はじめに
私は今回このレポートを書くにあたって、今まで学んできたことの中で興味あるいくつかのチャプターをまとめる様な形式にしていきたいと思う。そして今回主にSecond
language learning Key concepts and
issuesに記載されている内容を取り扱っていくつもりである。
まず私の場合母語は日本語であるため、以前配布していただいたチャプター内容の一覧表を日本語で書きなおしてみることにする。
1.1
はじめに
1.2
よき理論とは?
1.3
今まで言語とはどの様に見られてきたか
1.3.1 言語の本質についての様々な観点
1.3.2 能力とその運用
1.4
言語を学ぶ過程について
1.4.1 「自然」と「教育」と
1.4.2 モデュラリティー
1.4.3 モデュラリティーと第二言語学習
1.4.4 第二言語学習での体系と変わりやすさ
1.4.5 第二言語学習での創造性と決まりごと
1.4.6 不完全な成功と化石化
1.4.7 第二言語学習での母語の影響
1.4.8 第二言語を遣うことと学ぶことの関係
1.5
言語学習者の意見
1.5.1 言語過程としての学習者
1.5.2 個人差
1.5.2.1 認識因子
1.5.2.2 活動因子
1.5.3 社会の一員としての学習者
1.6 社会習慣のリンク
1.7 結論
これらの訳及びこれから書くであろう内容に所々おかしな節があるかもしれないが、そこは私の訳ミスであり、勉強不足であると思って少々目をつぶって頂きたい。
先ほど挙げた十にも及ぶ項目の中で、私は特に化石化、母語の影響、言語を遣うことと学ぶことの関係についてまとめながら自分の意見をのべていきたい。
本文
1.4
The language learning process
1.4.6 incomplete
success and fossilization
第一言語習得は広範囲にわたる様々な状況(例えば学校に行けないとか、親がいないなど)でそれが始まるが、5歳になる位までに非常に重要な成功の上限に達する。要するに母語をほぼ習得してしまう。大人ではなかなかそううまくいく場合は少ないと思うが、子どもというのは言葉の基礎をたった5年で習得してしまうなんて。しかし、この事は第二言語習得の場合には当てはまらない。正にさっき触れたことだ。
大人の第二言語習得者は、目標言語を話す人たちの群れ、native
speakers社会の中に入ったときにノン・ネイティブだと気づかれない事はまずない。ノン・ネイティブであると皆が気づかなくはないほど発音はおかしいし、文法の間違いもいつまでたっても直らないし、言いたい事がなかなかスムーズに言えずにいつも言葉を捜しているからである。幾らやる気はあっても、何年も勉強したあとでも、その言葉が話されている国へ住んでみたりそこで働いたにしても、結局きづかれてしまう。見た目が違う民族であればなおさらである。人とはそう言うものだ。「あっ、外人だ」と思って下手げに英語で話し掛けて、ベラベラな日本語の答えが返ってきた時なんかは普通に日本語で話せばよかったと思うし、お国はどちらですか?と聞いてフランスだとかイタリアだとかいわれた時には「日本語で聞いておいてよかった、この人アメリカ人ではなかったんだ」などと胸を撫で下ろしたりもする。これは私だけに限ったことではないと勝手に思っている事だが、ヨーロッパ系の人の顔を見れば大抵の人は事実に関係なくアメリカ人だと思いこむ人は少なくないだろう。そういうことである。
第二言語を100%習得するのはまずまれであり、大抵私たちの根底をなす中間言語組織のゴールは完全に一緒になる事はないと運命付けられているように見える。
