ヘブライ語の単語張
aheb 愛、愛される者(友)
聖書中にこの語が最初に登場するのは愛する独り子イサクに関してで
神の深い愛を表わしていました。友とは愛される者を意味しており、
アブラハムは神の友、つまり愛される者と呼ばれました。(イザ41:8)
aven 有害なこと
この言葉は罪(とりわけ偶像崇拝)の有害な結果を強調した言葉といえます。
ホセア書の中には「ベト・アベン」(有害なことの家)という言い方が
出て来ますが、これは「神の家」であったベテルが今や
「有害なことの家」
になってしまったことを軽蔑的に述べた言い方のようです。
詩編作者は「有害なことを習わしにする者」が滅びることを繰り返し述べ
(36:12,92:7,9,94:23,101:8,125:5)彼らとの交わりに警戒すべきことを
教えています。 (28:3,64:2,141:4)
ap 怒り、鼻孔、鼻
アフという語で表わされる怒りは、鼻孔(Ge2:7)、鼻という意味で、
激怒した人の鼻息から来ている言葉です。エホバは
「怒ることに遅い」神と
何度も述べられていますが、(Ex34:6,7)
字義的には「鼻(怒り)が長い」という
意味です。
ある人たちにとっては文字通りの鼻の高さが大切であるかも
しれませんんが、もっと大切なのは霊的な「鼻の高さ」であるといえるでしょう!
しかしイスラエル人は不敬虔な態度ゆえにエホバを何度も
「怒りに燃え」させる
結果となりました。(Nu11:10,33,12:9,25:3,4,32:10)
ゼパニヤは「エホバの燃える怒り」がこの体制に臨むときその
「怒りの日」から
隠されるために何をすべきかを私たちに教えています。(Zep2)
enosh 死すべき人間
エノシュとは人間の弱さやもろさを表わす語で、「人」を表わす他の
ヘブライ語(アダム、イーシュ、ゲバル)と区別されます。
アダムから3代目の人はエノシュと
名づけられたましたが、
人間の不完全さが意識されはじめたのかもしれません。
エホバが「死すべき人間」に思いを留め(Ps8:4)、限界を理解し(Ps103:15)
心を歓ばせてくださる方(Ps104:15)であることは私たちの慰めとなります。
armon 住まいの塔
ジェームズ王欽定訳では単に宮殿と訳されているこの語は
通常王宮の中の要塞化された住みかを指すことばです。
アモスはダマスカス、ガザ、エドム、モアブの「住まいの塔」だけでなく
不忠実になったエルサレムとサマリアの「住まいの塔」がむさぼり食われる
ことを 警告しました。(アモ 1:4,7,12, 2:2,5、3:9,10,11)
asham罪科のある
asham 罪科の捧げ物
ashma 罪科の元
罪科とは権利の侵害が関係した罪でしばしば20%増しの償いが求められました。
罪科の元とはその罪が多くの悪影響を与えることと関係しているかもしれません。
ダビデの人口調査は「罪科の元」となりました。(代一
21:3)
ネヘミヤは祈りの中で異国の妻をめとったことが「罪科の元」となったと述べていますが、
確かにイスラエル人は過去にカナン人と交わることにより背教し
それが罪科の元となったので、そのように述べることができました。
(ネヘ 9:6,7,13,15,10:10,19)
ashrey 幸いだ
asher アシェル
幸いなるかな、で始まる詩編はどのような人が幸いになることができるのかを
私たちに教えてくれる。1編ではそれが、悪い交わりを避け、
み言葉を毎日黙想する人であることを教えてくれる。
幸いを意味する語ashreyは、詩編に26回使われている言葉である。
(ちなみにアシェルの部族の名は、レアがアシェルの誕生を喜んで「幸いだ」と
言ったことに由来している。)他に使われているのは
2,32,33,34,40,41,65,84,89,94、
106,112,119,127,128,137,144,146編である。
何が人を幸いにするか更に調べてみるとおもしろいだろう。
baash 悪臭を放つ
詩編38編でダビデは自らの重大な罪が悪臭を放つようになったことを述べている。
このバアシュ(悪臭を放つ)という語はどんな場合に用いられているだろうか。
エジプトに下された災いでは死んだ魚やカエルの死骸の山が悪臭を放った。
(出7:18,21,8:14)この語はそのような文字通りの悪臭に加えて悪い人間関係のために
生じてしまう嫌悪感を表わすときにも使われ鼻持ちならないものとなるという意味にも
