第一章 社会のなかの個人

 普段、私たちが日々生活を送っている中で、「社会との出会いとはどのようなことか」などということを考えて生きているだろうか。しかし、私たちは「社会」だと強く意識するときもあるが、ほとんどは無意識のうちに社会生活を営んで、自然と溶け込んで生活していると思う。ただそれとなく過ぎていると思う。

 しかし、そんなただ過ぎている中でも観察と理解をしている。観察をするには、観察者の「眼」がどの位置にあるかが大切になってくると思う。自分がどの位置で外部からか内部からかと観察するのかが大切だと思う。特に、社会科学ではとても大切なことだ。人間の行為を理解すること、あるいは人間の社会を理解することは、自分とは異なる他者が何を考え、どのように行動するか、ということを理解することである。

 次に、説明と理解である。現実と仮説との対応関係がうまくつくときに、説明が成り立つ。社会科学でも、自然科学と同じように、仮説をたててそれを検討していけば、このような科学的な説明がかなりの程度可能になる。説明は、人に伝えるのに必要なことで、それにともなって理解もできる。

 三つ目は、観察でもなく、説明でもないような社会理解の方法を、社会学者のWG・ランシマンになって、叙述がある。習慣、伝統、常識、規範、規則などと結びつけたり、あるいは過去から将来に向かって述べられてきた社会観や世界観と関連させたりすることによって、社会を的確に理解することを行ってきている。

 社会を理解し、社会に出会うために、およそ三つの方法がある。三つとは、観察、説明、叙述である。社会は、直接手で触れることもできないが、ほとんどは直接手で触れることはできないし、直接眼や鼻や口を通じて感じることも不可能だ。直接体験したことから類推したり、組み合わせたり、考えるための論理を強化したりしてようやく到達できるものである。それは確かなことである。社会は、社会の中の自分自身を写す鏡であり、直接的に感じたり、間接的に感じたりして社会を営んでいくと思う。だから、多くの人と接したり、自分から色々な所へ行ったり、たくさんのことを体験する必要があると思う。

自分について

私が今まで生きてきて、「自分について」なんて考えることはなかなかないことだろう。また、自分に向き合って自分自身のことを考えたり、自分はどんな人間なのだろう・・・なんて考えない。今回、このテーマを機会に私自身を見てみたいと思う。私という人間は、一体何なんだろうか。一言で言えば、単純な人間だと思う。喜怒哀楽が激しく、つかみにくいと思う。さっきまで落ち込んでたと思ったら、すぐに何かいいことが起きるとテンションが一気に上がりニコニコする。しかし、落ち込んでいる時の私は、大変なマイナス思考であり、どうしようもなく周りが何を言ってもダメなのである。それは、恋愛面で多い。私の性格は、明るく変に負けず嫌いであり、なかなか強情ぱりで、正直になれなくて好き嫌いが激しいと思う。また、口では強がりやきついことを言っても、心では相手のことを考えてしまい、何もできなくなってしまう。周りからは毒舌とか言われる。あとはこのナマリを大切にしたい。でも、そろそろ直したい。また、あきっぽい性格である。何かをやろうと思い、最後まで達成することがなかなかない。例えば、受験などでテキストを買っても、最初の23ページぐらい手をつけたぐらいで別のテキストを買ってしまったりする。そのあきっぽい性格をどうにかしたい。良くないことだ。今まで何でも中途半端に終わってり気がする。しかし、今、私には「夢」がある。それは絶対に諦めたくないし、実現させたい。しかし、この夢達成は、なみたいていのことではない。いつもは、諦め中途半端で、変なところで負けず嫌いな私であるが、この夢は絶対に諦めたくない。いつも、どこかでこのぐらいでいいやとか楽な方へ逃げたりして何回か後悔した。妥協とかはしたくないので、努力する。普通の大学性活を過ごすのもいいが、それでは充実しない。だから、自分に自信を持って、大きな人間になりたい。変わりたい。