一つの言語について学び続けている学習者の間で、ある時はっきりと進歩が止まってしまったように見えることがある。このように第二言語組織が多かれ少なかれある程度学習された段階で凍りつく状態、もしくは固定されたように見えるとき、一般にこの状態を化石化という。しかしこれはダイエットと同じで、成功している証である。それにも負けず努力し、この段階を超えればまた能力は伸びていくことが出来るのだ。実際私も正にこの化石化とやらを感じていた時があった。そうして暫くしてからアメリカに短期留学して、努力によってこの壁が超えられると言うことを体感した。自分の周りの環境を変えられない時には自分からいつもと違う環境に飛び込んでいくことも時に大事であり、自分が思っていた以上の収穫をもたらすことに気がついた。文法などはある程度今まで学んできたので、後はそれを遣う状況が私には必要だったのだ。また私は語彙力に乏しく、その力を伸ばしたかった。その問題も留学という方法によって解決の道が見えてきた。ただ、その解決の道である留学も短期であるため、すぐにいつもの生活に戻ってしまったが、化石化から本当に抜け出せるという事実を知ったことの大きさは絶大であった。
さて、ここで二つの言葉が登場する。@心理言語学 A社会言語学である。@は小さい子どもたちにとって簡単に習得できた言語が、大きくなるにつれて難しくなってくる。少なくとも部分的には、結局学習しても努力してもLADシステムを作り上げることができない。Aはより年齢の高い第二言語習得者は、社会の機会もしくはネイティブスピーカーの社会と完全に溶け込む機会もないとみなすための動機付けを持たないが、その代わりに外国人としての評価をされるかもしれない。子供は周りの子と溶け込んで一緒に遊びたいとかそういう気持ちだけでも結構何とかやって行けるが、大人は言葉が出来なければアウトであることが多々ありうる。
1.4.7
Cross-linguistic
influence in L2 learning
第二言語学習者の言語運用能力を見ると、母語やその他の言語の影響をうけているし、その事は学習者もすでに知っている。特に彼らのなまりですぐ分かる。つまり、発音が母語の音韻体系を残している。そして彼らは特徴的な間違いもする。分かり易い例を挙げれば、Don’t you like tomato?(トマト好きじゃないの?)と聞かれたトマトが好きなある日本人は、いや、好きだからとNo(,
I don’t).と答えたために本当は食べたかったトマトを食べられなかったり、相槌を打つ時にも自分が言いたいことと反対のことを意味してしまったりするなどがそうである。
学習者が文を創作する上でのこれらの対応する文に変換する時に起こる特徴的な間違いは言語転移と呼ばれる。しかし転移する際の間違いや正確に転移する事が大事なのかどうかという事については、いくつか振り子のように仮説があちこちふらふらしながら第二言語を研究しているガスのような人が1996年に提唱していることがある。
行動主義者たちは母語の習慣はとても断固としていて、深く根づいているため、言語転移することこそが第二言語を学ぶ上で起こる間違いと妨害の重要な原因だと見ている。
それに対して、中間言語主義者たちは第二言語を学ぶ上での母語の影響は軽視していた。しかしそれは彼らの研究対象が目標言語に向かう第二言語の創造的な発達過程を見ていたからで、母語との関係には重点をおいていなかったのである。なぜなら、彼らが研究対象とする第二言語学習者の成長過程では母語の影響が見えず、創造された分の表面上から分かるのは、幾つかのパターンだけだった。なお、中間言語主義者たちが唱えていたことは、その主義の名にふさわしく、母語からの転移は「間違った習慣」であり、その間違いも母語の影響を受けた間違いとはせず、中間言語によって生み出されたものだとしている。
今日、研究者達は前記のように第二言語を学ぶ上での重要な役割として相互において言語の影響を受けていると解釈している。しかしこの本の著者達はこれらの影響力の範囲とその性質上から、違った見解を見出すことも出来るだろう。
