ローマ皇帝対初期クリスチャン

1〜2世紀のローマ皇帝たちはクリスチャンをどのようにみなしたのだろうか?
皇帝一人一人について簡単な解説をしてみました。

(1) アウグストゥス(前27−14)

パックス・ロマーナつまりローマの平和をもたらしたが、キリスト教を広める上に 必要な世界が
彼の治世に整ったといえます。実際ある歴史家によればキリストがあと50年早く誕生していたなら
キリスト教は広まらなかっただろうと述べていますが、「ブルータス、お前もか」などと切りあいをしている
世の中ではキリスト教を広めることは難しかったことでしょう。
このように平和をもたらしたもののユリウス・カエサルを神として崇めることを 始め、
これは後の皇帝崇拝の習慣へとつながっていくことになります。
ローマ市の「平和の祭壇」は彼のもたらした平和を記念するものとなっています。

(2) ティベリウス(14−37)

イエスが宣教を行った時代の皇帝です。しかしそれは東方の小さな出来事にすぎず注目
されることはありませんでした。ローマ支配下では基本的に宗教の自由を保証されていた上、
ユダヤ人には彼ら独自の崇拝を続けることが認められており、クリスチャンはまだ ユダヤ人の一派と
しか当分はみなされていませんでしたから崇拝の自由を享受できたのです。
またティベリウスは自分自身の神格化を避けていた上、人気がなく 晩年には恐怖政治を行った皇帝で
死後神格化されなかったので、皇帝崇拝が 求められることもありませんでした。

(3) カリグラ(37−41)

前帝とは対照的に競技好きでカリグラの競技場が造られたが、これは後にネロの時代に
クリスチャンたちが殉教した場所となりました。皮肉なことにここには現在
サン・ピエトロ大聖堂が建っています。
彼はだんだんと狂気に走り自分を神として 崇めさせようとして、エルサレムに自分の像を
建てさせようとしたが、実現する前に 亡くなりました。

(4) クラウディウス(41−54)

ユダヤ人が盛んに暴動を起こしていたが「クリストスの扇動による」ものとみなされて
ユダヤ人のクリスチャンたちもローマから追放されました。 聖書はクラウディウスの時代に
「人の住む全地に大飢饉が臨む」ことを予告していましたが
ユダヤのクリスチャンたちにこのことが生じました。
首都ローマでも、 「パンとサーカス」で知られる配給制も行われていましたが
それが危機に瀕するほどの飢饉となり 、クラウディウスはローマの外港としてオスティア港を
整備して輸入の促進を図りました。 更に水道事業を整備してクラウディウス水道をつくりました。
ローマ市のポンタ・マジョーレ門にその一部を見ることができます。
クラウディウスは自分が神として崇拝されることを望むようになり
そのために自分の 神殿も造らせました。

(5) ネロ(54−68)

パウロがローマに来た頃おそらくキリスト教はローマで広がりをみせたと思われます。
西暦64年の大火はネロ自身が起こしたものと疑われましたが、
そのうわさを そらすためクリスチャンに原因を転嫁し、
クリスチャンを迫害した最初の皇帝となりました。
この時は迫害はローマに限定されていたようです。

(6) ウェスパシアヌス(69−79)

大火で焼けたローマを再建した皇帝です。ネロの時代にユダヤ人の反乱が起こり
ケスティウス・ガルスが鎮圧に失敗した後に司令官を務めました。
皇帝就任後 鎮圧は息子のティトゥスに委ねられました。
ユダヤ人問題を解決して平和をもたらした記念に、平和の神殿がフォロ・ロマーノの北に
つくられ、エルサレムからの金銀財宝が納められました。

(7) ティトゥス(79−81)

有名なコロセウムが西暦80年に完成していますが、これはユダヤ人への勝利によって得た
財宝によってつくられたとも言われています。
しかしここで殉教したクリスチャンはいないようです。エルサレムのユダヤ人反乱を鎮圧した記念に
ティトゥスの凱旋門が次のドミティアヌスに よってつくられました。

(8) ドミティアヌス(81−96)