第二章 社会とはなにか

社会または社会科学を構成するのは、私たち人間である。しかも複数の人間の存在が必要である。例えば、ニホンザルの集団のボス決定のメカニズムは、サルの中にも信頼度、ケンカに強い雄がボスになる。人間のように多数決で決めたり、話し合い、選挙制度のようなものはない。サルの中にも社会は存在してると思うが、曖昧なもので人間のような社会ではないと思う。私たち人間は、制度を中心として社会を営んでいると思う。その例として「学校」の制度の形成が良い例である。その制度の中で、自由、人間関係、集団生活の秩序を維持したりする力、集団の存続を危うくする要素を悪とするような判断の基準を付与されることによって、規範を含む文化が形成される。それによって、社会に参加する個々人を、その社会に適合するように社会化する主体として機能する。社会生活を営む糧を学び、理解していくのが学校であり、制度だと思う。  また、社会のもっとも基本的な構成単位は、二人の人間の間の相互関係、相互行為である。つまり、この本質をどこに見いだすかが、社会科学にとって大切だ。法律学、政治学、経済学、社会学がある。この四つは、うまく社会関係、経済的な交換に相互関係、人々の相互関係など二人以上の人間が関わっていることがわかる。私たちが生活をする中で、二人以上の人間が存在すること、社会の成立には大切である。最後に、社会科学には二つ社会観があり、それは根底にあり、論争の上で対立してるが今日の社会科学にとって切っても切れない中である。

第四章 問題の発見

私たちが生活している中で、「問題」は色々な所にあり、私たちの周りに渦巻いている。しかし問題とは、必ずあるものであり、なくてはならないものだと思う。「問題とは何か」や「問題の発見」をいざ探してみると難しく、逆に「解決」する方が簡単かもしれない。問題にも、様々な区別があることが分かった。今までは、問題はすべて同じようなものと考え、区別があるなんて考えてもみなかった。一つ目は、「解答がある問題」、二つ目は、「解決すべき問題」、三つ目は、「克服すべき問題」である。確かに、この章を読んでみて、三つの区別があると思った。問題には、一つだけの答えもあれば、たくさんの答えがある場合もある。例えば、算数などの教科には一つの答えが求められる。しかし、自分自身が抱えてる問題や国が抱えてる問題には、一つの答えはないと思う。将来のことであったり現在のことであったり、一つの答えしかなかったら、視野も大きくないし、一つの型にはまってしまい、なんのおもしろみもないと思う。また、こうなったから、後からこうしようというような解決方法もあり、問題解決の方法には、様々な種類がある。そして、それが「発見」につながってくると思う。自分自身の経験が発見につながったり、何も分からない状態で何か発見したら、楽しいことだし自分のためにもなる。私たちが生きている中で、問題・解決・発見があることは大切なこてであり、これらを繰り返し生活するのが人生なのかもしれない。

総合講座1 

人間は、なぜ戦争(軍事的な考え)を繰り返すのだろうか。しかし、この繰り返しを経て今の時代がある。   そして今日、我々が目標とすることは、一つだけの国だけに限定されず世界規模になっている。日本が戦争をしていた時代、人々は特攻隊などをし、みんなが国のために戦った。この時代(戦前)は、国家の支配が強く、国に抑圧され縛られ国家なしでは考えられなかった。そのため、犠牲者を多く出し、東南アジアや中国などを侵略した。それは自分一人一人の人間のためではなく、国家のためという意志があったからだ。しかし、今日の時代は正反対である。人間そのものの時代であり、自らが動く時代になっている。そう思うと、戦争は愚かなことだと思う。ここで大切になってくるのは、人間の安全保障である。我々は、『安定・人間らしい生き方』を願っていると思う。仮に、ここで日本で地震が起きたらどうなるだろうか。今まで生活していたことが、一瞬にして変わってしまう。このことは、日本で起きた問題ではあるが、日本だけではどうにかできることではないと思う。その時に、NGOだったり、他の国々のボランティアの人々が一人一人の意志によって行動する。戦前までは、国家が政府がという時代から、個人・人間という考えになり、一人一人の人間の自由、政府以外の人が人間を守っていこうとする考えになっている。これは国境を越え、多民族同志の紛争をなくし、グローバル化を進めることが先決である。一つの型にはまらず、グローバル化として物事を見て、解決することが我々人類がすべきことである。