今の時点では、母語の影響を受けるのは当たり前であるとされている。日本語の「よりAだ」という表現や日本語の直訳のようになるところなどは英語からきた。私は個人的に、「もっともAのうちの一つ」という表現も英語からきたと確信している。日本人にとって、最もというのは、読んで字の如く、一番とかそういう意味であり、一番とか最もといわれるに値するものは幾つもあるものではなくて、一個しかないものなのだ。幾ら考えてもおかしいと思うが、英文を訳す時などはこの表現を遣わざるを得ない。だからこれも英語からきたのだろう。しかし、これが異文化理解というものなのだといわれたら納得せざるを得ない。
ESFチームは初期段階の文法生成において、学習者達が遣う第二言語の多くの言語を調査してみると、母語の影響をほんの少しぼんやりと見ることが出来ると論じている。けれども第二言語の文法が母語に与える変化の可能性は考慮に入れてはいない。母語から第二言語に影響するのは大きいが、第二言語から母語に影響することはそんなにないということである(L2→L1<L1→L2)。
普遍文法(子供が母語を習得するときに選択すべき文法規則に制約を加える、生得的な一連原理)の視点から見て、言語転移するときに起こる問題は、やや別に見てきた。もし第二言語学習者が彼らの根底にある普遍文法に直接接近し続けたなら、母語の影響が第二言語成長の範囲において目標言語からもっと離れた所にだけ作用するだろう。これに対して、もしユニバーサルグラマーに接近するのが間接的だけだとしたら、母語を規範として母語の影響を既に受けていてもおかしくない。つまり、第二言語を学ぶ中心には、母語の影響がある、ということである。
1.4.8. The relationship between second language use and
second language learning
言語を運用するということは、話すことだけではない。私達の周囲で耳にする言語データを理解することは、聞くことを含め、運用の大事な側面でもある。どんな書き方をされていても、あらゆる形で入ってくる言語データを解釈し、処理することが通常の言語発展のために必要である。
その何種類かの言語インプットは普通の言語習得には不可欠だ、つまり、インプットなしでは言語習得がありえない、という意見の一致がある。
その見解はクラッシェンや他の人達にちょうど良い難しさ(ちょっと頑張れば理解できる程度)のインプットは第二言語習得のために必要だということが分かった。このことを言語インプット仮説という。
クラッシェンは書くことや発話(アウトプットやパフォーマンスともいう)をあまり大事にしていなかった。他の理論の観点はこの場合に関して幅広い様々な真相を与えてくれているが、言語を喋ることがそれを学ぶ事に役立つという常識的判断力を幾つかの形で立証している。
例えば、クラッシェンに対する行動心理学者の言語習得理論は正しい言語習慣を形成するのに役立つ規則的練習とみなしている。(行動主義:今までは言語習得には言語を話す事が助けになっているという主義)
しかしながら、様々な現代の理論家はまだ言語生産の練習機能を第二言語システムのコントロールしたい時や、スラスラ喋りたい時に強調している。
例えば、理論家の情報処理説では一般に言語能力は境界線が曖昧で、知識の要素と使う力の要素の両方で成り立っている。つまり、使うために知ってる事の要素は様々な所から来ている。
ユニバーサルグラマーでのパラメーターセッティングから組織的な教室での教育にわたる一方で、この立場での調査員達は第二言語使用や第二言語パフォーマンスが二番目のスキルの要素を発展させるのに重要な役割をしているとみなす。
クラッシェンの見方により強く対比する考え方は、いわゆる「理解可能なアウトプット仮説」であり、スウェインや彼の同僚達によって論じられた。スウェインは文法を知らなくてもインプットできるが、文法を知らないとアウトプット出来ないと指摘した。
メッセージを理解するにも、私達がその文法に注意を払う必要がなければ、なぜ文法を学ぶことを強いられければいけないのか?