なる。(創世記34:30,サム二16:21)
ダビデは自分の罪が悪臭を放つものとなってしまったことを述べているが、(詩38:5)
邪悪な行為は大変腐っているため神の鼻孔に悪臭を放つものとなるのである。
しかしたとえそのような状況に置かれたとしても神に仕えることをあきらめてはならない。
ダビデのようにエホバを待ち望み(38:15)罪を告白し(18)、善を追い求めるなら(20)
立ち返ることができる。
bagad 不実な振る舞いをする
イスラエルはエホバの妻の立場にあったのに不実な振る舞いをし
背教した。(エレ3:20,5:11)
マラキに時代の人々は異国の妻をめとり
若いときの妻に不実な振る舞いをしていた。 (マラl2:10,11,14,15)
聖書は不実な者は地から断ち滅ぼされると警告している。(箴言2:22)
baza 軽んじる
この語はあまり価値がないと考えて低く評価することを指す。
マラキの時代の祭司たちは汚れた犠牲を捧げることによりエホバのみ名を
軽んじていた。 (マラl1:6,7,12)エサウは長子の権を軽んじた。(創
25:34)
私たちは霊的物事の価値を軽んじることがないように注意しなければならない。
エホバは苦しんでいる者や(詩22:24,69:33,102:17)や悔い改めている人を(51:17)
「さげすまれない」。私たちもミカルのように仲間の崇拝者を軽んじることが
ないように しなければならない。
bahan 試みる、調べる
エホバは私たちをよく調べられる神である。
詩編11編4節では
「その輝く目が人の子らを調べ」、
5節では「義なる者をも邪悪な者をも
自ら調べる」といわれている。
ここで「調べる」と訳されているbahanと
いう語には本質、特に忠誠を
調べるという意味がある。
(イザヤ28章16節ではメシアが忠誠を「試された石」として述べられている。)
エホバは私たちの弱点だけでなく私たちの内面の本質をも見て
ご自分に仕えたいとの願いを持っているという良い面を見てくださるのである。
139編23節では「不安の念を起こさせる考え」を調べることについてこの語が
用いられており、私たちの不安や心配の感情や真の原因をよく理解していて
くださると 確信できる。
bin 理解する
bina 理解
理解という語は「間」(イザ2:4,59:2)という語と関連している。
理解するとは物事相互の関係を把握することにより全体を理解することである。
エホバは理解を持って天を張り伸ばした方である。ヨブはそのような神のみ業について
悟っているのかと問われ、理解していないことを認めざるを得なかった。
(Job32:8,9,34:16,36:29,38:4,20,36,39:26,42:2)
ダニエルは与えられた幻を理解するよう励まされた。(Da9:23,10:1,11,12,14)
終わりの日に神の民は優勢になり「理解を分かつ」ことになっていたが(11:33)
邪悪な者は理解しないことが予告されていた。(12:10,Isa6:9,10)
私たちは自分の
理解に頼らず(箴言3:5)詩編作者のようにエホバに
「理解させてください」と願うべきで(Ps119:27,34,73,125,144,169)
そのように求め続けるとき
「エホバへの恐れを理解」することができる。(箴言2:5)
baka 泣く・バカの木
泣くことには利己的な理由(民数11,裁き人14:16,17)から
嘆願(1サム1:7,8,10,ホセ12:4)、 悔い改め(Ps137:1)に至るまで様々な理由が考えられる。
聖書中に出てくるバカの木は泣く木ともいわれている。詩編84編で
エルサレムへの
街道を行く人々は「バカの生い茂る低地平原」を通っていくが
「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」(新共同訳)とも
訳されており、
努力を払って崇拝を大切にするときに祝福がもたらされることを
示唆している。
それは宣教においても同じことである。(詩126:6)
baliyal
無価値な、どうしようもない
belima 無
ベリアルという語はエリの息子たちやナバルのような「どうしようもない者」を表わして
用いられている。詩編作者は「どうしようもないものを目の前に
置かない」ことを
決意としていた。(詩101:3)後に死海文書は光の君ミカエルと対比して闇の君を