総合講座2

21世紀になり、日本も アメリカなどの先進国に続くITを活用する国になるだろう。そして、インターネットの普及でますますの社会変化が起こる。そこでキーワードとなる言葉は、『電子政府』である。電子化以前はは、すべて書類のやりとりであったが、電子化以後はコンピュータで今まで紙で行ってきた手続きを情報ネットワークや電子データベースを使うことで時間が短縮され、色々なことがスムーズにできるようになった。今まで倍かかっていたことが、ボタン一つを押すことで瞬時にできるということは、何事も効率的にできる時代だ。例えば、電子申請ができれば従来なら市役所に行かなければならなかったが、インターネットを通じて自宅や外出先から申請できる。そして日本は、今ある政府は行政を電子化しなければならない。200011月のIT基本法、20011月のIT戦略本部『e-Japan戦略』を定め、2003年をめどに『e-Japan戦略』はIT国家をめざしている。公共料金をインターネットで払ったり、住民票をインターネットで取り寄せたり何年か前には考えられなかったことができるようになると思う。技術の進歩は恐ろしいことだ。今まで想像していなかったことが急速かつ革命的、現実的になり、市場原理に基づき民間が最大限に活力を発揮できる環境を整備する暁には、日本が世界最先端のIT国家になることは夢ではないと思う。それに、無駄を省いて効率的になり、安全な形で行政と人々との間をつなげ、無理な区情報が入るようにし、IT国家をめざす時代になっている。そんな中で、我々のよりよい生活が得られるだろう。

 

第五章 認識のプロセス

社会事象の「認識」=「知ることを知る」ということである。私たちの生活の中で認識は自然と行われているいるものであり、認識してるなど実感することはほとんどないだろう。一番簡単な認識の方法としては、子供の頃に始めてみかんに接する機会があるとすれば、みかんの臭い、形、重さ、色、味などで子供はみかんと判断し認識するのである。それは、子供は認識しようと思っているのではなく、ごく自然にみかんという存在として頭の中に残るだろう。よって、この先みかんがあれば、前にあげた特徴でみかんと自然に認識する。社会事象の「認識」=「知ることを知る」ということである。私たちの生活の中で認識は自然と行われているいるものであり、認識してるなと実感することはほとんどないだろう。一番簡単な認識の方法としては、子供の頃に始めてみかんに接する機会があるとすれば、みかんの臭い、形、重さ、色、味などで子供はみかんと判断し認識するのである。それは、子供は認識しようと思っているのではなく、ごく自然にみかんという存在として頭の中に残るだろう。よって、この先みかんがあれば、前にあげた特徴でみかんと自然に認識すると思う。
社会科学における認識において帰納と演鐸の二つの形態は大切である。帰納は、複数の個別的な経験的事実から一般的法則を導き出すことである。いくつかの経験から最終的には一般法則を結論として出すのである。社会科学の帰納とは、十分な数の事例を客観的に観察し、一般法則、つまり理論を導き出すということである。演鐸とは、すでに存在する一般法則から個別的な命題を導き出すことである。社会科学における演鐸は、すでに存在する理論から導き出された判断を仮説として立て、その仮説を観察や調査によって検証し、理論にもどっていく。帰納と演鐸がうまい具合に重なることが大切である。また認識をするための情報源がたくさんある。私たちの身の回りには文献的(新聞記事、記事録など)、フィールド的(観察記録、インタビュー記録など)の情報源があることが分かる。知らず知らずのうちに私たちは何らかのの方法で認識し、それが「知る」につながっていると思う。

臓器移植法について

日本は、臓器移植、生殖医療、遺伝子治療など先端医科学技術が大きく脚光を浴びている。しかし、臓器移植法についてはアメリカなどに比べると、かなり遅れている。臓器移植に基づく最初の臓器提供と移植が19992月下旬に行われた。これは脳死移植の開始である。臓器移植は、臓器提供を待っている人たちみんなが提供を受けられるわけではない。普通ドナーが現れれば、移植を受けられ回復できる。しかし受けられない人たちがいる。日本で臓器移植を受けられないのは子供たちである。15歳以下の子供たちである。よって、心臓障害がる子供たちはアメリカなどに行かなければならない。
例えば、この前朝日テレビで心臓障害の女の子がいることを紹介していた。まだ五歳である。重度の障害であり移植しなければ数ヵ月で最悪な状況になると言っていた。しかし、日本では無理であり、アメリカに行かなくてはならない。日本の保険が適用しないため、費用も1億、2億とかかってしまう。とてもじゃないが、自分たちで稼げる単位じゃない。街頭呼び掛けやボランティアの協力がなければならないのである。また生活環境も変わりストレスにもなる。両親は、子供を助けるために色々な困難にもめげず、子供を助けたい一心で前向きに行く。  日本政府は、もっと臓器移植法について見直す必要がある。世論の間でも、ますます見直す必要があるこてに声が上がっている。日本政府は、まったく見直す形に入っていない。そんなことをしている中でも、苦しんでいる家族がいて、少しでも早く移植をまっている。アメリカに行くより日本で行ったほうがよいということは誰もが知っていることだから、もっともっと積極的に至急改正する必要がある。子供たちの明るい未来は来ないし、小さな命を救うことのできる時代を待って

