(10)小アジア

(1) ペルガモン

アレクサンダー大王の将軍だったリュシマコスはその膨大な富の貯蔵地としてこの町を 発展させヘレニズム時代にはアレクサンドリア、アンティオキアにならんで繁栄した町となりました。前2世紀にエウメネス2世はアレクサンドリアに匹敵する図書館を建てましたが、そのような"ヒーロー"たちがこの地では崇拝されるようになりました。 1世紀になるとアウグストゥスが平和と繁栄をもたらしますが、 彼は「全人類の救い主」としてあがめられ、皇帝崇拝の中心地となりました。 アウグストゥスのための神殿がつくられ、 2世紀にもトラヤヌスやハドリアヌスが崇拝されました。 聖書はペルガモンを「サタンの座のある所」と呼んでいますが皇帝崇拝のための 神殿に加えたくさんの異教の神殿に囲まれていました。 現在ベルリン博物館にあるゼウス神殿はエウメネス2世のポントス、ビチニア方面への 勝利を記念したものといわれています。 他にもアテナ神殿、ディオニソス神殿、アフロディテ神殿、
デメテール神殿や いやしの神アスクレピウスを祭ったアスクレピウムなどがありました。

医師からみたクリスチャン


ペルガモンのアスクレピウムは当時医学の最先端の地で患者は薬、ハーブ、蜂蜜などを 与えられ、運動したり泉の水を飲んだりしました。 有名な医師ガレノス(129−199)はこの地で生まれその理論は1400年にわたり 医学界で使われました。彼はたくさんの動物を解剖し筋肉や血液について研究しました。 彼はアリストテレスの哲学に従い自然には何も無駄なものがないと考えていました。 創造者が無から創造したとの考えには反対しつつも、 「身体の諸器官の有用性について」という著作の中で最善の仕方で創造者による創造が なされていることについて述べているのは興味深いことです。 ガレノスは神の目的は自然を調べることにより見出せるとの考えを持っていました。 しかし今日の多くの科学者と同様彼は聖書を非科学的なのとみなしました。 キリスト教を哲学の一派と考え、ユダヤ教徒とキリスト教徒を 「モーセとキリストの学派に入って証明なき律法について語る人々」と呼んだのです。 医師であったガレノスにとっては殉教していくクリスチャンを理解するのは 難しいことでした。
彼にとってクリスチャンは命を軽視する人々に見えたのです。

(2) スミルナ

現在のイズミル。トルコ第三の都市である。哲学者ホメロスの出身地でもあります。 スミルナで有名なクリスチャンといえばポリュカルポスがいます。 彼は西暦69年スミルナに生まれ、使徒たちにより監督として任命されたと
イレナエウスは伝えています。彼は使徒ヨハネから教えられたようです。 スミルナも皇帝崇拝が盛んで聖書が予告してように ここのクリスチャンは「10日のあいだ患難にあう」ことになっていました。 ポリュカルポスは155年皇帝崇拝を拒否して火刑に処せられました。 クリスチャンはローマの神々を崇拝しないため無神論者とみなされていたため 「悔い改めて無神論者は滅びるように」と述べるよう勧められたとき 彼は正しい意味で「無神論者は滅びる
ように」と述べました。

