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近況報告: 島根はどんなに田舎なんだろうかと思っていたけど、千葉県とあんまり変わらないです。もちろん、大都市に行けないってのがきついけど… |
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最近、欲求不満なのかイライラし気味。
そんな不満の捌け口として、ここにいろいろ書いてみようかと。
しかも、大衆に向けて発信するほどの勇気はないから、ひっそりと。
ちなみに前の日記みたいに毎日書いたりはしないです。
さすがにそこまで暇人ではなくなった…。
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ペイ・フォワード(2004年7月11日) 何年か前に上映していた「ペイ・フォワード」という映画をご存知だろうか? 有名な映画なので知っている人が多いと思うが、あらすじを一応掻い摘んで話すと、 誰か3人の人に親切にして、その親切を受けた人は今度は別の誰か3人に親切にするということをすれば、 親切な行為が連鎖的に生じ世界が幸せになるじゃないかという理論を構築し、実践した少年の物語だ。 結構単純な話なんだけれど、どうしてなかなか心を打つものがあったりする。 ところで、この映画で少年が組み立てたペイ・フォワードの理論をどう思うだろうか? 実は、こないだ、といってももう3ヶ月以上も前の話になるが、この話の話題が出て、思うところがあったのである。 僕は大学4年間を通じて障害者の介助をしてきたわけだが、最初の頃はともかくとして、 最後の方は自分が介助を続けていることの意義がわからなかった。 というのも、「個人に対して何かやっても、極めて限定的な効果しかなく、結局は自己満足にしか過ぎないではないか」 という気持ちが大きかったからである。 そして「個人を対象とするのではなく、包括的に何かをやるべきではないのか」と思わずにはいられなかった。 このことを稲田さんに話した時に出てきたのが、ペイ・フォワードである。 彼女が言うには、「誰かに親切にして、その人が喜んでくれて、そのことでまた別な人を喜ばしてくれればいい」と考えていたということだった。 この話を聞いて以来、自分の考え方が少し変わってきたような気がする。 といっても、僕が考えるようになったことは正確にはペイ・フォワードの概念とは異なる。 しかし根底においては共通するところがあると思う。 それは個人間の連鎖によって全体に好循環が生まれるのではないかということだ。 つまり「外部的からグループを対象として働きかる」ことをしなくとも、 「ある個人の行為が個人間に自然に連鎖し、結果として多くの人に好影響を与える」ことになるのではないだろうか。 少しわかりにくいと思うので、具体的に考えてみる。 例えば、包括的に働きかけるとは、ある小学校のクラスの学級委員が、クラスに「みんな、仲良くするように」と言うことに似ている。 一方、個人間の連鎖とは、AとBが仲が良く、またAとCが仲が良い場合に、BとCも仲良くなっていくことに例えられる。 僕は、あまりに包括的な働きかけの方に関心を奪われ、個人間の連鎖を忘れていたのかもないような気がする。 まぁ、だからといってどうなるものではないんだけど、でも個人間の連鎖を信じて生きていったら結構面白いかも。 「もし僕が誰かの好影響を受けて、何かを成して、それでその僕の影響を受けて誰か他の人が何かを成して……」って感じで、 好循環を生み出すような個人間の連鎖の輪の中に、自分も加われたらいいなぁ、と思う。 *コンテンツに課題レポートを追加しました。 勉強を重ねるにつれ、今後レポートの質が上がっていくはず(多分……)。 再構成(2004年6月15日) 前回の記述に関して、友人から司法修習生の陰口を言うのはやめるように言われた。 正直、修習生の陰口を言っているつもりはなかったので、驚き。 もし他の人たちも僕が言っていることを、そのようにしか捉えていなのであれば、非常に残念。 もっとも普段の言動に問題がないとは言えないから、そう思われるのかもしれないけど…。 