広東の歴史(文化)


殷・周時代・・・広東についての記事は特に見当たらない。

春秋・戦国時代・・・揚子江以南は蛮族の地とされていた。

秦代・・・南越と称される異民族の地とされていた。幾度となく匈奴などのように反乱を繰り返した。
 ⇒ B.C.214年南越国の都番ウ(広東)が秦に侵略され、中国の政治勢力の一端とされた。(南海・象・桂林の3郡を置かれた。)しかし、秦末の混乱期に再び独立した。

漢代(前漢)・・・B.C.111年武帝の大遠征により再び併合された。広東から北ヴェトナム・海南島にかけて9郡を置いた。秦・漢がこの地を手に入れたがった背景には越人が掌握している南海方面との貿易の利権を中央に奪取しようという目論見があったからである。

漢代(後漢)・・・荊州と称され、184年からは、劉表・劉備(蜀)・孫権(呉)などによって支配された。当時広東は、陸・川の貿易(商業)の盛んな重要な都市とされ、さまざまな群雄が荊州を狙った。

五胡十六国・南北朝時代・・・さまざまな国が興亡し、南朝代には、海上交通が盛んになった。この頃の広東近辺の文化は六朝文化。南朝時代には豪族が力をつけた。

隋・唐代・・・混乱期を終え、比較的安定期に入り、文学や商業が発展した。広東は、江南の貿易重要都市の一角を担う杭州を要し、海外貿易で国内を潤わした。文化的には、ほとんど華北と変わらず統制されていた。

宋代・・・後周の武将趙匡胤によって中原が平定され、太祖・太宗の時に江南は再び中国の政治勢力に組み込まれる。この時期は、農具や灌漑システムの発展、中国周辺をさまざまな敵国に圧迫されていたこともあり、伝統を重んじ、国粋性の文化が誕生した。科挙の文治主義も一役買っていた。なお、この時代に活版印刷、羅針盤、火薬が発明された。

元代・・・江南についての記述は特に見当たらなかった。モンゴル人からは、南宋を含め南人と称されていた。モンゴル人第1主義があったが、実力のあるものは、南人と言えども支配階級に登用されることもまれでは無かった。

明代・・・紅巾の乱で頭角をあらわした朱元ショウにより、漢人文化を取り戻した。中国史上初の江南から起こって中国を統一した王朝である。朝貢貿易が盛んになり、鄭和による南海大遠征などで朝貢する国が多くなった。日本も元代末あたりから朝貢を再開していた。ここで倭寇の被害をこうむった。広東も例外ではなく倭寇に進寇された。

清代・・・女真族による新たな支配が始まった。ここで広東は、ヨーロッパの国と深い関係を持つことになる。



まとめ⇒広東は漢代に武帝によって中国に組み込まれてから、基本的に中国の文化を受け入れ、中国と同化してきた。川や、海を使った貿易が中心の文化だった。





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