モーセの時代のファラオたち

モーセの生きていた時代のエジプトはいったいどんな時代だったのでしょうか?
出エジプトの時代に君臨していたファラオが誰であるのかについて聖書はその名を
述べてはいませんが、大体の時代を推定することはできます。この点については
2つの意見(早期説と後期説)があります。
早期説では列王一6:1を文字通りとり、ソロモンの時代から逆算して
出エジプトの時期を第18王朝の時代と考えます。一方後期説では
出エジプトの時期を「プリンス・オブ・エジプト」のようにラムセス2世の
時代とします。以下では早期説の立場をとり、その時代を考えることから
モーセの信仰の偉大さを考察してみることにしましょう。

 

第18王朝の始祖となったアフメス1世はヒクソスに対する勝利を得たということに

なっています。このヒクソスの進入について学者たちは

約200年間に及んだ第13から17王朝としていますが,この時代については十分理解

されていないのが現状です。

 

神格化されたファラオ

 

あとを継いだ王は父の崇拝していたアモン神にちなみ自らをアメンホテップと

名づけ自らをラーの息子と呼びました。このアメンホテップ1世はリビアの進入を防ぎ

ヌビアに勝利をおさめた栄誉として死後に神格化されました。

そしてエジプト人は徐々にファラオを神の化身とみなすようになりました。

以後多くのファラオたちもアモンの名を自らに付しています。

(アメンホテップ3世、アメンホテップ4世、ツタンカーメンなど)

このことは神がモーセをファラオに対して神とすると述べたことを思い出させます。

神であるファラオに対しエホバもモーセを神の代表者として

送り出されるのです。(出エジプト 7:1)

ちなみにエジプトの王がファラオの称号で公式に呼ばれるようになったのは

この時期のことなので、このこともモーセが聖書を記すに際し

ファラオの称号を使ったことと合致します。

 

ファラオの娘?

 

後を継いだのはトトメス1世で、彼はアメンホテップ1世の妹と

結婚していましたが前王が子供を持たずに死んだとき

王を名乗りました。一部の聖書学者たちはトトメス1世こそ

「ヨセフのことを知らない新しい王」(出エジプト1:8)と考えており、

聖書辞典で有名なウンガーは18王朝の初期の王としています。

彼はヌビアへの勝利も得てエジプトに安定をもたらしたといわれています。

さて興味深いのは彼には王妃との間に息子が生まれなかったことです。

第二婦人との間に生まれたトトメス2世がまず王位につきますが

彼が亡くなると、トトメス1世と王妃との間に生まれた娘ハトシェプスト

王として君臨します。このハトシェプストがモーセを養子にしようとした

ファラオの娘だったのかは決定的な証拠がないため判断することができません。

ヨセフスはモーセを養子にしようとしたファラオの娘の名をトゥルムシスと

していますが、ヨセフスによればモーセは若いころエジプト軍を率いて

エチオピアに勝利を得たことになっておりこの記録を信頼するのは難しそうです。

このモーセ(MOSE)という名とトトメス(THUTMOSE)の類似は

何らかの関係があるのでしょうか。

テーベの西岸の壮麗なハトシェプストの葬祭殿はこの時代の繁栄をよく示す

ものとなっています。

 

ハトシェプストの葬祭殿

 