仕方がないので、もう一度、わかりやすく書き直してみることにする。 司法修習生は特に目的があって法曹になったわけでないようなことを言っていた。 ↓ きっと恥ずかしかったのだろう。 でも、もし言ってたことが本当だったとしても、他の人が法曹になるべきだと果たして言えるだろうか? ↓ いや、言えないだろう。 なぜならば、本物の理想があれば他の人は彼ら以上に努力したはずだ。 ↓ つまり他の人たちが司法修習生以上に強い理想を持っていたとは言えないはず。 もしそれなのに理想を語っていたとしたら、それは擬制された理想だ。 ↓ 今、僕も理想を語ることがある。 でもそれは、本物の理想といえるだろうか?擬制された理想ではないのか? ↓ もし2年後に落ちたとすれば、擬制された理想にしか過ぎなかったのであろう。 とりあえず、頑張るしかない。 これで、別に司法修習生の陰口を言っているわけではないとわかってくれることを望みます…。 理想は本物か(2004年6月3日) この前、司法修習所で実習を受けている司法修習生5人の話を聞く機会があった。彼らの話を聞いていて驚いたのが、なぜ法曹になったかという質問に対する答え。彼らのほとんどが法曹になってすることを目的としていたのではなく、法曹になることが目的だったようなことを言っていた。「一番難しいといわれている試験に受かりたかった」って…。もちろん、みんなの前で本当に考えていた理想を語るのが恥ずかしかっただけの可能性が高いと思うけど、もし本当だとしたら、こんな人たちが法曹になるなんて、最低である。もっとしっかりとした理想を持った人たちが法曹になるべき…。 あれ?何かおかしくない? 法曹を目指す人はたくさんいるはずで、その中には弱者を助けたいと考え法曹を目指す人もいるだろう。なにしろ弁護士は社会の医者だと言われるぐらいだし。(もっとも、以前にも述べたが、弁護士のこの厚かましい自意識には笑ってしまう。でも、とりあえずそう本人たちが言っていることを信じて、同じように弁護士を目指す人もいるはずだ。)じゃあ、そういう人たちの方が、話をしてくれた修習生より立派な人間で弁護士になるべきだったのか……? ……??………。何か違うような気が…。 司法試験に受かる人間と落ちる人間の違いは何であったのだろうか?もちろん多少の才能は影響するだろうが、究極的にはどれだけの時間、集中して勉強をやったかなのではないだろうか?つまり努力の差。努力の差が受かるか、受からないかの違いだと思う。これを当てはめて考えてみると…。 「大した理想はないけど、努力した人」と「立派な理想はあるけど、努力しなかった人」 後者とはどういう人なのだろうか?理想がない人より努力しなかった人…。これは本当に理想があったと言えるのだろうか?僕は思うのである、「努力を伴わない理想は意味がない」と。努力とは理想への思い入れなのではないだろうか。ということは、努力をしないということは理想への思い入れは少ないということである。そんなものが理想だと言えるのだろうか?理想とは努力せずにはいられないものだと僕は思う。いくら立派な理想を語ったとしても、理想の実現のために努力をしないのであれば、画に描いた餅に過ぎない。対外的に認められるために擬制された理想であり、実質的な真の理想ではないのである。 今回、僕も自分なりに思うところがあってロースクールに進学したつもりだ。ただこの思いが本物かどうかはわからない。それは対外的に擬制された理想なのかもしれない。もちろんそうではないと自分では思っているし、そうあって欲しくない。 僕の理想として語っているものが本物かどうかわかるまで、あと2年。 非人道的行為とはなにか(2004年3月30日) 最近サボリ気味だったけど、久々に。この前、井手さんと稲田さんが新宿で送別会をやってくれた。西口で待ち合わせをしていたわけだが、その際「戦争反対」というプラカードを持って集まっている人たちを発見した。その光景を見て以来、ずっとある種の気持悪さが僕の中に残っている。 戦争に賛成か、反対かという質問があれば、僕も反対である。なるべく人が死なないことに越したことはない。しかしながら、集会をしていた人たちのように戦争反対と熱をあげて抗議する気には全くならない。