(3) エフェソス

エフェソスにはパウロの宣教によってたくさんのクリスチャンが誕生しました。エフェソスはローマ時代に最も栄え、その時代の遺跡を今でもたくさん見ることができます。 有名なアルテミスの神殿は世界7不思議に1つに数えられていましたが大理石でつくられた壮麗な神殿でした。(パルテノン神殿の2倍の大きさがあったとされ、ギリシャの 歴史家パウサニイスは当時存在していた建造物の中で最も規模が大きなものとされる) エフェソスの中心から北に向かって参拝者が歩いてきた道路は マーブル通り(大理石の道)として知られています。 神殿で見つかった
アルテミス女神像はエフェソス博物館で見ることができます。 (この女神崇拝の伝統はキリスト教世界に受け継がれ431年の エフェソス公会議によってマリアが「神の母」として崇められることになりました。 ちなみに使徒ヨハネはマリアの世話を託されましたが、ヨハネはここに移って来ているのでマリアもエフェソスに住んでいたと考えられて
います。) パウロの宣教の成果に苛立った人々は群集を説きつけて町の中心にある 劇場へと殺到しました。この劇場は24000人も収容できる大きなものでした。 この劇場から西にある港までアルカディオン通り(港通り)が伸びており この港が使われていた間エフェソスは大変富んだ町としてにぎわいました。 エフェソスのもう1つのメインストリートの1つクレタス通りは中心から南東に 伸びヘラクレスの門と有名なケルソス図書館を結んでいました。 (2世紀に建てられアレクサンドリア、ペルガモンと並ぶ3大図書館の1つ) この通り沿いにはテラスハウスといわれる高級住宅が並んでおりこの地が富んだ町であったことを知ることができます。遊郭の跡などもあり不道徳な町でもありました。 ペルガモンと同様ここも皇帝崇拝が盛んな地域だったようで使徒ヨハネは ドミティアヌスの時代に
パトモスに流刑にされました。 ここではドミティアヌスの神殿と呼ばれるものが発掘されましたが、最近の調査では ティトゥスの建てたものとされています。 その後2世紀にはハドリアヌスの神殿がつくられましたが、神殿の前の台座には、 当時4人の皇帝のブロンズ像が置かれていたということです。

(4) ラオデキア

交通の要所にあり大変繁栄していたが、その富のせいでこの地のクリスチャンは 「生ぬるい」と非難された。
かつては富んでいたその町も今だは廃虚となっている。 (近くのヒエラポリスには温泉があったがこの水が
ラオデキア近郊に達するころには 生ぬるくなっていた。)

(5) ヒエラポリス

ラオデキアから近くにありネロによって町が整備された。 大勢のユダヤ人が住んでおりキリスト教を広める上でも貢献したと 考えられている。温泉により有名でその炭酸石灰を含む熱湯が地表を流れて 冷やされると鍾乳岩として固まるが、そのようにして パムッカレ(錦の城)の美しい景観がつくられるそうである。 この町には後にフィリポと娘たちが移ってきたとの伝承がある。 それとともに巨大な墓地ネクロポリスがあり 多くのクリスチャンもここに埋葬されているといわれている。 ヒエラポリスのクリスチャンとしてはパピアスがいるが、彼は自分をヨハネの愛弟子で ポリュカルポスの仲間であったと述べている。残されている「パピアスの断片」の中で 興味深いのは千年統治についての信条が言い表されていることで キリストの王国が地上に打ち立てられると述べている。このように
初期クリスチャンは 地上に実現する王国に希望を持っていたことがわかる。

(6) コロサイ

ラオデキアから9kmのコロサイは1世紀にはそれほど重要な町ではなかったが、 パウロが手紙を書き送っているので私たちにはなじみの深い町である。現在は廃虚である。

(7) サルデス

ここには大きなシナゴーグが残されており、たくさんのユダヤ人が生活していたことを 推察することができる。 古くからあったアルテミスの神殿やセヴェルス帝に捧げられたギムナジウムなども 見ることができる。

(8) フィラデルフィア

現在のアラシェヒル(赤い町)。緑に囲まれた町に赤レンガがよく似合う。 残念ながら古代の遺跡で見るべきものはほとんど残っていない。

(9) テアテラ

現在のアキサル。 紫布を売っていたルデアの出身地。この町で出土した碑文によれば 亜麻布、染色、羊毛の紡績業者などが同業組合を形成していたが、ある聖書辞典によれば この組合はこの町にあった太陽信仰の異教の儀式と関連していたかもしれないので この地のクリスチャンの直面していた困難を推察することができる。

(10)トロアス

有名なトロヤ戦争の舞台はこの近くである。アウグストゥスからトラヤヌスの時代に最も繁栄した。パウロはこの地で幻を与えられヨーロッパへと渡ることになった。

(11)ミレトス

タレス、アナクシマンドロスなど数々の哲学者を輩出した町で一時は エフェソスと並ぶ大きな町だった。
パウロはエフェソスの年長者たちと ここで別れを惜しんだ。

クオートデシマン(14日教徒)