 

第六章 図書館の利用

私は、この章を読むまで図書館は書物とつき合うだけの場だけと思っていた。しかし、そのようなことを思っている人は多いに違いない。また、私は論文やレポートが出ると図書館に行き、本を借りたりして文献を収集し作成する。その度に思うことが、図書館に行き文献や資料を収集し自分なりに考えたりまとめたりすることで、自分の中に知識として吸収していることが分かる。今まで無知だったことに、何かがプラスされるのである。私は、この章を読んで気付かされたことがある。それは、図書館こそが社交の場であるということだ。人間と人間との直接の関係は持たなくても、過去に行き、過去の思考や思想などに接し、人間と対話してる関係を成り立たせていると思う。図書館は、本を読むだけの場ではなく、文献を読むことで『問題を発見する』機能がある。問題を発見し、解決に至ると思う。文献を読むことは、視野を広げる意味がある。これまで自分の考えや経験だけではなく、文献を読むことで異なる意見や考え方にたどりつくことがある。やはり、一個の考えなどの枠に入ってしまうと小さい人間になってしまう。文献を読むことで色々な表現の仕方やボキャブラリーが増え、自分の知識となる。そう色々考えると、図書館という所は『宝物』が詰まっているところだ。そのことが分かるのは、図書館を利用し、そのおもしろさや楽しさが自分の中で分かるようになると、知識もどんどん入ってきて、目の前にたくさんのことが広がるに違いない。よく本を読む人は知識が豊富であったり、考え方も多彩で柔軟である。例えば、私は、国語(現代文)の問題を解いたときなどに本をよく読む人にはかなわないと実感した。よって本は大切なものである。自分の中で文献を読んだときに、この知識は必要なものか不要なものかを判断する能力、また無知な状態で図書館と接するといいと思う。もしかしたら、図書館そのものが人間かもしれない。

第七章 情報の収集  

 情報を収集するということは、とても大変なことである。 今日、情報を集める手段はたくさんある。その中で、私たちの中でもっとも浸透している情報の収集の仕方は、マスコミ、インターネット、第六章でも出てきたが図書館の利用などがあると思う。そして、このようなところから収集した情報をいかに自分のものにし、意味のあるものにすることが大切になってくると思う。 情報を収集する上で、「体力」と「気力」が大切になってくるのは当然であると思う。 例えば、マスコミからの情報の収集は、ただテレビ、ラジオ、雑誌、新聞などを観てれば頭に入ってくる。インターネットであれば、パソコンを開いて調べたいところを見れば無駄な体力を使わずに済む。そこからまた調べる。わからなかったら、友達に聞いたり、先生に聞いたりする。ここで、図書館の利用もある。情報の収集ということは、わからなかったり困ったりした部分を自分があちこち動いて大量な資料を集め、その中から必要な情報を抜き出し、自分のものにする作業だと思う。図書館に行き、文献を収集し、自分なりに考えたりまとめたりする。このような作業は短時間で終わるものではない。半日かかる人もいれば、何日もかかる人もいる。ひとつの図書館でなければ、次の図書館に足を運ぶ。いわば、情報の収集というには、洋服選びと同じかもしれない。ほしい物を選ぶために色々な場所へ行き、たくさんの服を見て最終的に「これが一番いい」という物を買う。友達と行けば、友達の意見を聞いたりする。 情報の収集には、「体力」、「気力」が必要である。途中で諦めたり、投げ出してしまったらだめである。「耐える力」が最終的に不可欠であるに違いない。

第八章 調査の技法

 調査は、私たちの生活に必ずあるものである。私たちの周りにごく当たり前にあるため、私たちは調査について気にも止めてない。しかし人は、さまざまな形ではあるが絶えず調査しているに違いない。 調査というのは、「問題」や「情報がほしいこと」などのように、情報を収集しようと思う対象の事柄を確定して、調査テーマを決め調査することである。 調査には、色々な種類がある。例えば、事柄を実際に見聞したりして調査する方法、新聞、ラジオやテレビなどからの間接的に入ってくる情報からの調査、図書館、インターネットからの調査、また私たちが普段よく行っていると思うが、友達や先生、周りの人々に何か分からないことを聞くということも調査だと思う。 調査をするには、調査のテーマをあげることが大切である。今、冬季オリンピックソルトレーク五輪が開催されている。そこで問題になっているこは、ロシア組が優勝したフィギュアスケートペアーでフランス人女性審判員が疑惑の採点をしたと指摘されている問題がある。金をとったロシア組はミスしたが、銀だったカナダ組みはノーミスだった。よって、疑惑が浮上した。裏側では、東と西に偏る勢力やロシアとフランスによるやりとりがあったとされている。オリンピックの舞台というのは、四年に一度であるため、色々な想いがこの一度のオリンピックに集結する。よって、この八百長採点はあってはならないものだ。疑惑が浮上したため、調査をし明らかになった。やはり、調査は大切であり、この場合の調査は批判的なことに対してのものであり、真実を明らかにするためのものである。しかし、調査はすべてが的確であるとは限らない。それを、自分の目で見て判断することも大切である。

