教職課程をやめなくて良かった。

1998年4月、僕は大学生になった。
初めての一人暮らしを体験した。
1年生の時間割は結構余裕があるように思えた。
「教職課程」なるものの存在を知り、軽い気持ちでガイダンスを受けてみた。
授業申請したものの、僕の学部で取れる免許は「英語」の免許。
僕の専門は「中国語」。
ガイダンスではしきりに「他コースからの英語の教育免許取得は容易ではない」
と言われていた。

そうなのかな・・・。
なんとかなる!!
いつもの気持ちで、ほんの軽い気持ちで教職課程に望むことにした。

しかし専門の中国語がだんだん難しくなってくる。
第2言語で英語を履修しているものの、中国語で精一杯だった。

やっぱりやめよう。
そう思ったのは教職の授業を受ける前だった。
「教職は受けない」
そう心に決め、僕は教職課程を諦めた。

「他コースからの英語の教育免許取得は容易ではない」

という言葉の意味がひどく痛く分かった。

それから僕はクラブ活動に打ち込んだ。
今まで講義が終わると家に帰る生活だったが、
クラブをはじめると大学に残る時間が増え、大学生活が充実してるような気がしてた。
しかも新入部員なので、夜のご飯はほとんど毎日先輩におごってもらえるので、
ラッキーだった。

そんなある日、同じ新入部員の一人が教職課程を履修していることに気付いた。
僕はもう「諦めたよ」って伝えた。
そいつは工学部の奴だったが、教職の授業は同じ時間の同じ教室であったので
半ば無理やりに誘われた。

僕は付き合い程度に教職の授業に戻っていった。
時は6月の半ば。
前期の半分以上が過ぎていた。
教室には居場所がないように感じた。
一度諦めたのに中途半端に戻っても続くはずがないと思っていた。
でも誘われるままにそれから「教育原理」も「教育心理学」も出席した。
そして大学で初めての定期試験。
教職の試験は土曜日だった。
確かこの日は天神祭りの花火の日で、クラブの新入生4人で
花火を見に行こうと決めていた。
僕らは教職のテストを受けてから京橋に向かった。


1998年9月
前期テストの結果が出た。
出席重視の先生だったからだろうか「教育原理」は見事に落とした。
でも「教育心理学」はなぜか単位が取れていた。

その後、2年年と僕は教職課程に戻りずっと授業を受けた。
英語の科目も取らないといけないので、友達のひとりもいないクラスに一人混じったり、
1学年下の授業に混じったりと空いてる時間はすべて教職用の英語の時間に費やした。
みんな帰っていくのに、僕だけ教職があるからとひとりで教室に向かった。
でも教職でも友達ができてたから良かったんだけど。


しかし僕を教職課程に戻るように誘った奴は教職課程から姿を消した。
早々に諦めたらしい。
こいつには感謝してるなんて言いたくないけど、
4年も続いたのはこいつの一言のおかげかもしれないと思う。
もし僕がクラブ活動をしなかったら、教職課程にも二度と戻っていなかったはずだ。


で、教育実習も終わった。これですべて出揃った。
あとは卒業できるようにゼミの研究レポートを書き上げるのみだ。


教職課程をやめなくて良かった。
確かにそれは簡単じゃなかった。
3年生終了時の単位の数は、他の奴らよりも約40単位も多かった。

レポートに苦しんだ時もあった。
一番辛かったのはやっぱり教育実習だった。
授業を考えるのに悩みまくった。
指導案を英語で書いて、プリントを作ってゥB
でも自分なりに成功したと思える授業ができてよかったと思う。
もっともっと改善点はいっぱいあるけど、余力なんて残ってなかった。

それは4年間の戦いだったかもしれない。

18歳から続けてきたもの。
これで終わりなんて思わないけど、生徒と約束したもん。
必ず先生になってくるってね。













限りあるもの、流れゆくもの






子どもの頃に決めたこと