ルクソールの西岸にあるハトシェプストの葬祭殿は古代エジプト建築の傑作の

ひとつで多くの観光客が現在では訪れています。この神殿には3段のテラスがあり

中段のテラスの柱廊にはハトシェプスト治世中の2つの重要な出来事が

記録されています。

そのひとつである「誕生の柱廊」でハトシェプストはトトメス1世の姿をした

アモン神により母の胎内に宿った者として表現されており、自らをラーの娘と称し

神性をもつものとして描写しています。この葬祭殿にはハトシェプストと

トトメス1世、2世を礼拝する礼拝堂まであり、当時のファラオが神として

崇められたことをものがたっています。ちなみに古代エジプト人は神や神なる

ファラオを超能力をもつ存在とみなし、スフィンクスなどであらわしましたが

スフィンクス姿のハトシェプスト女王像もこの葬祭殿から見つかっており

現在ベルリンの博物館に展示されています。

もうひとつの柱廊は「プントの柱廊」と呼ばれています。プントはエジプト人が

はるかかなたにある神秘の国と考えていたものですが、ハトシェプストは

プントを探すべく代表団をおくりだします。行き着いたのはスーダンかどこかの

南部と思われますが、この「プントの柱廊」にはプントから持ち帰ったといわれる

乳香や没薬などがえがかれています。この時代にはヌビアとの交易により金や象牙が

エジプトにもたらされました。

ハトシェプストの葬祭殿の裏には有名な王家の谷があり、おそらくモーセと

同時代と思われる第18王朝のファラオたちは、莫大な財宝とともに

ここに葬られたのです。

 

メギドの戦い

 

ハトシェプストが亡くなるとようやくトトメス3世が単独で王位に

就きます。(55年の治世のうち22年は彼が幼少のため共同統治)

トトメス3世は強力な王で帝国をリビア、ヌビア、中東はと拡大します。

彼は第1回遠征の際メギドでカナンの王たちの連合軍と戦って

決定的な勝利を収めます。メギドに向かうのに3つの可能なルートがあったのですが、

彼はあえてもっとも険しいルートを選ぶことにより敵の意表をついて

この勝利を得たのでした。

興味深いことにエジプト軍が得た戦利品の中には戦車924両が含まれていました。

これはイスラエルがカナンの王ヤビンと戦ったときカナン軍が戦車900両を

持っていたことを思い出させます。(士師記4:3,ヨシュア17:18)

ちなみにトトメス3世は征服した土地の地名表を作りましたが

この表は119の地名を含み、聖書中に見られる地名も数多く見出すことができます。

 

莫大な戦利品

 

結局彼は17回もアジアに遠征し勝利を収め莫大な戦利品を得ます。

彼はアモン神の名のもとに勝利を得て、それら莫大な戦利品をカルナクにある

アモンの神殿へと携えいれます。カルナクのアモン神殿のレリーフは

トトメス3世が供えた黄金の装飾品などを描いていますが、当時の

エジプトの富がどれほどのものであったかをよく知ることができます。

このことを考えるとモーセがどれほどの富をあとにして信仰の道に

立場を定めたかがわかでしょう。(ヘブライ 11:26)

ちなみに彼の建設事業の幾つかではアジア系の捕虜が使われていますが

イスラエル人もそのころ強制労働に服していたのかもしれません。

 

長期政権

 

トトメス3世の治世は55年に及びましたが、これは興味深いことです。

モーセはファラオの怒りをかって40年間ミディアンへ逃れましたが

一般の年代計算が正しいとするなら、40年以上治めた王は

第18王朝では彼だけなのでその時のファラオはトトメス3世であった

可能性が高くなります。このことはモーセがミディアンから戻るときに

「こうして多くの日がたつうちにエジプトの王はついに死んだ」と

聖書が述べていることにも調和しているように思われます。(出エジプト2:23)

 

ガリラヤ遠征

 

