Pascal
パスカル
1623−1662
「人間は考える葦である」という言葉を通しパスカルは、人間が葦のような
弱い存在であると同時に、動物とは異なる考える能力を持った
崇高な存在であることを私たちに思い起こさせてくれてくれます。
そのような弱さや人間のはかなさから救ってくれるものは
キリスト教に他ならないことをパスカルは「パンセ」の中で強力に示しています。
神の存在について:パスカルは奇跡的回心を経験し、神を信じてはいましたが、
理性によっては神の存在や非存在のいずれも証明できないと考えました。
有限の存在である人間が無限の存在である神を知ることなどできないと
彼は考えたのです。しかし神を信じることと信じないことの結果を比較考量
して、神を信じることに損はないと結論したのでした。
この時代まで神の存在はあたりまえのこととされ疑問視されることは
ありませんでしたが、だんだんと理性の時代に入るにつれてそのあたりまえ
とされたことさえ根本から考えなおそうとする傾向が出はじめ、
いわゆる「啓蒙思想」は光を照らすという名目でキリスト教にとって有害な影響
を与えるものとなっていったものもありました。
キリスト教こそ真の宗教である:このように神を信じることに「賭ける」ようにと
奨めたパスカルでしたが、「パンセ」の中でキリスト教こそ唯一の正しい宗教
であることについて強力に弁護してもいます。とりわけキリスト教の正しさは
預言により証明されるといいます。「私は相反する多くの宗教があるのを見る。
ゆえに1つのほかはすべて偽りである。・・・キリスト教をみると預言が存在
する。これはだれにもできないことだ」とパスカルは言います。(693)
たとえばマホメットは預言されませんでしたが、イエスは預言されていました。
(599)
世について:パスカルは「初期キリスト者と今日のキリスト者の比較」と題する
短編の中でキリスト教会が世のものとなっていることについて触れ、「かつては
教会と世の本質的な違いが知られていた。それに反して今日ではほとんど
同時に両方に身を置いている。秘跡にしばしばあずかり、またこの世を楽しむ」
とキリスト教の現状を率直に注解しています。
洗礼について:同じ文書の中でパスカルは「誕生したばかりの教会では洗礼志願者
に洗礼を授ける前に教育を施していた」こと、そして彼らには悔い改め、告白や
心の真の回心が必要であったことについて言及しつつ、
「ところが今日では洗礼は理性の使用以前に子供に与えられている」と、
もともとのキリスト教におけるバプテスマとの違いについて言及しています。
(参考文献):「パンセ」、パスカル著、前田陽一、油木康訳、中央公論新社