自画像と制作者の同一性
この著書は、美術史や美術に関する一般論を話題としてとりあげ、今日までに論じられてきた美術に関する考え方をもう一度考え直すことを目的としている。その際に、筆者は心理学の分野でよく聞く精神分析や対象関係学の考え方を利用することを先に宣言している。個人的には第4章の「色彩・タッチ・皮膚 ヴェネチィア絵画をかく手、みる眼差し」が興味深いが、今回論じようとしている視線と身体に関わってくる章は、第2章の「「私」を表象する 自画像再考」である。
自画像を見るとき、自画像の顔にはそれを描いた画家の人生や内面が映し出されているとよく言われる。実際、ある画家の自画像を見るとしたら、やはりそこに画家の内面が現れていることを私たちは期待する。たとえば、陰影にとんだ色彩で知られるレンブラントの自画像を見るとき、人はそこに深い精神性なるものを読みとってきた。しかし、自画像の中に人々が読みとった深い精神性とは、何を根拠にしているのか。そんな疑問を私たちに投げかけるところからこの章ははじまる。画家が、自己の内面を深く掘り下げ、ありのままにそれを表現している保障はどこにもない。いったい何が画家と画家によって描かれた自画像の同一性を保証しているのだろう。鏡が自画像の同一性を保証しているに違いないと私たちは考えるだろう。しかし、筆者はこの意見に対し、鏡が忠実に「私」を写しているかどうかはわからないと反論する。なぜなら人が自画像を描く場合利き手は必ず描くという作業を担当するために常に一定の場所にとどまっていてくれないからだ。多くの自画像は利き手が鮮明に描かれていないことを筆者は指摘する。その例としては、以下に表示した病めるバッカスがわかりやすい。また、自画像を描くときには視線も定まらないということを指摘する。なぜなら、筆を握る私は鏡とカンバスを同時に見ることはできないからだ。鏡の中の目をかこうとしてカンバスに目を向けたとたん、鏡に向けられた画家が画家を見ているという視線はなくなってしまう。また、このことから、鏡を見ているかぎり画家は鏡の中から見つめ返され続けるということもわかってくる。筆者は、見つめ返されることの不思議が浮かび上がってきたところで、ギュンプの自画像を話題にする。画家はたった今、八角形の鏡に映っている顔を、となりのカンバスに写しとろうとしている最中であることが分かる。しかし、この自画像には奇妙な点がある。鏡の中の視線とカンバス上の視線が一致していないのだ。鏡像の瞳は、手前で絵筆を握っている絵の中の画家の方を見ている。それゆえ、画家は今鏡に見入っているところだろうと予想されるがカンバス上の視線は、鑑賞者である私たちの方に、あるいは、この絵を描いている画家自身に注がれている。つまり、鏡像の視線は背中向きの画中の画家に向けられているのに対し、画中画の視線は不在の画家自身に向けられているのである。
授業ではここで、二枚の鏡を利用して、どのようにギュンプがこの自画像を描いたかを考えてみた。この、ギュンプの作品のからくりをよりわかりやすく描いたものにロックウェルの自画像がある。この絵において、鏡像と肖像のずれはギュンプ以上に開いている。カンバス上の画家は、眼鏡を外し、パイプを水平にくわえているのにたいし、絵筆を握る画家は眼鏡をかけパイプは下を向いている。鑑賞者である私たちと、画家との距離もまた開いているため、私たちはここで後ろに存在する二枚目の鏡に気がつく。そしてさらには、この、カンバスと鏡をのぞき込む画家の絵を第三者が制作する可能性にも気づかされた。鏡とカンバスと、背を向けた画家をかく人物がギュンプやロックウェルでないこともありうるのだ。自画像とその作者の同一性は、私たちが当然と思っているほど自明のものではなかったのである。画中画を描いたのはいったい誰なのか。画中画を含むこの絵自体を描いたのは誰なのか。それは誰にも分からないのだ。
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