歴史家エウセビウスによれば、ティトゥスの弟ドミティアヌスはユダヤ人が鎮圧された後
ダビデの一族(つまりユダヤ人の王族)の殺害を命じました。このとき彼らは
クリスチャンの 求めている王国は(ローマのような)地上の王国ではないことを弁明しています。
彼の時代に小アジアのクリスチャンたちは激しく迫害されました。
ペルガモンのクリスチャンは 「アンテパスの日」にも信仰を否認しなかったことで褒められましたが、
この時期に皇帝崇拝は 小アジアでは広まっていたようです。
ヨハネはドミティアヌスによりパトモスに流刑にされました。

(9) ネルヴァ(96−98)

五賢帝の一人。彼の治世にヨハネはパトモス島から帰還することができました。

(10) トラヤヌス(98−117)

この時期のキリスト教について伝えているのが、トラヤヌスとビチニアの総督小プリニウスの
往復書簡です。キリスト教が大変な勢いで広まっているため、キリスト教徒への訴えを
どう処理したらよいかをプリニウスは皇帝に尋ねています。
それに対しトラヤヌスはわざわざ キリスト教徒を探し出して処刑する必要はないものの、
告発されて棄教しない者は処刑するとも 述べています。
この当時のクリスチャンの立場は極めて不安定なものでした。
彼らは何かの犯罪ゆえにではなく、クリスチャンという名だけで迫害されていたのです。

(11) ハドリアヌス(117−138)

ダキア(ルーマニア)など東方に遠征し、またガリア、ゲルマニア、ブリタニア方面にも遠征し
ハドリアヌスの長城を築きました。彼の時代にローマ領は最大になりました。
ハドリアヌスはギリシャ文化に深い関心を示しアテネにたくさんの建造物を造りました。
彼はエルサレムをジュピターに捧げられた異邦人の町にしようと計画しましたが、
そのためバル・コクバの乱(132−135)が起きユダヤ人は再び鎮圧されました。
この争いにクリスチャンは加わりませんでした。 以後エルサレムは異邦人のみの町とされ、
会衆も異邦人のみにより構成されることになりました。
ハドリアヌスはクリスチャンに対しては好意的な皇帝とみなされています。
キリスト教に対する反対が問題とされたとき、クリスチャンが「法に反しているのか、
それとも (訴えた人の)中傷によるのかを見極めるように」とこの皇帝は指示しています。
現在ロ^マのハドリアヌスの霊廟はサンタンジェロ城として知られています。

(12) アントニウス・ピウス(138−161)

アントニウス帝はハドリアヌスよりも更にクリスチャンに好意的であったといわれています。
サルデスの監督メリトが後にマルクス・アウレリウスに送った弁証論によれば、
彼はクリスチャンに対するいかなる新しい暴力的手段も禁ずる法令を出しています。

(13)マルクス・アウレリウス(161−180)

この皇帝の時代に激しい迫害が起こり、ローマのユスティヌスや
スミルナのポリュカルポスなどが 殉教しました。クリスチャンち対する誤った非難を除くため
たくさんの嘆願が皇帝に送られました。 ユスティヌスは殉教直前に「第二弁証論」を送っています。
他の護教論者としては メリト、タテアノス、アテナゴラスらが活躍しました。
アウレリウス帝は哲人皇帝として知られストア派を信奉していました。
彼の「自省録」には優れた 道徳的価値観が表わされているので、なぜ彼がクリスチャンを
迫害したのかは不思議なことと考えられています。
幾つかの理由が挙げられていますが、天災との関係も指摘されています。
この時期にはたくさんの地震が起き、テベレ川の反乱や疫病の流行などがありました。
(166年は災厄の年といわれその年にユスティヌスは殉教しました。)
人々はローマの神々を和めるよう努めましたが、クリスチャンたちはそれに加わらなかったので
天災はクリスチャンのせいであるとみなされたのです。

 

アウグストゥス 平和をもたらす
ティベリウス 帝国を安定させる
カリグラ 競技を促進
クラウディウス ユダヤ人暴動、飢饉
ネロ 第1の迫害 大火の責任転嫁
ウェスパシアヌス ユダヤ戦争
ティトゥス エルサレム征服
ドミティアヌス 第2の迫害 ダビデの一族殺害、小アジアの激しい迫害
ネルヴァ ヨハネ釈放
トラヤヌス 第3の迫害 小アジアで皇帝崇拝促進、プリニウスの手紙
ハドリアヌス バル・コクバの乱、クリスチャンには寛容
アントニウス・ピウス クリスチャンには寛容
マルクス・アウレリウス 第4の迫害 ユスティヌス、ポリュカルポスの殉教 護教論者の活躍

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