Xenophon
クセノフォン(前480〜355頃)
「キュロスの教育」:キュロスの生涯を綴ったもの
「ギリシア史」:テキディデスのペロポネソス戦争史を引き継いでギリシアの歴史を綴る
「ソクラテスの思い出」:ソクラテスの最後についての記録
バビロンの攻略について:クセノフォンはキュロスによるバビロンの攻略について
かなり詳しい情報を述べています。それによるとキュロスはバビロンの城壁が
あまりにも高く攻略不能に思えたため(Jer51:58)、包囲して飢饉になるのを待つことを
提案したこと(Cyrop.7.5.7)、町を守っていた川はかなり深く壁による以上に
それが防壁となっていたこと(8)を伝えています。
しかし水の流れを窪地に導くという提案がなされ建設が行なわれます。(9-11)(Jer50:38)
それでも敵は20年以上の食料の備蓄があったためその建設を侮っていました。(13)
しかしキュロスは町である祭りが行なわれており、夜中飲んでお祭り騒ぎの最中である
と聞くと(Isa21:5)、暗くなるやいなや水を窪地に導き、川は渡れるようになります。(15-16)
彼らはバビロンの町を知っている者を先頭に王宮への最短路を進みます。(24)
守っている者たちもいたはずですがある者は殺され、また叫んだものには仲間のお祭り
騒ぎをしている者であるかのように見せかけて通過していきます。(26)
王宮に着くと何事かと門が開けられますがキュロスの軍隊は王宮へとなだれこみ
王とまわりの逃げ惑う者たちを圧倒しました。(28-30)(Da5:30)
ここでキュロスは家の中にいるものは外に出てはならないとのお触れを出し
戸外にいるすべての者を殺させます。(31)(Isa26:20と比較)
夜が明けて人々は王が殺されバビロンが攻め取られたことを知ります。(33)
殺された者たちの埋葬が許可され(Isa47:9と比較)武器を放棄することが
求められます。(34)
ベルシャザルについて:バビロンの最後の王について名前は挙げていないものの
若く、残忍で横柄だったこと(5.2.27)が述べられています。
その傲慢な性格はダニエル5章からも読み取れますが(Da5:2,22)実際には
酒の力で強く見せかけただけの小心者であったといえるかもしれません。(5:9)
らくだの軍隊:イザヤの預言はバビロンの攻略に際し「らくだの戦車」が活躍する
ことを予告していましたが(Isa21:7)、クセノフォンはキュロスがいろいろな戦いにおいて
確かにらくだを使用していたことを証ししています。ある戦いではキョロスが
らくだを放ったところ彼の予想通り(7.1.22)敵の馬は肝をつぶして逃げたり棒立ちに
なってしまい役に立たない存在となってしまいました。(7.1.27,48)
その他のペルシアの習慣:「キュロスの教育」で提供されている情報の中には
エズラ、ネヘミヤ、エステル記の理解を助けるものも幾つか見出されるようです。
キュロスは真夏の2ヶ月をエクバタナで過ごしましたが、(8.6.21)もしユダヤ人の
エルサレムへの帰還を許す布告がエクバタナから出されていたのであれば(Ezr6:2,3)
その布告は「キョロス第一年」の夏つまり西暦前538年夏に出されたといえるかも
しれません。ユダヤ人が最初にエルサレムに到着したのは「第七の月」つまり
9〜10月ですから、これは西暦前537年であったといえるかもしれません。(Ezr3:1)
エステル記には「王の早馬」についての言及がありますが(Est8:10)、この駅伝制は
「もっとも速い」方法であったとクセノフォンは述べています。(8.6.17-19)
ソクラテスの弁明について:ソクラテスは「国家が信ずる神々を信じず、別の新奇な
精霊的なものたちを持ちこみ、若者たちを堕落させる」との容疑で告発され
死に処されましたが、パウロも「異国の神々を広めているらしい」と批判されたため
(Ac17:18)彼らが知らないで崇敬の念を示しているその神について伝えていることを
巧みな仕方で説明する必要がありました。(プラトンの項も参照)