昭和43年卒業住野龍之介 同期生
部活動入部当時は豊橋、名古屋両校の併せて約50名強の同期生がいたが激しい毎日の稽古や体育会系独特の規律の厳しさから、2年の春合宿では10名しか残っておらず、結局最終学生時は豊橋の3名のみとなった。 当時は春夏秋と年3回の合宿があり、春と秋の合宿は春秋年2回の東海学生選手権に向けての強化合宿であった。メインは夏合宿で1年時は御殿場、2年時は山中温泉そして3年の時は会津若松という様に遠征合宿であった。最終学年の時は退部者への暴行事件を引き起こしてしまい、謹慎の意味で豊橋校舎での実施だった。 合宿の思いではいろいろあるが、2年生までの下級生時代は一言で地獄のような一週間だった。「一日千秋の想い」とはあの頃の日々のことを言うのだろう! 稽古の最終スケジュールはフリーと決まっており、下級生全員がそうだったと思うが優しく?鍛えてもらえる優しい先輩の前へ素っ飛んでいったものだった。が、並び順が一人狂ったら最後? 最も遠慮したい屈強で非常な某先輩の前に立つ羽目となり、こっぴどくカワイガッテもらう事なる。 普段の学校での練習も、今振り返って思い出すとそれはかなりハードなものだったが、それよりも稽古終了後の上級生による”お説教”はそれ以上だった。当時、”シゴキ”は日常茶飯事で行われており、鉄棒にぶら下がったりうさぎ跳びを限界以上させられたり、道場前の土手に登らされ上級生がOKを出すまで部則である「協和、質素、信義、礼節、忍耐」を大声で声の限り唱和させられた事等限りない。しかし、今思えばどれも懐かしい思い出の数々である。
戦 績当時我が愛大空手部は、代々諸先輩方々が築かれた伝統と、東海学生大会連続優勝という輝かしい業績を誇り、東海地区では断然他校を制していたと思う。 しかしその反面、それを継続させなければと言うプレッシャーは相当のものがあった。 幸いにして、我々の代も春秋2回の東海学生選手権大会の団体、個人と制しその連続記録を伸ばすことが出来た。 主な戦績l
東海学生選手権大会 (春秋)
団体優勝 個人優勝(住野) l 東日本学生選手権大会(仙台) 団体三位入賞 l 全日本学生選手権大会(東京) 団体三回戦敗退 個人ベスト8入賞(住野) l 全日本学生東西選手権大会(大阪) 住野、柴田出場(両名共勝点上げる) l 第1回愛知県選手権大会(名古屋) 個人ベスト4入賞(住野) 個人ベスト8入賞(柴田) 個人ベスト16入賞(松井)
その他空手部の四年間辛苦を共にした我が戦友は、柴田君と松井君の二人である。彼等とは四年間互いに切磋琢磨し強くなってきた。練習後は連れ立って豊橋の繁華街へ遊びに行った。とりわけ松井君とは、地元同志という事もあり本当によく安酒場へ出かけた。彼は酒豪でその飲みっぷりは豪快そのもので、あの頃は平気で一升を空けていた。 その精でもあるまいが、後年胃を半分切除したが、現在は健康を取り戻し、花田工務店竃シ古屋支店長として頑張っている。 もう一人の戦友柴田君との思い出は、昭和42年の秋季東海学生選手権に尽きる。決勝は名城大学と対戦し2勝2敗1分けで優勝の行方は代表決定戦に持ち込まれた。主将として当然”俺に任せてくれ”と言わなければならない立場ではあったが、どちらと言えばこの大会調子は凡調、その上精神的には連続優勝記録のプレッシャーから緊張状態は極限にあったと思う。代表選手選定に当たり、杉浦健五監督はそんなキャプテンの”見崩れ”を見抜かれ、副将の柴田君を指名。大一番のプレッシャーをものともせず、彼は得意の”中段突き”で見事相手の大将を破り、わが校に優勝をもたらし連続優勝記録を保持してくれた。後年あの時の事を想う時、小生を見切り、柴田君をすかさず指名した杉浦監督の洞察力、眼力に改めて敬服すると共に、柴田君という良き副将と同期であった事に感謝しきりである。 彼は今トヨフジ海運鰍ナ、世界を相手に活躍中である。
(感無量・・・・今回も連続優勝なる 杉浦監督の隣住野) |