戦争に反対する人たちの意見として、戦争は非人道的行為だという考えがあるが、僕は戦争を非人道的行為として責める気にはなれないのである。 こんなことを言うと、「戦争が起これば、多くの人が死ぬことになる。これを非人道的行為と呼ばずしてどうするのか。」といった反論が予想される。実際、イラク戦争では1年間で民間人が1万人以上死んだという報告もある。しかしながら、僕は思うのである。世界で餓えで死ぬ人はもっと多いではないかと。 もし罪のない人々が天命を全うせずに死ぬことを非人道的と言うのであれば、イラク戦争に反対するよりも、まず人が餓死して死なないような充分な援助をしていないことにたいして、反対すべきなのではないだろうか。しかしながら餓えて死んでいく人々に対して、戦争反対の大集会みたいな催しをされることはない。それとも非人道的行為とは、責任のない人々が死ぬことを指すのではなく、「人が人を殺す」という行為のみを非人道的とでもいうのだろうか。確かに「人が人を殺す」のは直接的であり、「人が餓えていくのを見殺しにする」のは間接的である。しかしながら、かけがえのない命が失われることに違いはないように思うのである。だから僕は戦争に反対と熱をあげることはできない。餓えていく人を見殺しにすることは良くても、戦争は反対というのは偽善である。 稲田さんは、「餓えていく人の現状ってわかりにくいからしょうがないよ」と、興奮して語った僕をなだめるように言ったけど、そういう「想像力の欠如」こそすごく怖いことなんじゃかいかと僕は思うのである。 続 男らしさ、女らしさ(2004年3月6日) 前回に引き続いて、読売新聞で問題になっていた日本人の「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」という意識について述べていく。前回はデータが本当なら日本大衆は100年経っても進歩していないと述べてきたのだが、この国別の比較データ自体が怪しい気がする…。というのも日本語と他の言語の間に存在するニュアンスの違いを考慮しなければならないからである。つまり日本人、米国人、韓国人に本当に同じ意味の質問をしたとは言えないのではないかということである。読売新聞の意見では、男女の仕事や役割における差別はもちろん許されないが、男女は異なるものであり性差まで否定するのはおかしいとしている。この文面からわかることは日本語で「男は男らしく、女は女らしくあるべきか?」という質問には、役割における男女の違いと性差による価値観の違いの両方の視点で問われているのである。もし英語であるならば役割における男女は違いは「gender」の違いとして、性差による価値観の違いは「sex」の違いとしておそらく表現される。そして米国での「男は男らしく、女は女らしくあるべきか」という質問法は「sex」の観点から質問したのではないだろうか。そうであるならば、[gender」「sex」の両方の意味合いで問われた日本よりも、「sex」の視点からのみ問われた「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」という意見に肯定的な人間が増えるのは当然となるのだ。 まぁ実際のところはどういう質問だったのかわからないが、これだけは言える。僕の周りの男女は間違いなく両者で価値観の傾向が異なっている。だから「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」という意見に日本人が否定的であるからといって、男女の価値観の傾向の違いがなくなっているというわけではなく、あまり心配する必要はないじゃない? 男らしさ、女らしさ(2004年3月1日) もう3週間か1ヶ月も前の話になるんですが、読売新聞に男らしさ・女らしさに関する国別のアンケート結果が出ていました。それによると「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」という項目に関して、日本は合衆国や韓国に比べて極端に意識が低いということが明らかになり、読売新聞では問題だとして、それ以降何度か取り上げています。