機会が多いです。どれも東京−京都間なので、もう自分の知らない世界ではないのですが、長年の習慣かやはり乗る度に興奮してくるのでした。それにお弁当の楽しみはいつも欠かしていないので、やはり何度乗ろうとも新幹線はわくわくしてくるのでした。
 しかし、唯一一度だけ、新幹線に乗るのが楽しくないときがありました。それどころか、いやでいやでしかたがありませんでした。あまりの憂鬱で何も口にする気さえありませんでした。普段なら目的地に近づくにつれて膨らむ楽しみが、そのときは憂鬱感と恐怖だけが膨らみました。何とか着かないでほしい。新幹線が止まらないだろうか、自分が病気になったら止まるだろうかとさえ考えてしまいました。
 その新幹線の行き先は、広島でした。私が小学生のとき家族で行った旅行です。目的は一つ、平和記念公園と原爆資料館を観に行くことでした。私は、資料館に展示されているだろうものを想像し、恐怖で身が硬直していました。その規模、内容ともにこれまで見てきたものをはるかに超えた恐ろしさがそこにある、そう思いました。
 広島につくと外はとても暑い日でした。この暑さの熱の何千倍の熱が街を一瞬にして襲い、人々を蒸発させ、黒焦げにしたのだと思うと、暑さの中でも身震いと鳥肌が立ちました。今、自分が歩いているこの足元にも、かつてたくさんの人々が焼け死んだんだと思うと、つま先立ちになってしまいました。原爆ドームのすぐ横に流れる川には、今も人骨が川底に沈んでいるのではないだろうかと想像し、恐る恐る川を覗き込みました。川は何事もなく流れていました。しかし、ちょっと目を閉じると私のまぶたにはたくさんの死体や死にそうな人々が浮かんでいる川の様子が浮かんできました。
 資料館に着きました。資料館の入館料は、子供60円くらいとただみたいな値段でした。しかし、そのことはさらに私の恐怖を高めました。ただ同然の値段にすることで、どんな人にも見てほしい、見るべきだという思いを感じたからです。それだけに、そこに展示されているものの重みが強くのしかかりました。生涯目に焼きつくものがそこにある、と確信しました。後年、アウシュビッツを見に行ったときも、入館無料でした。またさまざまな言語のパンフレットが用意されており、同じく全ての人に見てほしい、見るべきだという思いで満ちていました。
 資料館を見終わったあと、広島風お好み焼きを食べました。うちにはお好み焼きをたべる文化がなく、一度食べてみたかった念願の食べ物でした。おたふくソースというお好み焼き専用のソースがあることも初めて知りました。でも味は覚えていません。ただ、鉄板の上でじゅうじゅうとものが焼ける音だけが記憶に焼きつきました。この記憶も、ときどき思い出しますが、楽しくはありません。でも大変貴重で大切な宝物のように思います。


2005.9.26 記憶を作る季節

 半そでで過ごすには少し肌寒い気温になってきました。樹上からのせみの声が聞こえなくなり、代わりに足元から虫たちの声が聞こえました。季節は、秋に変わろうとしていました。私は秋に変わろうとするこの時期が、とても心地よく安心感を感じるのでした。それは、暑苦しさが引いていくためでもあり、私のすきな食べ物がおいしく食べられるためでもあり、日暮れの時間が早くなるためでもあり、空気が乾燥しすっとするためでもありました。
 もう一つ、私の小さいころからの記憶が安心感を生んでいる気がしました。私にとって、戦争の記憶はいつも夏と冬に作られるのでした。それはおそらく、夏には終戦記念日や原爆投下など戦争の重大な記念日があり、冬はまた東京大空襲や真珠湾攻撃などの記念日があるためです。そして、そういう記念日を前後して何度も戦争関連のテレビ番組や新聞記事を見たり、集会に参加していました。そのたびに、私は恐怖で憂鬱になり、それが記憶として残るのでした。
 夏が過ぎるこの季節は、戦争の記憶をつくる恐怖から開放される時期でもありました。もうしばらく戦争番組を見なくてすむ。その安心感がこの時期によみがえるような気がします。