第九章  論文の書き方

 人は、論文と聞くと嫌なものである。特に、学生の卒論は・・・。 私は、この章を読み論文とは何かが分かった。今までは、「論文は長くずらずら書くもの」や「テーマを決め、それについて書くもの」だと思っていた。しかし、これらの要素も入ってくるが、 実は奥の深いものであり、他人がこれまでやっていないことや足を踏み入れたことのない分野の研究をし書いて、とてもオリジナリティーが求められているのである。 論文を書くにあったって、大切なことはテーマを決め、資料を集めをすることだ。しかし、テーマを決めるということはとても大変なことだ。なぜなら、オリジナリティーが求められ、人とは違うもの、人がやっていない研究を探し、人が読みたいと思うテーマを探すからだ。 例えば、私は論文ではなかったが冬休みのレポートで「日本と北朝鮮」についてのテーマを決め書いた。テーマを決めるのは大変だった。今、考えてみると「日本と北朝鮮」というものは、漠然としていてとても大きなテーマだと思う。もっと、テーマを決める時に「日本と北朝鮮の中の何かについて」又は、その時騒がれていた「不審船問題における日本と北朝鮮」のように、もっともっと絞れば良かったと思った。やはり正直、両国間の何について書いていいか分からなかった。この章に書いてあったように、テーマは小さくして、書いた方がそれのついての研究の資料を集め書く自分も書きやすいと思うし、図書館やインターネットで調べるにしてもいいと思う。読む相手きも伝わるに違いない。 論文というものは、「体力」、「気力」が必要である。情報収集と同じである。途中で諦めたり、投げ出してしまったらだめである。「耐える力」が必要だ。 最後に、論文にとって必要なことは「注」を書いて、どこからこの論文を書く上での情報の収集元を書くのである。「注」をしっかり書いて、初めて論文が完成するのだと思う。卒論は、オリジナリティーがあるもの、人が読みたくなるものを書きたいものだ。

第十章 表現の技法

わたしたちの日常生活の中で表現の技法はたくさん存在したいる。その中で、口頭の発表、すなわちプレゼンテーションは社会科学分野の上で研究成果や調査結果を伝達し、聴衆に対して資料をもとにしてそれに対する簡潔な説明が大切になってくる。 プレゼンテーションは、この社会科学入門で学習した第六章図書館の利用から第八章調査の技法までのことをすることによって成り立つと思う プレゼンテーションは、大切になってくるのは準備だ。十分に準備ができてなければ、聴衆にはしっかりとは伝わらず意味のないものになってしまうに違いない。準備が十分にできていれば、発表する側聴く側も満足のいく結果に終わると思う。 プレゼンテーションは、第九章で出たきた論文に匹敵するぐらい大変なことだ。命題(発表タイトル)を決め、資料・情報の収集をし調査し、まとめる。また、論文とは違い、ズラズラと書くのではなく、箇条書きや発表することを全部書くケースがある。 発表タイトルを決める際、聴衆が興味のわくもの、あまり難しい内容のタイトルにしないほうがいいと思う。せっかく発表しているのに寝てたり、興味なさそうにしてたら悲しいものである。それには、発表タイトルをしっかり決め、図書館やインターネット、新聞、マスコミからなどの情報を収集、調査そして簡潔にまとめる必要がある。そして、今の時代パソコンがとても活用されている。パソコンによるスライドを使うと便利だ。その他、手元にある資料や、OHP、ビデオなどといったものが活躍する。昔とは、違いこれらの使うことによって時間の短縮、ビデオであれば聞き手に強い印象を与え、心に残るようになる。 プレゼンテーションには、私たちが専門家でないためメリット、デメリットが生じるが、みんなの前で発表するということは度胸がつき、達成感があり、いい経験になる。最後に、ディスカションができればすごいことである。私の場合は、ディスカションが苦手なので、楽しくできるようになればいいと思う。

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