その主な問題点のひとつに過度な男女平等の徹底が挙げられています。つまり日本では過去の男尊女卑を改めるための徹底した男女平等を目指すあまり、男女に全くの差異を認めないとする教育姿勢が、このような結果を生んでしまったということです。僕は中高ともに男子校だったので、教育現場における実態はわからないのですが、新聞に書いてあるような状況であるならば同意見です。しかしながらもしそうであるならば、日本というのは全く進歩しない国だなと思えてきます。というのも、このような意見ははるか以前から存在していたのです。僕は日本史選択をしていなかったので詳しい事は知らないのですが、確か明治・大正の女性解放運動者の平塚らいてうは女性としてのアイデンティティを否定することのない男女平等を訴えていたはずです。つまり男女平等といっても性別の否定を訴えていたわけではないのです。そして、あれから100年も経つというのに日本人は同じことを、そのうえ日本でもっとも売れている新聞において論じているのです。ほんと進歩がないというか、なんというか…。そもそも日本人というのは平等と公平という概念をいつもごっちゃにして考えているような気がします。平等というのは基本的に差異を認めないであり、公平というのは差異は認めつつも優劣はないというものです。僕なんかは男女平等を求めるのではなく、男女公平を目指すべきだと思うんですが、どうでしょうか? (次回に続く) 恋愛論(2004年2月14日) 一体、何人の人々がこのタイトルを論じてきたか、計り知れない。やはりそれだけ恋愛というのは不思議なものであり、かつ一般的なものである。今日はこのことに関して僕も述べてみようかと思う。 さて、ご存知の方もいるかもしれないが、僕は男女問わずあまりに多くの恋愛経験を持つ人や離婚を繰りかえす人があまり好きではない。これは僕が単に保守的だからだと思うかもしれないが(実際にそうなのだが)、一応自分なりに理由を言わせてもらえば、彼らは動物臭いのである。 僕は人間を考える際に、動物としての人間・人としての人間の二面からアプローチする。というのも、人間も一種の動物である以上、他の動物、特に霊長類との共通性を無視して考えることは無意味であり、かといって人が人たる所以を完全に放棄するのも無意味であるからである。 人間にもっとも近い霊長類の場合を考えてみる。霊長類の場合、オスとメスが出会い、気が合えば交尾をすることになる。ここで重要なのは、オスとメスが単に出会っただけでは交尾をするとは限らず、選別が行われることである。そしてお互いが納得いく相手が見つかった時点で交尾が行われるのである(ただし、人間外の霊長類でも強姦は存在する)。人間の行動パターンも、この霊長類の行動パターンと基本的に同じであるといえるのではないだろうか。男女が出会い、お互いが恋という感情を持つことになれば、付き合うことになり、セックスをする。つまり恋という感情を持つことは人間だけではなく、他の霊長類にも存在するのである。 しかしながら、交尾・セックスの後、人間と他の霊長類では行動パターンが異なる。他の霊長類では交尾の後は別れ、お互いがまた別々のオスとメスを見つけ、気が合えば交尾することになる。つまり他の霊長類はいわゆる乱交なのである。これに対して人間はどうだろうか。単なる恋人であっても基本的にその間は他の異性とのセックスは禁止される。さらに結婚という契約をしてしまえば、契約を破るか、他の異性とのセックスを(表面的には)しないかのどちらかである。 この人間と他の霊長類との違いを生み出すものは何であるのだろうか。それは人間と他の霊長類がともに持っている感情から発生しているのではないと思われる。そこには大きな違いはないからである(出会った初めは感情が高ぶるが、やがて必ず倦怠期は訪れる)。この違いは人間と他の霊長類との根本的な違いである理性=意志の有無に発生しているのではないだろうか。そして僕はこの意志こそが愛というものの本質であると考えている。 つまり僕が言いたいのは、相手を好きになるという感情的なことはサルにも出来ることで、その関係をどうにか維持して発展させていこうとする意志的なことこそが人間にしかできないということである。