そば/それてのpara

「臨在」とも訳されているパルーシアは字義的には「そばにいること」を
意味しますが、para(beside)という語がつくと「そばに」ないし「それて」
などの意味になるものが多くあります。例でみてみましょう。

parabaino/parabasis

それぞれ違反する/違反を意味します。baino(行く)にparaがついてそれて
いくことを意味します。例えばモーセの律法は「違反を明らかにするため」に
与えられ、私たち人間がどれほど神の規準からそれているかを明確にするものとなりました。

parabolee

たとえ」のことです。このparaboleeは英語のparable(たとえ話)
という語よりも広い意味があります。実際字義的には「そばに置く」ということを意味して
いますから、イエスが身近にある動植物や、日常生活を例にして用いられたように
そばにある身近なものをいろいろな仕方で用いることができるでしょう。
英語のillusurationという語は例え一般を表わす語としてふさわしいものですが、
この語からわかるように例えというのは譬え(つまり話)だけでなく、
挿絵(イラスト)や写真などの視覚に訴えるものも含まれているといえるでしょう。

parangello

「命令する」と訳されていますが、angelloにparaがついて、
そばに伝えることから「命令を伝達する」というニュアンスになります。
例えばテトスはクレタ島の諸会衆に幾つかの命令を伝達することが
求められました。(Tit 1:3, 4:11, 5:7, 6:13,17)

paradidomi

didomi(与える)にparaがついて「引き渡す」の意味になります。

paradoxos

パラドックスという語でお馴染みですが、dokeo(信じる)から
それている事柄とした、「信条や期待と反対の事柄」を意味しています。
聖書中には1度だけ用いられていますが、イエスの奇跡を見た人々の反応として、
「今日は不思議な事柄を見たものだ」(Lu5:26)という部分で使われています。

paraskimai

「近くにある」ということですが、パウロが「悪が自分のうちにある」と
嘆いている部分で使われています。

parakaleo/parakleesis

慰める」「慰め」という言葉ですが、字義的にはそばに(para)
呼ぶ(kaleo 英語のcall)ことです。そばにいてくれる忠節な仲間は大きな励ましになります。

parakleetos

聖霊は「助け手」ないし「慰め手」といわれています。

parakupto

かがみ込むことを意味します。空になったイエスの墓に入った弟子たちが
「前方にかがんで」その様子を見たことについて使われていますが、」(Jn20:5,11)
それと同様な態度で真剣にみ言葉を「熟視する」よう
ヤコブはこの同じ動詞を使って勧めています。(Jas1:25)

paramutheomai

(1)訓戒する(2)慰める の2つの意味(ニュアンス)がある言葉です。
para(近く)+mythos(話)で、親しく話し掛けることを意味します。
(parakleesisも「慰める」という意味ですが意味合いが異なっていることに注目。)
例えばイエスはラザロの死の際に
その姉妹たちに語り掛け慰められました。(Jn 11:19,31)
テサロニケ第一5章14節では「憂いに沈んだ魂に慰めの言葉をかける」
ように勧められていますが、ここではparakaleoではなく
paramutheomaiでが使われています。弱っている人を助けることには
ときには間違った物の見方を正すことも関係しており
この語の2つの側面である訓戒と慰めの両面が確かに必要といえるでしょう。

paraptoma

fall besideから「罪過」の意味になります。(Mt6:14, Ro5:15:16:17:18:20)

paratitheemi

そばに+置く(titheemi)から、「託す」の意味になります。

parerkomai

erkomai(来る)にparaがついて「過ぎ去る」を意味します。
(Mat5:18, 2Pe3:10, Re21:1)

paristeemi

「そばに立つ」「差し出す」を意味します。(Ro12:1)

parousia

「臨在」パルーシアは聖書翻訳によって様々な仕方で訳されていますが、
Vineの辞典が説明しているようにpara(with)とousia(being)が
組み合わされて到着してその結果としてそばにいることを意味しています。