2005.9.21 恐怖の写真

 私がまだ小さいころ、両親はよく反戦集会に参加していました。私自身何度もそうした集会に連れて行かれました。そうした集会では、必ず悲惨な記録写真がたくさん展示されていました。またあるときは、トマホークミサイルの原寸大模型が飾られていたりもしました。トマホークというこっけいな名前とその爆弾の冷たさがとてもちぐはぐで印象に残りました。私は、反戦集会で飾られた悲惨な写真を見るのが、いやでいやで仕方ありませんでした。それらの写真が視界に入るのがあまりに恐ろしく、鳥肌が立ち全ての気力をなくし気分が悪くなり、目を開けることもできませんでした。自分が生きてこの場にいることすら悔やみました。
 大学生くらいになってから、友人たちに反戦集会にいったことがあるか尋ねました。意外にも多くの方が少なからず参加し、記録写真を見たことがあるようでした。そして、さらにおどろいたことに、そうした記録写真を見ることにそれほど恐怖を感じていないようなのでした。けろっと見たことあるよと、語っていました。私は自分がよっぽどの臆病で弱虫なのかと思い、また気力をなくし自分の弱さを悔やみました。
 あるとき父の働く事務所に行きました。部屋の中に反戦集会のポスターが貼られていました。そのポスターには大きく悲惨な写真が載っていました。悲惨な写真が貼られた事務所でそれを見ながら毎日何時間もそこにいるなんて、尋常じゃない。そう私は思いました。なぜみんな平気なんだ。なんで怖くないんだ。なんで嫌にならないのか。私には、理解できませんでした。
 私の臆病は未だ変わりません。今でも、戦争の悲惨な記録写真をみると心臓がばくばくとして恐怖で体が硬直します。そして生きる気力すら失われそうになるのです。なぜ私がそこまで怖がってしまうのか、自分でもわかりません。その答えが知りたいです。


2005.9.12 母の話

 私が、アウシュビッツやホロコーストのことをいつ知ったのか、今では記憶にありません。それらの言葉を初めて聞いたとき、その意味を多少なりとも理解したときはいつだか、今では思い出せません。しかし、それらは学校の授業ではなかった気がします。授業で習った記憶はありません。
 一つ、はっきりと覚えている記憶があります。私が、小学生の終わりか中学生くらいのときです。母がヨーロッパに旅行に行き、アウシュビッツを見に行ったことです。旅行から帰ると、母はパンフレットを見せながらアウシュビッツのようすを話しました。そして、ある一枚の写真で泣いたことを話しました。その写真は、まだ5歳くらいの男の子が母親に手を引かれながら歩いている、それだけの写真でした。悲惨で目を覆いたくなる写真ではなく、それだけ見るとかわいらしい男の子だなとほほえましくもなる写真でした。しかし、写真の下に一つの説明書きが記されており、それが母が泣く理由となったのでした。説明書きには、「ガス室へ向かう親子」とありました。
 この母の話が、私にとってはっきり覚えている一番古いアウシュビッツの記憶です。そのころ、私はまだアウシュビッツやホロコーストがなんなのか知りませんでした。母の話を聞いたとき、その親子は何か殺されなければいけない特別な理由があったのだろう、もしくは、まれなケースでそういう悲惨なことがあったのだろうとさえ思っていました。ましてや、600万の人間が差別だけを理由に殺されていたとは、知りませんでした。しかし、その後うすうすその事実に気づき始めました。うすうす気づくと書くのは、決して私が能動的にそのことを知ったのではなく、テレビや親などを通じて受動的に見聞きしてきたからです。
 母の話を聞いてから約10数年後、私はアウシュビッツの地を踏みに行きました。それは、私のアウシュビッツへ対する初めての能動的な態度でした。母がいったい何を見たのか、アウシュビッツには何があるのか、いつしか知りたくなっていました。とんでもないなにかがある、そう感じてなりませんでした。


2005.9.07 焦土作戦の理由

 先日戦争のドキュメンタリー番組がやっていました。太平洋戦争末期、アメリカ軍がどのような過程で無差別爆撃による日本焦土作戦を決行していったかを解説したものでした。当時のアメリカ軍内では、一般市民や市街地を標的にした無差別爆撃について、非人道的であるという反対意見と、市民の意欲を挫き戦争を早期に終わらせるために必要だとする賛成意見が対立し、結局賛成意見が通され焦土作戦が決行されたのでした。
 米軍が無差別爆撃を決行するきっかけとして、ヨーロッパ戦線でドイツ軍、連合軍双方がいち早く無差別爆撃を決行したことがあげられていました。さらに、アメリカ軍が、新しく開発されたB29爆撃機を2000機近く注文し、使わざる終えないという政治的な背景もあったようでした。
 焦土作戦が決行されるにつれ、日本市民の意欲を挫くという目的にはあまり効果が見られないことが明らかになってきました。しかし、それをくつがえしたいのかより激しい空襲を行うようになり、やがて人々が疎開していた地方都市まで攻撃対象となったようでした。そして、文字通り日本のほとんどの都市は焦土と化しました。
 番組では、これらの内容をとくに批判を加えるわけでもなく淡々と説明していました。そのためか、私の理解力が足りないためか、結局なぜ日本焦土作戦が決行されたのか最後まで理解できませんでした。当時のB29爆撃機パイロットは、「飛行機の下で何がおきているか想像もしなかった。しかし、その後焦土化した日本の街をみて初めて自分がいかに残酷なことをしたのか理解した。」と話していました。
 実行した兵士や上層部の責任者が罪悪感をあまり感じないこと、これが焦土作戦を決行できた理由でしょうか。空から攻撃することで爆弾の落ちている状況を見ずにすんだこと、戦争を早く終わらせるアメリカの犠牲を減らすという正当性があること、爆撃機や爆弾の有効性をしめすという政治的背景、それらの複合が焦土作戦の理由なのでしょうか。私は、それらの理由では腑に落ちないのです。
 私には、焦土化にもっと強い意志を感じるのです。焦土化したいという願望すら感じるのでした。それはユダヤ人を絶滅させるという意志と同じようです。そして、その意志や願望は、純血を守りたいとか、野蛮な人種を排除したいとか、犠牲者のための報復だとか、頭で考えた理屈からうまれるのではなく、もっと誰でも持っている単純な願望なのではないかと感じるのです。ちょうど小さい子供のころ、アリの巣を埋めてみたり水を流したりなど、小さな虫たちに残酷な行為をしてみたくなるのと同じ願望です。そして、私自身そうした残酷・残虐な願望が少なからずある気がします。