恋愛とは本来的には感情と意志の二つが合わさったものであったのである。しかしながら今の時代、恋愛における恋=感情的な面ばかりが強調され、意志的な面を忘れているのではないだろうか。もっとも、意志など関係なく感情におもむくまま恋愛するのが悪いのかと尋ねられれば、NOとしか言えない。確かに悪ではない。しかしそれでは人間が人たる所以である意志の放棄をし、動物に戻ることとなんらかわりがないのではないだろうか。 よって彼らは動物臭くて、僕には耐え難いのである。 *本文は今日チョコがもらえなくてひがんで書かれたわけでは決してありません。 体罰について−九州大学法科大学院一次試験−(2004年2月7日) 九州大学法科大学院一次試験問題 体罰は躾の一つとして許容されるものである。人は他者と必ず関わって社会生活を営んでいかなければならない以上、社会生活で必要とされるスキルを身につける必要がある。その役割が躾であり、躾とは反復練習をさせるものである。つまり、子供に社会的に許容されない行為を行った時は、必ずやめざるを得ないという反復学習を繰り返すことで、社会的に許されない行為をさせなくするのである。ただし、言葉で言っても行為を止めない場合がある。このような場合には体罰という物理的処置で行為をやめさせなければならないので、体罰は躾には必要不可欠である。そしてこのような体罰が、体罰を行う前の言葉での注意に、その後にある体罰を予感させることで、ある程度の強制力を持たせるのである。つまり体罰とは、行為を物理的に止めさせるという側面と、言葉での注意で行為を中断させることを促進するという側面の二つがある。 以上述べてきた私の体罰の定義からすると、作者の「体罰を加える者は、大きな責任の伴う行為であることを自覚した上で、全人格をかけた行いとして毅然として実行すべきであろう」という結論には賛成である。しかしながら、作者が実際に行っている行為は体罰とは言えず、ただの暴力行為だと言わざるを得ない。というのも、最初に述べた通り、躾とは社会的に許されない行為は止めなくてはならないということを反復練習して身に付けさせるものであり、作者が口頭で注意すればこと足りるからである。もしも、口頭で注意しても行為を止めない場合に初めて体罰という物理的処置がなされるべきである。また作者の感情的な言葉は子供を傷つけやすいので、体を痛めつけた方が良いという意見にも賛成しかねる。筆者が述べる通りに、小学生に非を説き聞かせるのは効果的ではないかもしれない。しかしながら、「小学生ともなれば、自らが誤った行為をしていることは十分承知」しているのだったら、「やめなさい」と一言声をかけるだけで十分ではないだろうか。説き伏せようとして感情的な言葉を発する必要などないと言える。それでも止めないときに体罰をすれば良いのである。作者が述べたように、子供が突然思いもしない所から暴力を振られたならば、それこそどれほど子供の心を恐怖で傷つけるか計り知れないのではないだろうか。そう考えてみると、作者が行っている行為こそ社会的に許されるものではない。 離婚保険とは驚いた (2004年2月3日) 学期末試験シーズンにさしかかり、毎日図書館が混んでいてうんざり。 僕自身はもはや単位をそろえてしまっているので、なおさら。 試験前になって慌てて勉強するなよ…。 さて、他学部同様、経済学部もいよいよ試験期間に突入したのかな。 実は今期の経済学部の講義に損害保険という選択科目がある。 僕自身は受講したことがないのだけど、ちょっと面白い話を友達から聞いた。 どうやら損害保険のひとつとして離婚保険というのが誕生する(した?)らしいのだ。 どういう保険かといえば、想像の通り、離婚した際に保険金が下りるというもの。 このような保険が誕生する理由として、 今現在では法律により離婚後養育費の源泉差し押さえが可能となったが、 それまでは離婚後養育費を払わない男が9割だったとか…。 どうしようもないですな、ほんと。 それにしても、このような離婚保険なんかを聞くと、結婚はやはり一種の契約に過ぎないんだなという思いが強くなる。 つまり結婚は愛なんてものとは関係なく、生活上のリスクを軽減するための契約でしかないということである。 