(6)アカイア

(1) アテネ

アテネはローマに征服された時破壊され衰退していましたが、アウグストゥスと、そして特に ハドリアヌスの時代に再び繁栄しました。ギリシャ文化を熱愛したハドリアヌスはギリシャ式の建築物を整備しました。
アクロポリスの北にはローマ時代のアゴラがありましたが、その北側にハドリアヌスの図書館がつくられました。
アゴラ東側には八角形のウィンドタワーがあり日時計、水時計の役割を果たしたといいます。アゴラ西側のアテナ・アルケゲス門はユルウス・カエサルとアウグストゥスの寄進で造られ、統治者に捧げられました。 アゴラ西端にはヘーパイストス神殿があるがそのとなりがユダヤ人の会堂のあったところとされています。パウロはアテネに
来た時まず「会堂」と「広場(アゴラ)」で 人々と論じたとあるので(使徒 17:17)ここで宣教を行なっていたことが
わかります。 アクロポリス東に古代からあった神域オリンピエイオンはアンティオコス4世の治世 以来工事が
中断していましたが、ハドリアヌスが工事を再開し、ゼウス像と神殿を献納しました。オリンピエイオン北西には
ハドリアヌスの門があります。 パンアテナイア祭の競技場は前4世紀からあったがハドリアヌスは催した祭りに
使用されました。 アクロポリス西にあるのがアレオパゴスの丘でパウロはここに連れて行かれ話をすることに
なりました。有名な「知られていない神」についての証言はここでなされ ましたがパウロの演説を刻んだ銅版を
ここで見ることができます。 パウロが再びアテネに立ち寄ったという記録はないので、音信を受け入れた人は
少数にすぎなかったのかもしれません。 皇帝ハドリアヌス(117-138)ないしアントニウス・ピウスの時代になると
誤解ゆえに迫害されていたクリスチャンの立場を弁明した「護教論者」が活躍 します。

アテネのアリスティデスはその先駈けとなりました。 彼はギリシャ人などの異教徒と対比しつつクリスチャンこそ
真の神を 崇拝していることを示しました。彼は皇帝に対し生活習慣の面でクリスチャンの優れた点を強調
しました。クリスチャンは「姦淫を犯さず、偽りの証言をせず、父と母を 敬い、隣人に善を行ない、親切で慎みが
あり、お互いを愛し、やもめをさげすまず 父なし子を守っている」と述べています。 2世紀に活躍したアテネ出身のクリスチャンとしては他にアテナゴラスがいました。 彼は177年の迫害の際皇帝マルクス・アウレリウスに対し
クリスチャンは 何の犯罪も犯していないのにクリスチャンという名だけで迫害されている と訴えています。当時
なされていたクリスチャンは不道徳という偽りの非難に 対してはイエスの言葉を引用しクリスチャンは情欲の目で女性を見ることさえ しないと述べて反論しています。また人肉食いとの非難には殺人を見ることは 人を殺すのと
同じようなものでありそのような見世物さえ見ないこと、 堕胎さえ殺人とみなしていることを述べ反駁しています。

昔からあった進化論


アテネは哲学者たちの溜まり場でエピクロス派やストア派の哲学者たちが盛んに議論を交わして いました。
エピクロスは自然発生や適者生存を教え、ストア派は自然を神としていました。 それで現在の進化論や
東洋思想に対応するようなものが古代ギリシャの時代から あったことがわかります。初期クリスチャンたちも
そのような教えに反論するため 現在でも使えるような様々な論法を用いています。2世紀のアンティオキアの
クリスチャンで あったテオフィロスは「誰でも船を見れば船長がいるとわかるように、神が全宇宙のパイロット である」と述べています。アレクサンドリアのディオニソスはどうしてエピクロスやデモクリトスが 偶然生じたなどと
主張できるのかと述べつつ、街や家の建築を例に挙げて推論します。 家や街が造られるときなは、石が自然に落ちてきて造られるのではなく、建築者がよく準備した 石を注意深く正しい位置に置くのではないかと。 ローマのラクタンティウスも思考、知性とデザインのないところには何も造られないと述べ たくさんの例を挙げています。
彼は人間の体の諸器官や言語能力、また降雨と植物の成長 などの自然のサイクルに言及して
創造を擁護しています。

 

