(21)ヌミディア

(1) カルタゴ

カルタゴはポエニ人の都で名将ハンニバルがローマ軍と戦ったが、3度にわたるポエニ戦争でローマ軍が勝利を得て町を完全に破壊していた。 しかし前46年、カルタゴの地をおとずれたカエサルは、新しい都市を建設することを宣言しその計画はアウグストゥスによって実現して、植民地ユリア・カルタゴとよばれる新しい町がつくられた。
当時この町はローマについで繁栄したという。アウグストゥスは大規模な都市計画に基づきローマに次ぐ大きさのフォルムをピュルサの丘につくったという。 ピュルサの丘から東へ1kmほどいったあたりにローマ人の住居跡が残っており、ここで有名 なのが3世紀ごろにローマの富裕層が建てて住んでいたヴォリエールの別荘である。
ここにある舗床は大理石やモザイクでしきつめられており大変美しいものである。 北西のローマ劇場は
アントニウス帝時代の大火のあと拡張され最盛期には1万人を収容したという。現在でも催し物などで使用されている。 ローマ人の住居跡から海を見下ろしたところにはアントニヌスの浴場があり、浴場に使う水は60kmも
離れたザクアーンから水道橋によって運ばれ市北部にあるラ・マルガの貯水池に溜められていた。 この近くには円形闘技場があるがここは2−7世紀にかけて血生臭い剣闘や 猛獣狩りが行われ、クリスチャンの処刑場所と
しても使われた。 キリスト教の進展についていえばカルカゴには早くから音信が伝わったようである。

テルトゥリアヌスはこの地方のクリスチャンの増加について「それぞれの都市で住民の半数以上はキリスト教徒である」と述べ「あらゆる性、年齢、身分の多数の人々」に 言及している。当時カルタゴはローマに次ぐ第二の都市で大変繁栄していた。 円形闘技場はチュニジアに25か所もあり不道徳で残忍な見世物が行われていた。
テルトゥリアヌスは、そのようなものを含め様々な分野でクリスチャンが 世から離れているべきであることを詳しく述べている。 例えば不健全な娯楽を避けることについて「見世物について」と題する書物で 「われわれ[クリスチャンたち]は,狂気のさたのサーカスや破廉恥な演劇,競技場で行なわれる野蛮な行為などを,話すことも見ることも聞くこともせず,それらとは全く無関係である。」「そこには気持ちの良いもの,それ自体は快適で別に悪くはないもの,
いや非常に優れたものさえあることは認める。だれも毒をにがいもので薄めたりはしない。いやなものは,よく調味された,一番甘い味の薬味の中に入れられるものだ」と述べており これらは今日の私たちにも考えさせられる
発言となっている。 また戦争に参加しないことについては、剣を用いる者は剣によって滅びると述べている
キリストの言葉を引用しつつ非としている。 世の祝祭日についてもそれは異教の神々のためでり、義と不法に
何の関係もなく、 異教徒のように玄関の飾り付けをしないと説明している。 異教の神々について教える職業や
偶像をつくることに関連する仕事に クリスチャンは就くことができなかった。そして学校での教育については
そのような宗教的な要素には注意しつつも「世俗的な勉強をどうして退けることができよう。それなくしては宗教的な勉強も不可能であるというのに」とバランスのとれた見方を 持っていた。その他の分野としては血を避けるべきこと、寄付による運営の取り決め、 堕胎は殺人と変わりないことについて述べており、離婚、一夫多妻も非としていた。 後にカルタゴの近くのヒッポ出身のアウグスティヌスもこの地方の見世物に熱中する人々の「ゲームへの盲目的な愛」について述べているが、ヴォリエールの別荘のモザイクは 彼らの競馬への熱狂ぶりをよく示している。

(2) ハドゥルメトム(スース)

ここで有名なのはカタコンベである。ローマ近郊以外ではカタコンベはそれほど 多くないが1905年ここで発見
された。中は5kmにわたって掘られており 15000人も収容できたとされている。

(3) マダウラス

1世紀末にローマにより植民地化された。多くの学校があったことで有名で のちにアウグスティヌスもここで学んだことがある。 多くの殉教者を出した町としても知られる。ローマ時代のマウゾレウムや キリスト教関係に碑文が
残るバシリカがある。 現在のムダウロッシュ(アルジェリア)近くに位置する。

(4) シルタ(コンスタンティーヌ)

2世紀半ばのヴァレリアヌス帝の時代に殉教者を出していることが知られている。 標高600mをこえる岩がちな
高原に位置し周囲は切りたった峡谷に囲まれている。