ベリアルと呼んだ。(War Scroll)また現在はベリアルが地を支配しているとき
であると
みなされていた。(Damascus Document)
ギリシャ語聖書は適切にもサタンのことをベリアルと呼んでいる。
ベーリーマは「何も物がない」という意味で、ヘブライ語聖書中に一度しか出てこないが
ヨブ26章7節でのみ使われ画期的な科学的事実を述べている。(Tohuの項も参照)
gaal 買い戻す者
古代イスラエルでは奴隷になった人を近親者が買い戻すことができた。
その実例はルツ記に見られ、メシアが人間として生まれ私たちの近親者と
なって奴隷状態から買い戻すことを予表していた。
gillul 糞像
イスラエル人がカナンの地に入ったとき、割礼を受けることにより
エジプトの恥辱を転がし去ったことから、その場所はギルガルと呼ばれた。
このgalal(転がす)と関連したgillulという語は偶像を軽蔑的に語った言葉である。
deror 自由
ヨベルの年に自由がふれ告げられることに関して用いられている言葉で
あるが、興味深いことにイザヤ61章でメシアのもたらす自由に関し
用いられている。
hebel むなしい
伝道の書だけで35回以上用いられている。
「何とむなしいことか」(1:2)で始まり
「すべてはむなしい」
(字義 むなしさのむなしさ)(12:8)まで続く。
偶像に言及しているところでは「むなしい偶像」を意味する。
hod 尊厳
エホバ神は人をご自分の様にお造りになることによりある程度の
尊厳を人間に付与された。 詩篇8編に記されているようにエホバご自身が
「威光をおびた」方であられるが(8:1)、
人間にも「光輝と栄光」を添えて、
動物を治めるという尊厳ある仕事をお与えになった(5)。
それで私たちはお互いを尊厳を持って扱うことが期待されている。
hawwa 逆境
ダビデはたくさんの逆境を経験した。逆境のときはそれが通り過ぎるのを待ち(詩59:1)
エホバに避難することである。(91:3)うわさ話という逆境には黙っていることが
最善であることが少なくない(38:12−14)
敵対者にはやがて逆境が生じる。(5:9,55:11,94:20)
hama 騒ぎ立つ
hamon 群衆
聖書は一般的に騒がしいことに対し否定的である。(箴言
9:13,20:1)
苦難においても騒ぐのではなくエホバを待つべきであることを聖書は教えている。
(詩 42:5,11,43:5)詩篇39編は苦難にあって大騒ぎするのではなく霊を制御
すべきことを
教えている。しかし中には良い騒ぎもある。エレミヤは全土の荒廃を幻で見たため
はらわたや心臓が「騒ぎ立った」(エレ4:19,21:20,48:36)
私たちは人々に対しエレミヤのような
同情心を持つことができるだろうか?
ハモン(群衆)という語についていえば、この語は神の民に関して用いられることも
あるものの(Isa60:5)敵の群衆について言及していることが多い。
エゼキエル32章ではこの語が10回用いられ、サタンがこの世の多くの群衆を
引き離す
ことにより慰めを得ることが予告されている。彼らは「ハモナの谷」
(群衆の谷)に 埋葬されることになる。(Ez39:11)
zakar 覚える、思い出す
zeker 記念
ゼカリヤ(ヤハは覚えてくださった)などの名にこの語が含まれている。
「あなたの若い日に偉大な創造者を覚えよ」と言われているが
覚えることには知識以上の行動が伴うものでなければならない。(伝12:1)
例えばエレ31:34ではエホバがもはや「罪を思い出さない」と預言」されているが
これは罪についての記憶が無くなってしまうということではなく、
その罪を罰するための行動を起こさないという意味である。
「記念」とは神のみ名を指している。(出3:15、ホセ12:5)
zara 胤
創世記3章15節の最初の預言に登場する特別な子孫のことをさす。
この語はzara(種をまく)と関連する語であるが、エズレルという地名が
この言葉から構成されている。ホセアは説明しているように
エズレルとは「神は種を播かれる」という意味である。
kashal つまづく
mikshol つまづきのもと
人生はいつも順調とは限らない。私たちが神に是認される歩みを
しているだろうかと考えるとき、その歩みがあまり順調ではない
ことに気づくこともあるかもしれない。
私たちの歩みのつまずきとなっているのは何だろうか?