その一方で、私達が選択した第二言語(英語)で何か言おうとするとき、その何かを言いたいがためにどの構文が当てはまるとか、この文法は使えるとか使えないなどと考える事をしいられる。
話すということは、実際に目標言語の文法がどう使えるか考えるテストになってしまう。勿論、喋れば相手から何らかの反応が来て、言ったことを正しく直したりできる。
さて、今までは言語入力と出力について色々な考え方を見てきたが、もう一つ方法があって、言語学習理論を運用という点から区別できるというのである。それはまた第二言語の相互作用についての考え方と関係がある。それは言語学習者が毎日の会話などを相互作用だとみなしている時である。
これから相互作用という新しい考えが登場する事になる。それには二つあって、心理言語学的なものと、社会言語学的なものとから説明できる。
心理言語学的な観点からすると、第二言語の相互作用は、第二言語学習者個人の受けている言語入力に微調整を加えるような機会を提供するから面白い。ここでいう入力とは、内なる欲求(第二言語学習の発達における現状)によく適合しているということを言っている。どうやら学習者が必要とするとするときにいつでもネイティブスピーカーと話せるような機会が必要らしい。
つまり、学習を促進させる適度な難しさが結果として発話とつながるということだ。クラッシェンの言葉に置き換えると、「理解可能なインプットを提供する」という事らしい。規則的なやりとりは、クラッシェンに影響をうけた学者達に熱心に研究された。
相互作用は言語理論学者にとっても間違いを訂正することが第二言語学習者またはその能力の発達に必要かどうか最近よく議論されているため、面白い。目標言語の平均によると、こういうことは受け入れられないよという事こそが間違い訂正をいみしている。でもそれは第二言語の相互作用においては、間違ってるということをあからさまに指摘されることも、正しく言い直される事もある。
なぜ第二言語における間違いを正すことの是非が問われているのだろうか。それは、学習者が熱心であっても間違いつづけるなど、訂正することがあまり効果的だと思えないからである。
現在の理論学者には自然に正しい言語をインプットすることだけが効果があり、間違いを正すことは殆ど効果がないというひともいるし、間違いを正すことに価値を見出だしている人もいる。
以上のような様々な言語学的観点はなんと一つの共通点を持っている。それらの理論は学習者に働いていたり、発達させている比較的自律的な第二言語システムとして捕らえているというのである。それから+であれ−であれ、多かれ少なかれよりよく改善されたインプットデータとしてシステムに入力する方法であると捕らえているのだ。
今度は社会学的な観点からすると、また以上に挙げてきたこととはかなり違ったものである。言語習得の過程は基本的に社会的であると見なしているのである。すなわち、学習者の自我も、言語知識も、相互作用の過程で協力して構築され、再構築されての積み重なりなのである。それがどの様にして行われるかの詳しいことは、理論ごとに異なる。
理論家達の中には第二言語習得を広い意味で捉えて、新しい、会話などの行為を初学者として段段に覚えていくという風に捉えている人もいるし、また別の人は英語の上手な人とそうではないひととのやりとりを学習者が言葉を遣うように新しい足場を与えられ、そして恐らく新しい言語を学ぶ方法を見出すため、調べることに詳しいところまで熱心に分析する。
結論
化石化:ある程度学習段階が進んだ人に起こる問題。学習能力の発達が一時期止まってしまったように見える事。努力などによってまた向上する。
言語間の影響:ガスは言語転移を間違いと妨害の重要な原因とみているが、中間言語主義者たちは母語の影響は関係ない、学習者が引き起こす間違いと見られているものは実は間違いではなく中間言語というものだとしている。そして今日母語の影響を受けるのは当たり前だとされている。
第二言語を遣う事と覚える事の関係: クラッシェンは何よりもインプット(聞く・読む)が大事と主張。それに対してスウェインはアウトプット(書く・話す)こそ大事なのだと主張した。そこへ今度はどちらも大事だという相互作用という考えが発表された。
今回は特にこの3つについて簡潔にまとめてみたが、気が付いた事は、どのチャプターも今日では当たり前とされていることなど色々あるなかで一番良い結論に落ち着くまでには沢山の学者達が一つの事について幾つもの仮説や主張を重ねてきたということである。それには長い年月と沢山の研究を重ねてきた事がうかがえる。そしてその行き着いた内容からはとても納得させられたり、新たな興味や好奇心をかきたてられたりしている。
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