Zwingli
                 ツヴィングリ
                (1484−1531)

聖書にかえれ:ルターにはじまる宗教改革をさらに進めていっそう
聖書を重んじたのがツヴィングリでした。
「一切の真理は福音のうちにあり」「人間の教えや規定は救いのため
には何の役にも立たない」(67か条、15,16)と考え、中世の様々な
習慣を廃止していきました。
”チーズ、バター書簡”によって課されていた食物規定はローマの詐欺
であるとされ(24)、「時や場所を規定で縛る」祭日や巡礼は否定され
ました。(25)人目を引く聖職者の服装や髪型は無意味とされました。(26)
彼は教会の中に偶像や十字架を置くことを禁止しました。またマリア崇拝
について「マリアを神のごとく尊崇することを禁じるからといって
彼女を卑しめているわけではない。また仮に彼女に(そのような)尊厳と
権威を与えたからといって、彼女自らこのような栄誉を決して受け入れない
であろう」と興味深い注解を述べています。

主の晩餐について:ルターと大きく対立した1つの点は聖餐についての
理解でした。「これは私の体である」というときルターは伝統的な理解
である、パンがキリストの体に変化するという考えを保持しましたが、
ツヴィングリはこれを象徴的な意味に理解しました。
ちょうどイエスが「私はぶどうの木です」と言ったからといって、それを
文字通りのぶどうの木と理解しないのと同じことです。
そのパンを食べる人はそれが肉となっていることを感覚的に感じるので
しょうか?イエスがご自分を「命のパン」になぞらえたとき、その意味を
説明され「私のもとに来る者は少しも飢えず、私に信仰を働かせる者は
決して乾くことはありません」(Jn6:35)と言われることにより、
それは文字通りのパンを食べることではなく、イエスに信仰を働かせる
ことによって永遠の命が与えられるということを述べていたのでは
ないでしょうか?キリストは私たちと同じ種類の肉体となられたことを
考えると、アウグスティヌスも言うように「キリストの体は私たちの体と同様に
1つ以上の場所にあるはずがない」といえます。これに反することを
教えることはキリストを天から引き降ろすことになりませんか、と
ツヴィングリは述べています。