2005.9.05 想像の夢

 戦争を体験していない人も、夢の中では戦争を擬似的に体験することがあります。夢の中の戦争体験も戦争の記憶の一つです。
 私もときどき戦争の夢をみます。私が見た戦争の夢は、大きく2種類に分けられます。ひとつは、実際に爆弾を落とされたり、戦地で戦ったりという直接的な戦争体験です。もうひとつは、現在と同じ状況で、戦争展などを見に行く夢です。前者の戦争体験では、ほとんど常に私の頭上に爆弾が落ちて最後は死ぬ夢でした。ある夢では、爆弾が空中に浮かんでいて、私がどんなに逃げても私の頭上に移動してくる爆弾がでてきました。いつ爆発するかわからず必死に逃げ続けましたが、しつこく追ってくるのでした。
 しかし、これは私の場合だけかもしれませんが、爆弾が落ちてくる夢は、あまり現実的に感じないのでした。爆弾の落ちる夢には、爆弾の音も風も温度も、体に感じる痛みや苦痛も、ありませんでした。ただ、爆弾が落ちて死にそうという怖さと焦りだけがありました。しかし、その怖さや焦りさえたいしたものではありませんでした。電車に乗り遅れそうという日常の焦りとたいしてかわりませんでした。そんな夢からは、恐怖はほとんど感じませんでした。
 私にとっては、2種類目の戦争の夢の方が怖い夢でした。戦争展や戦争博物館などに行く夢をみると、夜中に目覚め、その後もその恐怖がなかなか抜けず寝つけませんでした。夢の中では、たくさんの悲惨な記録写真がならび私の目に焼きつきました。私はそうした写真を見るたびに、恐怖と不快感と苦痛を感じるのでした。本当は、恐怖よりも不快感や苦痛の方が強いかもしれません。何で私はこんな写真を見なければならないんだ。気持ち悪いよ。怖いよ。はやくここから出たい。と心の中で悲鳴をあげました。その気持ちを表すように、夢の中の戦争展の展示会場はいつもやたらと広く、永遠に感じられるほど写真を見続けなければなりませんでした。私はその度に絶望的な気持ちになりました。
こんなに嫌なら、いっそ直接爆弾が落ちる経験をして慣れてしまいたい。とさえ思ったことがあります。生の悲惨な状況を経験すれば、写真くらいへっちゃらと思ったのです。しかし、本当に経験したら私の目にどれほどのものが焼きつくのでしょうか。今度は、音も風も温度も体に感じる痛みも、すべてあります。私はそれに耐えられるのでしょうか。想像が作り出す夢からは、まだその記憶は生まれません。


