昭和44年卒業愛知大学空手部の思い出井口 登 同期生氏名・役職主 将 加古哲也(名古屋) 副 将 井口 登(豊橋) マネージャー 大野 泰岳(豊橋) 杉山博司(名古屋) 学連委員 久末 篤(名古屋) 幹 事 山口 隆(豊橋) 道場取締り 松井一二(豊橋) 岩橋 登(名古屋) OB連絡係 河村雄治 入部の経緯 私達の入部は昭和40年。その前年には東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが 私は、明確な目標もなく、現実逃避で法経学部(豊橋経済学科)に入学したものの、間もなく5月病にかかって授業にも出ず、惰性でプラブラと毎日を過ごしていた。 5月連休後の天気のよい日に、学内の芝生で昼寝を決め込んでいたところ、丸顔で早口の先輩(43年卒柴田先輩?)に入部勧誘を受け、道場に顔を出したのが運のつきで そのままズルズルと稽古を続けるようになった。 約半月後、入部意思の確認に対し、つい「やります。」と返事をしてしまったが、何故その時断らなかったのか今もって分からない。 当時、私と一緒に体験入部していた数人(稽古着が行き渡らず、ステテコで稽古している者もいた)が、この時全員入部を辞退したことを考えると、先輩が怖くて断れなかった事のみが入部理由ではないような気もするのだが.... ただ、両親の強硬な反対により兵糧が欠乏し、6月合宿の費用を滞納したり夏合宿に参加できなかったりして、幹部や同僚に大変なご迷惑を掛けた。 先輩の教え当時はOBによる後輩指導が熱心に行われた。江川雄茂先輩(昭和40年卒業)もよく指導にみえたが、先輩の説く ○ 人の倍努力をすれば必ず人並みのレベルに達する。 ○ 明日は必ず今日以上の上が出せる、出ないとすれば気力不足。 という言葉は、今も耳の奥に残っている。 不器用ながら、卒業後も30代半ばまで国体等の静岡県代表選手を続けることが出来 たのも、先輩の言葉を愚直に実践した結果と考えている。 痛恨の一敗 昭和43年度春季東海学生大会決勝で、我々は痛恨の一敗を喫した。 この年の5月に、浜松市において開催された、丹羽久章杯争奪和道会東海学生選手権団体戦決勝で、当時急成長中の名城大学を2−1で下し意気上がっていたが、6月の東海学生選手権団体戦の決勝で、同じ名城大学に2―1でまさかの敗戦を喫した。 個人戦においても、私が準決勝で反則負け、3年生の大沢君が健闘したものの準優勝に終わり悔しい思いをした。 当時の愛大は、東海学生選手権においては、常に個人・団体の完全優勝を要求されていただけに、諸先輩から数々の手厳しいご指摘があったことを覚えている。 なお、この年の秋期東海学生選手権団体戦は、愛知学院大学と決勝を争い2−0で快勝した。 3年度の主な大会戦績丹羽久章杯争奪和道会東海学生大会 団体優勝(個人戦行われず) 東海学生選手権 (春季) 団体準優勝 個人大沢準優勝 東海学生選手権 (秋季) 団体優勝 個人栗山準優勝 全日本学生選手権 団体2回戦敗退 個人井口・大沢共に2回戦敗退 東日本学生選手権 団体3回戦敗退 その他(組織と規律)昭和40年代の半ば頃は、全国の伝統校が「部活動民主化の波」に直面して呻吟した 時期である。愛大も例外ではなく、大学当局との調整や新入部員のガス抜きに神経を使 いながら稽古に励んだものである。 卒業後、既に30年、我々もそれぞれの分野で組織管理や目標管理に苦労する年代と なったが、当時と同じような問題と格闘している進歩の無さに苦笑させられる事がある 戦慄を以して集団を律するのは賢明な策ではないが、規律の緩んだ組織は求心力も低下し、目標も見失いがちである。 組織の性格と規模に応じた緊張感を維持し続けるためには、やはり適度な刺激と他律 的指導が不可欠であることを再認識する昨今である。 後輩諸君のご健闘を祈る。 思い出加古哲也 昭和40年 春の霞に誘われて入ったところが愛大の空手部です。当初は、 晴れて主将に抜てきされたものの、昭和43年春に、残念ながら東海学生大会連続優勝がつぶれてしまい愛大空手部の歴史と汚点を残しました。それから部員一同巻き返しを計画すべき稽古に明け暮れ、ついにその秋には、それを奪還することができ安堵情に浸っていたのを思い起こされる。 苦しさ、楽しさ、辛さ、厳しさ、優しさ等々、教えてくれた我が愛しの空手部に心から敬意を表したいと思います。
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