(2) コリント

コリントは西暦前146年にローマにより征服され火を放たれて破壊されて しまいましたが、ユリウス・カエサルに
より再建が始められました。前27年 アウグストゥスはコリントをアカイア州の首都としました。計画都市として
造られ ましたが、パウロはおそらくそのことも念頭において神と建てる業において どのように建てるかに注意を
払うよう訓戒しました。(コリ一 3章) ギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶ要所にありギリシャを南北に
横断するには 必ずここを通過する必要がありました。またペロポネソス半島の南を通過するのは強風で
難しかったので、ヨーロッパ方面はらの船はコリントの西で荷物をおろし 東側で別の船に乗り換えてアジア方面へと向かいました。 そのため大変な富がコリントには集まりました。コリントのアゴラの跡が発掘されており 「肉市場」などがあったことがわかっています。 ネロはここに運河をつくることに着工しましたが完成できず1893年になって ようやく現在ある運河が完成しました。 コリントの遺跡のみどころとしてはパウロが連れて行かれた法廷(ベーマ)があり 執政官代理ガリオによりこの問題が扱われたが、このガリオは有名な哲学者セネカの兄で その任期を
記した碑文はパウロの宣教の年代を決める重要な手がかりを与えています。 神殿ではドーリア式の神殿である
アポロ神殿がありました。パウロはクリスチャンを 神殿になぞらえて彼らこそ真の「神の神殿」であると述べています。 コリントといえば不道徳な町で有名でしたが、近くのアクロコリントの頂上には アフロディテの神殿があり1000人もの神殿娼婦がいたといわれています。 (この地にはかなり古くからフェニキア人が移住してアフロディテ崇拝を 持ち込んでいました。前11世紀にはドーリア人に支配され前7世紀には ギリシャ第一の商業都市となり
陶器で有名でした。)コリントの会衆は誇りによる分裂を生じていたが、1世紀末に書かれた「ローマのクレメンスの手紙」ではまだ コリントがその問題で苦しんでいたことがわかります。

(3) スパルタ

スパルタ教育で有名なスパルタは一時アテネを破りギリシャ全土を支配したものの すぐに衰退していました。
2世紀にここにもキリスト教が広まりました。町は4世紀に ゲルマン人により破壊されました。
現在のスパルタは19世紀になって 再建されたものです。

(4) ニコポリス

ニコス(勝利)の町という意味でアウグストゥスがアクチウムの海戦の勝利を 記念して建てた町です。パウロはこの町から最後にローマに連れていかれ 殉教したとも考えられています。パウロはクレタで働いていた テトスにこの地に来るよう指示しており(テト3:12)ニコポリスから北部の ダルマチアへの宣教へと赴きました。(テモ一4:10)

 

(7)イルリコ(ダルマチア)

現ユーゴスラビアに当たる地域で、2世紀にはサロナに会衆があった ことがわかっています。この地にはパウロも宣教に赴いたようです。 というのはパウロは前55年頃自分の巡回がイルリコにまで及んでいることを 述べているからです。(ローマ15:19) ダルマチアでは前述のテトスが奉仕を行ないました。

 

(8)マケドニア

エグナチア街道に沿ってフィリピ、アポロニア、テサロニケ、ベレア(現在のベリア) などにキリスト教が広まった。

(1)フィリピ

アレクサンダー大王の父フィリポス2世にちなんで名づけられた町。 アウグストゥスが皇帝になる前にブルータスを破った所で、それを記念して 市民権があたえられたが、人々はそれをとても誇りにしていた。 ここには暖かい会衆が設立された。現在は廃虚であるが、アゴラの跡や パウロが鞭打たれたという法廷や牢獄の跡が残っている。

(2)テサロニケ

アレクサンダーの妹の名にちなんだこの町はローマ時代に属州マケドニアの首都だったが 今日でもギリシャ第二の都市として繁栄している。 町の東にあるガレリウスの凱旋門はローマのペルシャへの勝利を記念して3世紀末に 建てられたものだが、その下をエグナチア街道が通っている。 街道の建設は西暦前145年に始まり,完成までに44年ほどかかりました。エグナチア街道は ローマの領土拡張主義政策にとって非常に有用なものとなりましたが更に重要なこととして キリスト教を広める上で大きな役割を果たしました。 この地の人々は患難のもとでみ言葉を受け入れたが、彼らの信仰はパウロの誇りと するところとなりました。

(9)トラキア

(1)ビザンティウム

現在のイスタンブールでエグナチア街道の東の終点となっていた。
2世紀までに音信がひろまった。ローマ時代の水道橋の跡が残っている。