後を継いだのはアメンホテップ2世です。彼はスポーツ万能のファラオだった

ようです。一部の学者たちは彼が息子を持たずに死んだことを初子の死と

結びつけようとしますが、これには無理がありそうです。

アメンホテップ2世は25年も治めたとされていますが、出エジプト時のファラオは

十の災厄の短い期間だけ治めて紅海で亡くなったと考えられるからです。

このときの忌まわしい歴史はエジプト側の資料からは抹殺されていると

考えるほうが道理にあっているといえるでしょう。ちなみにトトメス1世

以降の名前の残っている第18王朝のファラオたちはみな王家の谷に

葬られているので、それが本当であれば紅海で溺死したファラオとは誰も

合致しないように思われます。

さてアメンホテップ2世の話に戻ると、彼はカナンの反乱を鎮圧するために

2度遠征したことになっていますが、結果はあまり芳しくなかったようで

勝利を得たということは特に述べられていません。

また続くトトメス4世も「シリアの征服者」とは言われているものの

実際には遠征しているわけではないようで、この頃からエジプトの

カナンに対する支配力は失われていったようです。イスラエルがカナンに

入るころには、エジプトはカナンに干渉する力を失っているようなので

カナン定住はこの時代より後の事といえるかもしれません。

 

蛇の冠

 

この時代のファラオはトトメス4世を含め額に蛇のついた冠を

かぶっています。トトメス4世の額についたコブラの女神は

敵に対して口から火をふいて一瞬にして死に至らせると考えられて

いましたが、モーセが対決したファラオはモーセとアロンが杖を

大へびに変えてみせても、それに対抗することができませんでした。

( 出エジプト 7:8-13 )

 

ファラオの戦車

 

イスラエル人を紅海まで追跡してきたファラオは戦車に乗って

いましたが(出エジプト 14:28,15:4)興味深いことにトトメス4世の墓からは

戦車が見出されています。また少しあとの時代のツタンカーメンが

戦車に乗っている壁画をカイロのエジプト博物館で見ることができます。

このことも聖書の信ぴょう性を裏づけているといえるでしょう。

 

最も繁栄した時代

 

次のアメンホテップ3世の時代はエジプトの歴史を通じ最も繁栄した時代と

なりました。トトメス3世の時代に入ってきた莫大な戦利品のおかげで

贅沢な生活が可能となっていました。製陶やガラス工芸などの芸術も発展したのも

この時代で、ルーブル美術館ではアメンホテップ3世の名前入りのポットなど

この時代の作品を見ることができます。

ルクソールではこの時代の建設事業をたくさん見ることができます。

ルクソール神殿は彼が建設をはじめたものですが、ここには「誕生の間」と

呼ばれているところがありアメンホテップ3世の神としての誕生が描かれています。

またルクソール西岸ではメムノンの巨像といわれる巨大なファラオの座像を見る

ことができますが、この時代にはたくさんの大型の王像が造られました。

ここにある碑文は「いたるところ金でちりばめられ床は銀で舗装されている」と

当時の様子を述べています。

 

宗教改革

 

つぎのアメンホテップ4世はこれまで崇拝されてきたエジプトの神々をすべて

禁じてアモン神のみの崇拝を導入した異端の王として知られています。

このような極端な政策は10の災いでエジプトの神々が辱められたことと

関係があると考える人たちもいますが、そのように結び付ける理由はないようです。

新しい首都アマルナでは独特のアマルナ美術といわれる写実的な美術が栄えましたが

この時代の最大のコレクションをベルリンのエジプト博物館で見ることができます。

アメンホテップ4世の王妃が有名なネフェルティティです。

この時代に前述したように”ハビルの侵略”について訴える手紙が

カナンから彼のもとに送られています。その中でゲゼルの支配者はハビルが

彼らを滅ぼすことがないよう助けてくれるよう求めています。聖書の記録は

ゲゼルの王ホラムはヨシュアの軍隊に抵抗を試みたものの失敗に終わった

ことが示唆されています。(ヨシュア記10:33,12:12)

 

第18王朝の終焉

 

つぎのツタンカーメンはあまりにも有名なので書くまでもありませんが

彼が有名なのは、あまりたいした王ではないために墓が荒らされずに

残った唯一の王であるからです。したがって強大なトトメス3世や

アメンホテップ3世の富ははるかに想像を絶するものであったことで

しょう。最後のアイ、ホレンヘブについては特に述べるべき点もありませんし

モーセの時代から遠くなってしまうので割愛したいと思います。

 

copyright Shinichi Yoshinaga 1998