鏡と自画像−自己との対面を暗示する−
前章で自画像に関する話題を取り上げたので、一つ『鏡の中の女達』という本の冒頭部分を引用しようと思う。これは、筆者がメキシコの画家フリーダ・カーロのアトリエを訪れたときの記述である。
ある夏の日の午後、私はフリーダのアトリエに立ってみた。描きかけの油絵が掛かったままのイーゼル、その前に斜めに置かれた車いすに、高窓から夕日が射していた。傍らの陶器の壺には数十本の筆、そして絵の具がこびりついたパレット。幾度か訪れて見知ったはずのそれらをひとつひとつのぞき込んでいて、私は思わず息をのんだ。そこにあったのは私、正確に言えば四角い木枠の鏡に映った、私の顔だった。私は鏡に映った自分からしばらく目を離すことができなかった。そうか、挑むように問いかけるフリーダのあの眼差しは、私にむけられていたのではなかったのだ。カンバスをまえにフリーダは今の私と同じように鏡をのぞき込んでいたことだろう。そして、あなたは何者?どこから来てどこへいくの?という問いかけを、何百回となく自分に向けたに違いない。
それでもなおフリーダの眼差しから私自身が問われている気がしてならないのは何故だろうか。きっと彼女のそのひたむきな問いかけが、私のこころの奥深くにある同じ問いを呼び覚まし共振させるからなのだろう。つまり自画像の問いかけは普遍性をもって見る者に自分自身を考えさせる力をもつといえる。完成した自画像はその前に立つ者を否応なく映し出す。
この日をきっかけに、私はフリーダの毅然とした強さに隠された影の部分が見えるようになった。あの日の落ちたアトリエで一人鏡をのぞき込むフリーダの傍らで、一緒に鏡をのぞく時、あるがままの彼女の姿が見えてくる。その痛みも喜びも。アトリエの古びた木枠の鏡が教えてくれたそんな自画像の有り様は、私のうちなる対話を刺激して、様々な画家のよりいっそうの真実の姿をみせてくれるようになった。
鏡と自画像と記されたこの序文の後、筆者は何人かの女性画家の自画像と、そこから読みとれる画家の素顔について紹介する。自画像を前にしたとき、自画像に対面するひと自身の心からある特定の感情が引き出され、呼び起こされるという仮定は魅力的だ。自画像が本当に画家そのものを描いていなかったとしても、私たちは自画像を描くという過程を知っている。それは画家が、自己と認める鏡の中の画家とたびたび視線を通わせ、対話しあうというものだ。画家の描いた自画像を見る鑑賞者の私たちは、画家がもう一人の自己と対話する姿を想像する。そして、時には「完成した自画像はその前に立つ者を否応なく映し出す」ように、鏡の中の自分と対話しつつ、それを写し取ろうとする私を想像する。
画家は自画像を描く過程で、もう一人の画家(鏡の中の画家)と対面し本当の自分を模索するが、自画像にはこの「自己との対面を通して自分を考えさせる」という行為を鑑賞者に追体験させる不思議な力がある。自画像には、自己ともう一人の自己の対面を暗示する鍵が隠されているのである。ところで、テクスト『ミメーシスを超えて』でも述べられていたように、自画像はどんなに正確に自己を描写しようと心がけても、違ったものしか描けないという性質を持つ。それゆえ、自画像とは画家が自己を客観的に捉えた結果生み出されたものと考えられる。制作者である画家が鑑賞者である私たちと同じ外からの視線で対象(画家)を捉えるのであれば、それは私たち鑑賞者が対象を理解する手助けをしてくれるだろう。画家本人によって描かれた絵が客観性を持ち、また客観性を持つことがかえって私たちに有益であるとすれば、前半でとりあげた、一休宗純をめぐる問題にも答えを見つけることができる。自画像を作成する画家本人でさえ、自分を描くためには、客観的に自分を見ざるおえない。不思議なことに、自分を理解するためには、外からの視線が不可欠だったのだ。このような考え方を応用するならば、墨斎や他の職人により作られた一休の像から本当の一休を見いだしたいとき、私たちは一休を描き、造形する職人のさらに後ろに立って作品を鑑賞すれば良いと気がつく。ギュンプの自画像について考えるとすれば、まず絵筆を持ちカンバスと鏡を交互にのぞき込むギュンプを想定し、さらにこの鏡とカンバスと背を向けているギュンプを描く画家を思い描き、その後ろに鑑賞者である私たちが立って自画像を鑑賞すれば良い。そうすることでとらえた複数の一休、あるいはギュンプの姿を一つにかさねあわせることで、本当の存在は見つかるに違いない。
自画像鑑賞から得たヒントをもとに、そろそろ身体について考えてみようと思う。私は身体には肉体と精神という二つの側面があるととらえるのに賛成である。肉体としての身体を、私は他者も(視覚的に)捉えることのできる身体、精神としての身体は「自分は自分だ」と自覚している本人だけが捉えることのできる心の動き、感情も含めた身体というふうに位置づけたい。身体は常に一つであり、考える主体である本人のみが精神としての身体を理解している。同じ身体は、自己を意識する「私」から見たときと、それ以外のものが身体を見たときで二つに分類されるのである。自画像は、主体である画家があえて、自分を外から眺めて描くという性質上、この肉体と精神の二つの身体の間に位置する。『鏡の中の女たち』の筆者がフリーダの自画像を眼にしたとき、「日の落ちたアトリエで一人鏡をのぞき込むフリーダの傍らで、一緒に鏡をのぞく」と表現した一体感は、自画像の隠し持つ鍵が、フリーダの精神としての身体の一部を筆者に指し示したために起こったのである。他人とふれあうのは肉体としての身体である。しかし、時には考える主体であり本人だけが知る精神としての身体が、他人に開かれ共有されることもある。芸術や雄大な自然、偉大な人物の思想に触れて「私」の心に巻き起こる感動は、外界と接触を担当する肉体としての身体のみならず、精神としての身体にまで外界の事物の影響が及んだからこそ引き起こされるものなのである。
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