外部からの圧力もあるとはいえ
私たち自身がそのつまずきの原因を作ってしまうこともある。
「つまずきのもと」を意味するヘブライ語miksholをエゼキエルは
何度か用いているが、この語はkashal(つまずく)から派生した語で
つまずきの石(stumbling block)を意味し、障害や罪の原因であったりする。
それは富の追求であったり(7:19)、また立ち返ろうとしない
態度であるかもしれない。(18:30)
エゼキエル14章ではこの語が3度用いられている。
この章でつまずきのもととして取り上げられているのは
「偶像を心に抱くこと」であるとされる。
私たちの歩みが神に仕えることより別の関心事に向いているとき
それは「心の偶像」となってしまうかもしれない。私たちは自分の心に
取り入れる事柄により自分の歩みに
つまずきの原因を作っていないかを自問してみることができるだろう。
nahal 注意深く導く
naha (道に沿って)導く
「エホバは私の牧者」ではじまる詩編23編は
エホバのやさしい導き方を感じさせる章である。
2節で用いられている「導く」という語は nahalでこれは
「注意深く導く」ことを意味している。エホバは私たちを草の多い
牧場や水の十分にある休み場に導いて必要にやさしく気を
配ってくださる方として描写されている。
興味深いことにこの語は創世記33章の中でも用いられ、
ヤコブが小さい子供たちや畜類のペースにあわせてゆっくり進んだ
ことに関して使われている。(33:14)(Isa41:11,49:10も参照)
一方3節の「導く」はnahaという語で、これは「正しい道に沿って
導く」ことである。ここでは「義の進路に導く」ことについて
用いられている。詩編作者はエホバの導きを描写するにあたり
しばしばこの語を用い、エホバが正しい道へ
導いてくださることについて述べている。
(5:8,27:11,41:3,73:24,107:30,139:24,143:10)
sapar 数える
soper 書士
聖書を書き写した写字生たちはヘブライ語でソフェリム(soperの複数形)
といわれ、聖書写本の1文字1文字を数えたことで知られています。
このソフェリムの語根がsapar(数える)です。詩編48編で
エルサレムを攻撃した王たちは、神が堅固な砦となっておられるのを見て
あわてて逃げてゆきます。作者はそのことを熟考し、
神の保護と愛ある親切について
思い巡らすよう私たちにすすめています。
作者は実際にシオンの周りを歩き塔の数を数えてその1つも
敵によって損なわれていないのを見い出しました。
私たちも神の保護についてよく熟考し祝福を数えあげるとき
感謝の念に満たされることでしょう。
ola 焼き尽くす捧げ物
elyon 至上の、至高者
ala(上る)から来ている語で、elyonは一番上にあるものを指して
用いられている。
pada 請け戻す
第一に商業用語で、お金を払って請け戻すことをさす。
解放を強調した言葉である。
tsebaot
軍、(複数形で)万軍の
tsaba 奉仕する、戦う
「万軍のエホバ」という表現でヘブライ語聖書中に285回出てくる。
関連するtsabaという語は軍役のような組織的奉仕を意味しており、
幕屋における奉仕の一部にもこの語が用いられている。
(出38:8、民4:23)
qadash 神聖にする、取り分ける(ピエル態)
イスラエル人が荒野にいたときモーセは激怒して岩を打ち
約束の地に入らなくなったが、これはエホバの名を神聖なものと
しなかったためといわれている。この出来事があったのがカデシュの
町に他ならない。エホバはモーセを裁かれご自分のみ名を
神聖なものとされた。(民数20:1,12,15)
qawa 待ち望む
綱(tiqwa)、測り綱(qaw)という語と関連している。
この綱という語はヨシュア2章で
用いられているあの緋色の綱であり、ラハブの一家を救った
希望としての綱である。qawaはこれに関連する語であり、私たちは
エホバを命綱とし、しっかりつかまっていなければならない。
「エホバを待ち望む者は再び力を得る」(イザ40:31)
rob 豊かな
この語は多い(rab)、一万(rebaba)を表わす語とも関連していて
あらゆる面での豊かさが包含されています。
それで「豊かな平和に無上の喜びを見い出す」(詩37:11)時、
それは繁栄、幸福、長寿、健康などのあらゆる面に
及ぶものとなるでしょう。
raham 憐れむ、深く愛する
この憐れみという語はよく説明されているように
「胎」を表わす語と関連し、深い愛情も眼差しが伝わってくる言葉
です。それは愛情を持つことでもあり、詩編18編1節では
「あなたに愛情を抱きます」となっています。
(それでこの憐れみは、情けをかけたり惜しみみるという意味の
「哀れむ」(hus)とは区別されなければなりません。
聖書では実際ある種の悪行者については哀れむべきでないことを
教えています。)
sakal 洞察する
詩編の表題に付いているマスキルは
洞察を与えたり黙想を促す詩であるともいわれているが
sakalには洞察するという意がある。興味深いことに
創世記3章6節の中でこの語が用いられ、善悪の知識の木について
字義的には「その木は洞察を授ける好ましいものであった」と
述べられている。
shub 戻る、立ち返る
イザヤの子供の一人は「シェアル・ヤシュブ」という名で「残りの者は返る」
という意味があったが、忠実な者たちが補囚から帰還することを保証する
預言的な名となっていた。見張りの者に求められていることは
人々に立ち返ってほしいというエホバの思いを伝えることにあるが
(エゼ33:11)それには邪悪な者が「立ち返る」よう警告するだけに
とどまらず(エゼ18:27,28)、義なる者がその道から「離れて」
(shub 英語では turn)悪を行なうことがないよう警告することも
含まれている。(エゼ18:24,26)
tamam 完全な、とがのない
ノアやヨブといった人物を描写するのに聖書が用いている語で
あるが、もちろん彼らが絶対的に完全な人間であったという
わけではなく、相対的な完全さである。
「きずのない」動物を捧げるようにという部分でも
この語が用いられています。(レビ1:3など)