西暦2世紀の終わり頃いわゆる「復活祭についての論争」が起きたときローマをはじめとする多くの人々は
すべてのキリスト教徒が日曜日に統一的にそれを行なうべきだと 主張した。しかしエフェソスの監督だった
ポリクラテスはニサンの14日に行われる 主の晩餐を擁護して、それは使徒フィリポ(ヒエラポリスにいたとされる)、使徒ヨハネ(エフェソス)やポリュカルポス(スミルナ)、メリト(サルデス)などによって守られて きた伝統で
ありその見方は聖書によっても確証されるとした。このように小アジアでは使徒たちの伝統が守られていたことがわかる。 彼らを一掃しようという試みが4世紀になされたが(314 アルル公会議、341 アンティオキア公会議など)西暦400年になってもまだクオートデシマンは多数残っていた ということである。

 

(11)ビチニアとポントス

小アジア北部にあったローマの属州で黒海に沿った地域です。 1世紀のユダヤ人の著述家フィロンは,ユダヤ人がポントスのあらゆる場所に広がっていたと述べています。西暦33年のペンテコステの際には,ポントスからのユダヤ人もエルサレムに来ていました。(使徒 2:9)恐らくペテロの話を聞いたそれらポントスのユダヤ人の中には,クリスチャンになって自分たちの郷里に戻った人もいたことでしょう。しかし パウロの第2回宣教旅行の際にビチニアに入ろうと努めましたが,おそらくギリシャほど産出的でなかったためかイエスの霊はそれを許可しなかったと言われています。(使徒 16:7) この地域は使徒の宣教の舞台としては述べられていませんが,ペテロは「ビチニア、ポントス」のクリスチャンにあてて手紙を書いているので,明らかにそこにクリスチャンたちがいました。(ペテ一 1:1)ペテロはその書で「年長者」について述べているので,そこにはクリスチャンの会衆が幾つかあったものと思われます。(5:1,2) アクラという名のユダヤ人はポントス生まれでした。―使徒 18:1,2。 そこでの地方長官だった小プリニウスは112年頃皇帝トラヤヌスにあててビチニアから手紙を書き送りましたが,その属州のキリスト教の広がりについて言及し,「年齢、地位、 男女を問わぬ大勢のひとが(キリスト教の)さらされ、あるいはさらされようとしています。都会だけでなく、村むらや田舎の地域にまでこの迷信が伝染しているのです」と述べています。2世紀の終わりまでに会衆が設立されていたところとしては ニコメディア、アマアストリス、イオノポリス、シノペ、アミソスがあります。

(1) シノペ

シノペ出身の"キリスト教徒"としてはマルキオンが有名です。時々ヘブライ語聖書の 神は戦争の神でギリシャ語
聖書の神は愛の神であるということが言われますが そのような考えは古くから存在していました。マルキオンは旧約の悪しき世を創った神 と新約の愛の神を区別して独自の教えを広めたため144年頃異端とみなされましたが この教えは当時かなりの広がりをみました。彼はルカとパウロの手紙のみを受け入れ 旧約聖書を排除しました。

(2)ニコメディア

ニコメディアのエウセビウスは「教会史」で有名ですが初期キリスト教の歴史を知る 貴重な文献となっています。
彼はニケーア公会議の際、イエスを父なる神とは 同等としないアリウスの側に付いて破門されました。

(3)ニケーア

325年ニケーア公会議が開かれ父と子が同質であるとされた。この会議を主催した コンスタンティヌスは帝国を統一しておくために内容は理解していなかったにもかかわらずそのような決定を下した。このときアリウスは、子は永遠ではなく父によって創造されたのであり父と同じ完全な神性は持っていない被造物であり、子は父に服しているとした ため破門された。 しかしアリウス主義はそれ以降も4世紀にわたり東方やゲルマン人の間で長く受け入れ られた。ニケーアは現在トルコのイズニクに位置する。