2005.8.25 アウシュビッツの事実は理解不可能か

 アウシュビッツの事実を知っている、といってもはたしてそれはどこまで知っているとそういえるのでしょう。その線引きはできません。実際に収容所にいた被害者や加害者しかその真実を知らないのでしょうか、理解できないのでしょうか。
 アウシュビッツの事実は、そのあまりに恐ろしい犯罪のために、もはや人々の想像や理解をはるかに超え、誰一人理解することができないと言われたりもします。アウシュビッツや他の絶滅収容所でおこったことを人々の証言だけをもとに描き出したドキュメンタリー映画に、『ショア』という映画があります。この映画で得られる証言はまさに人々の理解を超える恐ろしいもので、一切の記録映像や写真を写さないのにもかかわらずとても衝撃的な内容でした。しかし、この映画からわかったなにより衝撃的で恐ろしい事実とは、実際に体験した多くの被害者や加害者が、実際に体験したことを理解できず、記憶を失っていることでした。アウシュビッツは、単に肉体を消滅させただけでなく、人々の精神や記憶をも消滅させるものでした。そうして、肉体も精神も家族も友人知人なにもかもその個人と関係する一切のものを消滅させ、その人物が地球上にいた痕跡の一切を消し去ったのでした。あたかもその人物が初めから生まれてこなかったようにです。
 あらゆるものを消滅する絶滅収容所での事実を私たちは理解できるのでしょうか。そこにいた人は、何を考えていたのか、どんな恐怖を感じていたか、ガス室に入った人々はどんな気持ちだったか、加害者は死体の山を見て何を考えていたのか。私は、こうしたアウシュビッツに関わった人々の気持ちを今想像することができません。いつか理解できるでしょうか。しかし、記憶を失うほどの絶望と恐怖は、やはり理解不可能なのでしょうか。


2005.8.24 アウシュビッツの事実

 アウシュビッツについてある友達と話したことが、このページを開こうと思った動機といっても過言ではないです。私はその会話で少なからずショックを受けました。そして、「戦争に対する記憶はそれぞれの人で違う」ということを、このとき強く感じました。同時に、私が持っている常識をはっきりと気づかされました。私は、常識(世間の考え、多数の考え)で判断するのが好きではありません。多数の人が考えていること、多数の論理は正しいとは限りません。多数は、正しさの何の根拠にもならないと思っています。しかし、そのとき私自身もまた常識で判断していることを気づき、再度ショックを受けました。
 アウシュビッツとは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツが建設した強制収容所です。ユダヤ人絶滅収容所とも呼ばれ、毎日毎日何千人もの人々が殺されていきました。大戦中のべ100万人を超える人々が虐殺されたといわれます。人類史上最も恐るべき犯罪として、人々の想像と理解を超え、永遠に人類を悩み苦しめる事実としてあり続けるでしょう。
 その友達は、アウシュビッツで起こったことについて「それってほんとうにあったの?」と素朴に聞いてきました。私は、「アウシュビッツは事実として誰もが知っている」という常識をすっかり信じていました。しかし、そうではなかったのです。私の身近な友達も、その常識の中にはおさまりませんでした。私の持つ常識は、ある種私の願望でしかなく、それは簡単に崩れていきました。
 「アウシュビッツの事実は誰もが知っている」という私の願望は、しかし、変わりません。それは常識ではなくなりましたが、私の願いとしてむしろよりはっきりした気がします。人類史上最も恐るべき犯罪にも関わらず、だからこそか、その事実を知った後では、より幸福を感じられる気がします。知らねばならない義務的な事実ではなく、知ることではじめて得られる幸福がある事実だと思います。


2005.8.19 はじめに

 「戦争に対する記憶、意識、イメージは、それぞれの人で違ったものを持つ。」これが私が感じた疑問です。もしそうならば、60億の人々がもつ戦争の記憶の多様さは、どうして生じるのか、その謎を考えてみようと思いました。
 しかし、すべての人に戦争の記憶を聞くことはできません。このページでは、私個人の記憶をひたすら書き記すことにします。60億分の1の記憶など、何の参考にもならないかもしれません。しかしたとえば、未だ地球上に生物が何種いるのかわからない中で、新種を発見し一つずつ記録していくことが生物多様性の全容を理解するためには必要であるように、1つの戦争の記憶の記録も大切ではないか、そう私は考えています。
 戦争の記憶を記録するもう一つの理由は、記録せずに失われることの危惧です。再び生物の例をあげると、今地球上の生物種は年1000種が絶滅していると考えられています。そしてその大部分が未記載種、すなわちまだ誰にも記録されていない生物種です。こうした現状の中では、生物多様性の理解への道はますます遠のく気がするのです。戦争の記憶もまた、記録されずに失われていきます。むしろそのような記録を積極的に削除する、または記録しない動きすらある気がするのです。それでは、戦争とは何かへの理解から遠のきそうです。
 最後に、戦争の記憶が失われることは、よく言われる「戦争体験の風化」とは少し違います。これは、実際に戦争を体験した人、戦時に生きていた人が高齢などのために亡くなり当時の体験を伝える機会がなくなっていくことを指しています。私がいう、戦争の記憶は、実際の戦争体験に限定されません。戦争を体験していない人もまた戦争の記憶を持っています。つまり今日本に生きる戦後生まれの大部分の人たちの記憶です。それを記録せずに失うこともまた、戦争の記憶が失われることであると思います。
 このページを読んで、自分も自分のもつ戦争の記憶を記録したいと感じていただけたら幸いです。