まぁ、こんなことを僕が改めて言うまでもなく、みんな思っているんだろうけど。 そもそも、ただお互いが愛し合っているだけなら、結婚という形式をとる必要はないはずだし。 内縁で暮らしていけばいい話だもの。 ただ内縁では別れた時に、契約違反だと訴えることができないから、 だから結婚という形式の契約を交わすことになる。 そして契約を交わした以上、契約違反(この場合共同生活が成り立たなくなる状況を作ること)をすれば、慰謝料という名の違約金を請求できるようになる。 ではなぜ共同生活が必要か。 それはやっぱ子供なんだと思う。 特に女性はその意識がものすごく高いかも。 というのも、ある女の子との話で、「結婚している男と付き合って、結果として離婚させてもいいんじゃない?出会うのがどっちが早いかの問題だし、それは。」と言っていたのを記憶している。 かわいい顔して言うこと怖いなぁと思ったわけだが、続けて、「でも結婚して子供いる場合はどうかと思うよ」とも言っていた。 実はこの考え、この女の子特有の考えというわけではなく、また別の子からも後日聞くことになった。 だから、もしかしたら、女の子にある程度共通の意識なのかもしれない。 つまり子供がいる家庭は守らなくてはならないという女の子同士の暗黙の了解が存在する。 それは自分が子育てをする際にだんなを取られてはたまらないという意識の表れと言えるんじゃないかと思う。 そう考えてみると、結婚というのは愛ではなく子育てのためにするもんだと言える。 まぁ、人間も動物である以上、自己の遺伝子を残せるよう最適な行動を取っていると考えればもっともなことなんだけど…。 単純に「白い巨塔」に影響されただけなんだけど (2004年1月30日) 医者になる人ってどういう人なんだろうか。 単に人を助けたいからって純粋に思って医者なった人ってどれくらいいるものなんだろう。 知り合いに医学部の人いるから、なおさらそう思う。 もちろん彼らが悪い人だとは思ってない。 僕なんかよりずっとまじめだし、それなりに理想も持ってるしね。 でも、それでも違和感を感じる。 彼らの理想って薄っぺらくないかなと。 要するに教科書に書いてあるような理想かもと思ってしまう。 だって、彼らがどうしても医者になりたいと決意することを裏付けるほどの重大な経験なんてほとんどないように思える。 だいたい医学部受ける人って異常に成績良いけど、それって医者を目指して頑張って勉強した結果なのかと思う。 成績良いから医者を目指すようになった人の方が多いと思う。 そうじゃないとおかしい。 全国トップクラスの成績の人間は、どの大学のどの学部にも入れるはずなのに、 実際のところは、ほとんがど医学部志望なんて。 個性のかけらもあったもんじゃない。 つまり、人を助けたいっていう純粋な動機から医者になるやつなんてほとんどいないのかもしれない。 そう考えてみると、医者に人間性を求めるってのは土台無理な話になってくる。 彼らのほとんどは人を助けるという医者の本質的な部分ではなく、 医者という職業のもつ名誉、もしくは周りの期待に従っただけで、自分の価値観に従った正義で医者になったわけじゃないんだから。 もっともこれは医者になる人間に文句を言っているわけではなく、 医者も普通の人間と一緒で、名誉や権力に憧れるもんで、他の職の人々よりも 良識を持っていることはあり得ないって言っているだけなんだけど。 あと医者ほどではないけど弁護士に関しても同じようなことが言えるかもしれない。 それなのに、「弁護士は社会の医者」という表現があるのは驚き。 馬鹿げているとしかいいようがない。 僕の父親を見ればわかるけど、「社会の医者」なんてことはしてない。 会社の破産手続き関係の仕事がほとんどだし。 なにしろ、会社を破産させるためにお金取るんだからねぇ…。 まぁ別に父親を批判しているわけではないけど。 悪いことをしているわけではなくて、労働の対価としてお金貰っているわけだし。 でも、「社会の医者」なんかではないね。 普通の市民と同じで、仕事して少し高めの対価を貰っているだけ。 それなのに弁護士は「社会の医者」なんて厚かましいことよく言えるなぁと思う。 |